あおをすくう嘘

 高い時計塔からこぼれおちたかすかな音を一粒ひとつぶ拾い集める夢を見て、まだ会わない君を知った。ビニール袋いっぱいになった時を指先でつまみ上げ、日の光を透かしてみると、僕が出会ったはずの君が既に、ばらばらに忘れられていた。

 一瞬で消える春は物憂い。

 運命は予め用意された歪な学校という名の箱に入れられ混ぜられ、ただ無用でしかない微塵の芥だった僕たちは無抵抗に、社会という荒唐無稽を演じる材料となる。誰かによって予め作られた誰かの運命を生き、谷底に昨日の夜の残り滓が沈む絶望的な光景の中で、君だけがなににも混ざらず雲のように掴みどころがなく風のようにつかまえられず中身も輪郭も欠けた抽象観念の耐え難い連続から逃れて淡い朝の夢のように、空に滲む宇宙開闢の薄明のように、ひっそり光るのだ。

 春は物憂く、君は遠い。

 彼岸ごろ、昇降口脇の花壇に、放射状に花開く、リコリスラジアータを見た秋の記憶。赤い君の頬を撫でた、いつかあったかもしれない可能性としての秋を思い出す僕は今、太陽をはさんで対局の位置で惰眠を貪る。はて、昨夜の雨でいかほど花は散っただろうかと、孟浩然然と、船を漕いで夢へと旅立つ先にしか、君はいない。

 春のひだまりのようななまぬるい風は秋から遠く、生乾きの洗濯物ほどの中途半端な感傷に浸るうちに時が過ぎて、気づけば君に近づいている、なんて期待は無意味だと思い知らされる。溺れて死んだ金魚のように光る錦糸の如く美しい鱗を剥がして散らし、脚色する過去と未来、その中間にある僕と君だけが惨めにあやなし途方もなく愛しい苦しい。息が詰まり言葉を失う窒息寸前の僕らにしか見えない美しい景色があった。戯画でしかないイマの、クズでしかない僕と君の愚かな残像は加護もなく化学反応で灰になって燃えて、いつか僕は空になる、君になる、それだけが救いだった。

 結末だけが決められた物語を生きる君も僕も予定された運命に抗うほどの生への執着は皆無だった。燃やされて灰になって土になって空になって風になって、セイタカアワダチソウとススキがゆらゆら共に揺れる河原でたたずむ僕達以外の誰かの姿を、愛を悪を、信じて受け入れるだけだ。

 夏も冬も何も奪えずずるずると時に流される僕は、君から一番遠い春をいま生きている。

 泣いている君の涙も孤独も胸に隠した毒も悪もやがていつか空になると思えばなにもかもが美しかった。君がいなくなってから空を見てもどこまでも透明な青は澄んで冷たくて、尾長の長い尾が宙を流れるように揺れるのを眺めるうちに僕も、君の場所まで届けばいいのにと願った。


 曇った眼鏡越しに見る春は適度に色と輪郭を失いピンク色にぼやけ、誰かに君の面影を重ねるのが容易かった。勘違いでも嘘でも単なる言葉でも、君がいると思うだけで僕は、僕の心臓はしばらく鼓動を止めずにいてくれる生きるのだ。

 遠く空で砲弾と弾丸が飛び交い、ウイルスが気まぐれに知らない人々の命を奪っていく春。心に殺された君だけが不思議と誠実さを欠いた鮮やかなピンクに包まれていた。破壊された街がどこか着色したインスタ画像のように禍々しい虚飾に見えるせいで、現実だとは信じられない、君だけが、薄いピンク色の君だけが真実だ。散大した君の瞳に流れ込む短い動画のストリームに飲まれぬように、僕はひたすら、最適化された時間と課題の相克に身を委ね、黒い表紙の日記帳に、黒いペンで、日々の記録を書き込んでいる。君以外に現実はなく、薄い罫線すらも紙上から浮き立って歩き出して、君以外を殺す。僕と君以外を。

