修士の異常な愛情

名取

The Strange Love of Master's Degree



 高橋修士一年が自殺した。ブラック企業に拷問ハラスメントを受けて自殺した会社員のニュースを見て、「恐ろしい! 自分はとても社会に出られない!」と言うや否や、トイレで首を吊って死んでしまったのだ。


「この研究室から死人が出たなんて知れたら、研究費の削減どころか、私ら全員大学から追放される!」


 生粋の不安神経症患者の家永教授がメーリスにそんなメールを流し、我々院生・修士5名が緊急招集された。熱烈な愛校心を持つ田中、スタバ通いの加藤、就活鬱の志賀、カタコト日本語の林、そして車椅子に乗った私。研究室の机を会議室のように並べて、エナジードリンクを机に置く。


「高橋はもともと病んでおりました!」


 田中が突然椅子から立ち上がり、叫ぶ。

「学校にもほとんど来ず、アパートに引きこもりきりでした! 高橋は勝手に死んだのであります! 大学とは無関係ではないでしょうか!」

「世間もそう考えてくれればいいんですが」

 加藤がグランデサイズのダブルエスプレッソソイラテを吸いながら反論する。

「仮にも大学院生という身分、実家を離れて一人暮らし、サークルもアルバイトもやっていなかったとなれば、最も身近な人間は我々研究室の人間だった……と世間は考えるでしょう」

