虫喰病

朝樹小唄

虫喰病

 虫喰病。それは活字を摂取しないと死んでしまう病気だという。発症頻度は百万人に一人程度、発症の原因も時期も不明である。患者が読んだ後の本の文字が抜けてしまう事と、本の虫という慣用句から、その病は虫喰病(むしくいびょう)と名付けられた。奇病ではあるが、ただ本を読めばいいというだけで、日常生活においてそこまでの支障はなく、患者はごく普通の暮らしを送るのだという。


 大学のキャンパスのベンチでその人には出逢った。昼休み、購買で買ったのであろう弁当の空を傍らに、それが風で飛ばないようカバンで押さえつけながら、本を手に取っていた。3限が空きだからどこかでゆっくりと昼食を取ろうとしていた私は、ひとまずペットボトルのお茶でも飲もうと、座れる場所を探していた。先客がいることに少し戸惑いはしたが、すぐ立ち去るんだしと思って、人がまばらな中庭のベンチで、その男性の反対側の端っこに座った。

 外は春の陽気とはいえ、こんなところで一人食事をしていたその人が気になった。スマホを確認したり、お茶を飲んだりしながら、奥の講義棟を気にするような素振りも交えつつ、私はちらちらと彼の挙動を盗み見ることにした。

 その横顔は真剣にページを凝視している。一定のリズムで瞼が上下して、縦書きの文字をなぞっている。ある一瞬、その動作がピタリと止まり、顎に手をやりながらじーっと一ヶ所を見つめ始めた。まるで何かを吟味しているように。そして、その人はページを指でつーっとなぞると、明朝体の文字群を人差し指と親指でつまみ上げた。

 あ、虫喰病だ、初めて見た、とひどく平坦な感想を思い浮かべた。自分の言葉ではなく、それこそ本に出てきた言葉みたいに、頭の中に活字のイメージが出てきた。

 目の前の男性は、自分の目線より少し上に指を上げると、エビフライを丸々一尾食べる時みたいに、文末の「。」から丁寧に口へと文字を下ろした。口を閉じると、目を閉じてゆっくりと咀嚼する。再び目を開けた時の少し恍惚混じりなその表情に、思わずドキッとした。

 つい半開きの口でじーっと見つめてしまったものだから、言葉の食事を終えたその人に悪事が見つかってしまった。

「すみません」

咄嗟に謝ったが、男性は穏やかに続けた。

「いいよ、初めて見たんだろう。虫喰病」

「ほんと、なんですね」

まさか話し掛けられるとは思わなくて、続けて不躾な質問を投げ付けてしまった自分を呪った。しかし、男性は気にも留めないようで、のんびりと話し続ける。

「そうだよ。こうやって気に入った言葉をね、食べるんだ。そうしたら頭の中に残ってくれる」

「食べるって……どんな感覚なんですか?」

「普通に食事をする時みたいに、味もするよ。優しい言葉なら仄かに甘かったり、少し耳に痛いような言葉はピリッとする」

「耳に痛い言葉まで食べるんだ……」

「……たまに辛口のカレーが食べたくなるのと一緒かな」

ふふ、と笑ってしまった。見たことのない病気を患っている人だからと勝手に構えてしまっていたけど、言葉を食べるというだけで、何も私の感覚と変わらないんだな。奇異な目で人を見てしまった自分が恥ずかしかった。

「今のはどんな味だったんですか」

「うーん、旨味がすごかった。出汁が効いてる感じ」

例えるならあれ、鯛のお吸い物みたいだった、と続けるものだから私はさらに笑った。


 普通の食べ物を食べる「食事」と区別して、本から食べるのは「書句事」なんて呼んだりするんだよ、と彼は教えてくれた。書に句に、こんな字と本の端っこの余白にシャーペンで書き込む。後で消した時に跡が残らないよう、なるべく力を抜いた薄い字。音にするとどっちも「しょくじ」で区別がつかないけど、虫喰病にかかるような奴は大抵書き言葉が好きだからさ、と笑った。


 いつもここで食事も書句事も済ませるんだ、食堂でやると流石にぎょっとされるからと一週間過ぎた頃に教えてくれた。付け加えるように、あの時みたいにねと意地悪な顔もしてみせる。毎日でもないけど、時折私はこうしてベンチに足を運んで、なんとなく一緒に過ごすことが増えていた。暑さが盛りになっても、その暑さが和らいでいっても、彼は変わらずそこにいて、季節はどんどん深まっていった。

 

 肌寒さが頬をかすめる日だった。今日の彼はやたらに、文字通り本に食い入っているな、と思った。他の虫喰病の人たちはどうなのか分からないが、彼は「食事している所をずっと見つめられていたら落ち着かないだろう」と、私に見られるのを嫌がる。だから、いつも私は隣に座って、彼が読書をする音だけを聞いていた。私は私でスマホを見たり、時間割の確認をしたり、次のコマの予習をしたりしながら。今はどんな風な言葉を読んで、何を想って、自分の中に取り入れる言葉を選んでいるのだろう、とページをめくる音で想像する。

 だが、今日はその様子がおかしい。やたらに時間がかかっているな、と思う時もあれば、読んでいないのではないか、というぐらいすぐに次に行ってしまったり。喉を鳴らす音も不規則で、それも何回も聞こえる。普段はこれだ、という一文程度を食べるのだと聞いていたけど、やたらに何回も腕を動かしているのも視界の端に映る。

 しばらく音がやんでから、トントンと肩を叩かれた。驚いて彼の顔を見ると、目を伏せたまま読んでいる本を私の方に差し出してきた。

そのページには右上から

す き で す

の四文字だけが残っていた。

「お陰で食べ過ぎた」

私の目を見つめながら、少し困ったような顔で彼は笑った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

虫喰病 朝樹小唄 @kotonoha-kohta

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