 昨日組み立てたプラモデルを解体して、もう一度組み直して、毎日をやり過ごそうと試みた。愚かな期待は容易く覆され、二度と組み直すことなどできなかった。

 君との記憶は君とともに空に溶けた。中途半端な優しさが君を傷つけ、解体し、壊してしまった。

 坂道をくだりながら蹴った小石がどこまでも転がり続けるのを笑った君は、笑い疲れて最期に泣いた。証明として裂ける君の手首の腱の断面からのぞく鮮やかなピンクが日の光を反射していた。繰り返しを断つために君は、未来を掴もうとするその手の力を断つしかなかったのだろう。


 白樺の幹が視界のなかで重なり合って、雪との区別がつかない森で君は、白い衣をまとい、死に近づいた。

 ロッジの暖かな空気は木の長い眠りを、生きた証を燃やした代償なのだと知りながら、僕達は温もりを求めずにはいられなかった。

 足音が遠い。獣が温もりを求めて徘徊している。冬籠りをしそこねた飢えたヒグマをマタカリㇷ゚と呼ぶのだと君が教えてくれた。気性の荒いヒグマはやがて飢え、死ぬ。鳴く。吼える。

 君のきれいなみみたぶは赤く、薄い皮膚の下を血が巡り、軽く触れて内側の熱を感じ、血管、けっかん、けっかん、と頭の奥でなんども言葉が巡った。

 僕らは予め欠けていた。果てた後、予め出すべきものも満たすべきものもなかったと悟る君と僕は、白樺の長い記憶で肺を満たしながら、いつかの終わりを待ち続けていた。


 風がどこから吹くのだと問う君に、答えが知りたいのなら流れ星に頼めばいいよと夜を見上げた。

 だめ。流れ星には、新しい流れ星を三つお願いするの。次の三つの流れ星には、また三つずつお願いするの。世界中の人口を満たすくらいの流星で空を埋めれば、誰も苦しまなくて済むはずだから。

 そんな世界はどこにもないのに。と、僕は言わなかった。


 瞼を擦る君の薬指に指輪は似合わないと知っていたから、初めて嘘をついた日の月の夜の光をこっそり指の上に乗せた。契りは一夜にして破られ、虚構は予定通りの愛の幻想を見せては、忘れられないほどの恍惚とした陶酔へと二人をいざなった。

 屋上にしのびこんで、給水タンクに花を落とし、暗闇に淡い光を見せた瞬間から、灰になった骨のようなくすんだ白を、脆い、恐怖の感情に似た白い甘みを、紺碧の夜空に泳がせて、僕達だけのの黒い真実を追い求めた。

 自由だけが死と生と性と再生と再生産の境界にある曖昧な障壁を越えるよすがとなるのだと嘯いても僕達はいつか消える。疼く古傷を抉り、よみがえる記憶の慰藉に頼り君のいない世界への恨み節も、今日だけは封じておく。ただ、好きだと、甘い言葉だけで夜を閉じた。

 残酷なさがが、僕達の矛盾が、胸に突き立てた鋭い刃となって互いを傷つけた。重ね合うからだが互いの熱を感じながら、ひとりでしている時と変わらないくらい気持ちよくて虚しいだけの戯れだった。暑い夕べの、オレンジ色が滲む西の空には、羽ばたきから落ちる蝶のような頼りない飛行機雲の尾が太く伸びていた。夏の線香花火の記憶を重ね、合わせ鏡に見た性の不安定を、薄い命に対する不満を、あまりに短い人生と、あまりに長すぎる退屈を恨んだ。僕は酔った、詩に、君に、死に、君に、酔った僕は素面の君を追いかけることができなかった。


 有形無形の愛や恋、不安定な性や生、存在の有無に当惑し、行き場を失った思考は知や学びのもたらす一過性の恍惚だけを求め続け、得られた非物質的な存在の向かう先の果てにはやはりなにもなかった。

 中継地点に過ぎない僕の場所は、ゴールにいるはずの君と変わらないのに、なぜか遠い。

 首の細いガラスから香る酒の豊かな甘い芳香に酔い君を思い出す。うまく消えない闇に隠れる黒曜石の一瞬の鈍い光に似て、君の生きた、君のいた記憶が、君といた記憶だけが宙を二三回転しながら、春のシーツに、ひそかにしのびよってくる。


 僕は絵を描く。垂直線をさけて、水平に幾本もの線を引く。これだけがこぼれそうな僕達をすくう水平線だと信じて。

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