「そんなことになったら、」

 黙りこくっていた志賀が悲痛な叫びを上げる。

「書類選考にも通らなくなる!」

 私はそろそろと手を挙げ、「ちょっといいでしょうか」と教授を伺う。

「ど、どど、どうぞ?」

「トイレにある高橋の遺体は、もう処理したのですか?」

「あ、そういえばまだだったなあ」

 加藤が口を挟む。

「そりゃ下手に触って、指紋や証拠が残りでもしたら、ヤバいですからね」

「私がやりますよー」

 ニコニコの笑顔で手を挙げたのは林。

「大丈夫ですよー」

「いや、やめてください林さん。日本人の大半は外国人が嫌いだ。世間に高橋のことが明るみになったら、たぶんあなたが一番ひどい扱いを受ける」

 ニコニコ笑顔の林をなんとか説得した私は、再び発言をする。

「何か、誤魔化す策を講じなければなりませんね」

「エナジードリンクは明帝大学の命! 明帝大生ならこれを飲め! 明帝大を形作るエッセンスが入ってるんだぁ!」

 頭上からエナジードリンクの缶が降ってくる。田中が発狂してぶん投げたアルミ缶の数々が、私の目には、宙を漂う強固な分子結合に見えた。

「これだ」

 私は落ちてきた缶を両手に持ち、ぶん回して言った。

「ガスです。ガス漏れということにすればいい!」

「しかし、高橋の肺の中身を調べられたら、高橋がガスで死んだのではないことがわかってしまうでしょうね」

「アハハ、ログインボーナスログインボーナス」

 加藤と壊れた志賀が同時に言う。私は人差し指を上げて答えた。

「毒ガスを作って漏らしたのが高橋だったということにするんです。その罪悪感に耐えられずに首を吊ったということにすれば」

「なるほど。そういうことなら」

 家永教授は引き出しから液体ガスの容器を取り出した。

「これを使おう。私が趣味でこっそり開発してきたガス兵器だ」

「なんと。研究費の減りがやたら早いなと思ったら」

「常々臆病な私は、苦しまずに死ねる安楽死に興味があったからね。しかし、高橋の指紋やらはこれから付けるとして、誰がこれを気化させる?」

「私がやりましょう! 家永教授!」

 田中が真っ先に手を真上に掲げた。

「家永研究室ひいては明帝大学の名誉のため、謹んでその大役、やらせていただきます!」

「うん。じゃあよろしく」

 こことここを起動させると気化するからね、と教授は手短に操作を教え、ガス兵器を田中に手渡した。トロフィーのように恭しくそれを受け取った彼は、一目散に駆けていく。

「さて、偽装工作は済んだ。これからどうします?」

「ガス騒ぎ……いや、見ようによってはテロ騒ぎになりますから、しばらくはキャンパスが閉鎖されるでしょうね」

「ヤッター!! SSR!!!」

 私と加藤が話す中、林は志賀のスマホを覗き込んでいる。

 そこへ、部屋のドアが開き、私たちは一斉にそちらに目を向ける。

「あ、あのぅ。どうしたんですか? すごい大声で喚きながら、田中が廊下を走っていった気がしたんですが……」

「た、高橋!?」

 いかにも死んだはずの高橋その人であった。教授はその場に立ち上がり、わたわたと今にも窒息しそうな顔で言う。

「え、た、た、高橋……なんで生きてる!?」

「すみません。どうも縄の締め方が甘かったようで。げほ」

「なんてことだ! 今すぐ田中に連絡して、中止させてくれ!」

 私たちはスマホで田中に電話をかけ、メッセージなども送るが、反応はない。

「うーんダメですねー。私が伝えにいきますー?」

「やめてください林さん。あなたはひどい方向音痴でしょう」

「むうー」

「仕方がない。私たちだけで逃げましょう」

 加藤の言葉を皮切りに、避難が始まった。部屋のドアを開けたら、隣の研究室の奴らがたくさん廊下に立っていたが、気にしている暇はなかった。一体、田中はどこまでガスを撒きにいったのだろう。知る由もないけれど、きっとキャンパス中に広めにいったに違いない。彼は目立つことが好きだった。


「どけ! 邪魔だ!」


 噂はあっという間に広まるものだ。いつの間にやら学内の生徒から職員まで、全員がごった返す大騒ぎとなっていた。すでにガスが噴出された区域もあるらしく、死人を目の当たりにして、多くの人々がパニックに陥り、逃げ惑っていた。

「急ぎましょう。じき、この辺りにもガスが回る」

 小さな頃から足が悪かったので、車椅子の扱いには長けていた。だが、人が多いところでは、いつも邪魔者とされ、ガンガンと容赦なくぶつかられるのが常だった。今日もご多分に漏れず、私の車椅子は無残にもバランスを崩し、主人を硬い床に放り出した。

「くっそ。邪魔なんだよ!」

「車椅子で学校来てんじゃねえよ!」

 罵声が上の方から聞こえる。体のあちこちを踏みつけられ、痛みが走る。こんな腐った性分だ、自分はきっとろくな死に方をしないと思っていたが、これほど滑稽な死に方であれば、もう悔しさすら感じないというものだ。私が静かに目を閉じたとき、急に腕を掴まれた。


「有事に身体障害者を置き去りにしたなんて知れたら、大学追放だ!」


 家永教授だった。

 ひょろひょろの腕にグッと力を入れ、教授は私を担ぎあげる。筋肉がプルプル震え、今にも折れそうになりながら、私を運び始める。その様子を見て、加藤たちがどっと沸く。拍手をしてみたり、拳を振り回したりと、急にテンションが高い。

「教授! 尊いです!」

「てぇてぇ! てぇてぇ!」

「美しい光景ですねー」

 非常時に出るアドレナリンでハイになっているのだろう。変わらぬニコニコ笑顔の林以外は、おそらく。

 そうしてなんとかキャンパスを脱出した私たちは、最寄りの避難所まで無事にたどり着いた。このままでは共犯になってしまうということで、警察に何か聞かれたら、「全ては発狂した田中の仕業」「我々は無関係」という証言をする取り決めをした。その最中、テレビから当の田中の声がした。



「今は亡き高橋、そして尊い母校の記念すべき日に! 敬礼!」



 ガス兵器を作動させようとする彼に、機動隊が飛びかかる。カラン、と床に落ちるアルミ缶が、隊員の硬い靴底に、呆気なくグシャリと潰されるのが見えた。

 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

修士の異常な愛情 名取 @sweepblack3

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説