おひいさま

葎屋敷

触れてはならぬ

 触れてはならぬ。



 とうときものに触れてはならぬ。



 その想い、弾けて消えるだけなのだから。





「では、契約書に拇印を」



 そっと紙を差し出す老婆を上目に見る。しわがれた声に不気味さを覚えながら、私は自分の指に針を刺し、血で指紋を押捺した。契約書には働くにあたり守らなくてはならないことが綴られている。「無断欠勤禁止」といった一般的なものから、「おひい様を外に出すことを禁ず」といった特殊なものまで、その内容は様々だ。


 私の家は代々、この契約書に書かれている「お姫様」に仕えている。彼女は一族の巫女のようなもので、予知の力があると聞く。



「では、あなたにはお姫様の相手をしてもらいます」

「はい」

「ですが契約書にもある通り、アレに触れてはなりません。必要なものを近くにおけば、アレは自分でなんとかします。私たちが行うのは主に物の用意だけです」

「はい」


 老婆が粛々と説明を続けるのを、私は背筋を伸ばして聞いていた。



 正直、現代日本で「お姫様」なんて呼び方も、代々侍女が仕えるといった我が家の風習も古臭いように思える。しかしその古さが美しく思えるほど、この屋敷は神聖な空気に包まれていた。鳥の声すら聞こえない静寂に、俗世との隔離を感じる。



「お姫様は先程の契約書の内容を守っていれば、我ら一族に益を与えるもの。決して契約を破ってはなりません」

「はい」



 再三警告してくる彼女は私たち侍女の中で一番偉い人らしい。皆からこっそりお婆と呼ばれている、というのは十年前に死んだ母から聞いた話だ。



「あなたの母は大変良い侍女でした。あなたにも期待しています」

「はい」



 こちらを振り向かず淡々と言うお婆に嘘臭さを感じながら、私は形だけの返事をした。





 お婆に案内されたのは屋敷の奥にある一室だ。お婆は障子の前に立つと、部屋いるというお姫様に声をかけた。


「お姫様、入りますよ」


 彼女は返事も待たずに障子を開け、室内へと入って行く。



「こちら、新しい侍女です」

「は、はじめまして――」


 私は部屋に入ってすぐ、自己紹介をしようとした。しかし先の言葉が出でこない。


「おぬしがあたらしいじしょか!」



 眼前で厚畳に座るのは一人の少女。見た目からの判断になるが、推定五、六歳。白い着物に金の帯がその白い肌に合わさり、とても神々しく見えた。


「えっと、今日からお姫様に仕えさせていただく、海琴(みこと)と申します」

「ミコトか! うむ、えっとえっと……」



 お姫様は私の名前を聞くと、興味深そうに体を前へと乗りだす。しかしすぐにハッと身を引き、目を見開く。そして自分の服に手を当て、なにかを探し始めた。


「あ、あった!」


 お姫様が見つけたのは一枚の紙切れだ。それを袖の下から出し、広げて紙面に目を滑らせる。


「えっと、よ、よきにはからえ!」

「え?」

「えっとえっと、くるしゅうない! ういやつよ!」


 お姫様は堅苦しい言葉を並べる。どうやら紙に書いてある言葉らしく、彼女は一生懸命に目を動かしている。


「あの、これは……」

「それっぽい言葉を並べたいだけです。作ったカンペを読んでいるだけなので、適当に合わせてください」


 お婆曰く、お姫様は自分の立場に合った言葉遣いをしたいだけのようだ。



(と、尊い……)



 幼子が一生懸命背伸びする様子に、私はメロメロになった。



「はっ。精進いたします!」

「えっとえっと、うむ! くるしゅうない!」


 私が畏まって返せば、お姫様はにっこりと満足げに笑った。





「ミコト! みろ! きょうのふくはいいものだ!」

「あら、素敵」



 その日から私はお姫様の世話係となった。と言っても、お姫様は幼いながらもお着替えや食事の仕方は一人で問題ない。私の仕事は彼女の服や食事をその傍らに置き、彼女の話に付き合うだけだ。


「お姫様はすばらしいですね。ご自分でなんでもなされて……」

「うむ。わしはえらいのだ! なにせ、すっごくながいきだ!」

「そういえばお姫様はおいくつで?」

「せんさい!」

「それはすごいですねぇ」

「ふふんっ。そうだろう、そうだろう! もっとほめてもよいぞ!」


 私が単純な誉め言葉を口にするだけで、お姫様はすぐに機嫌を良くする。小さな胸を張って、誇らしげに笑う。その姿が可愛らしくて、ひとりっ子の私は妹ができたようで嬉しかった。





「お姫様、お仕事の時間です」

「うむ。ミコト、またあとでな!」

「はい。また後で」


 午後になるとお婆が現れ、お姫様をどこかへと連れて行く。このとき私の同行は許されない。お姫様のお相手をしない時間は清掃など、他の仕事をしなければならなかった。


 私は台所で雑巾を絞り、バケツと共に廊下へと繰り出す。


「あ、海琴ちゃん。雑巾がけ?」

「先輩」


 私に声をかけたんは侍女の先輩だ。主に食事作りを担当している。


「そうです、お姫様は仕事で。なにをしてらっしゃるんですかね?」

「さあ? 私も詳しくは知らないの。でも予言をしているって話よ。正直私は予言なんだって信じてるわけじゃないけど……。あ、これ内緒ね?」

「はい。正直私も信じてないんで」


 私は苦笑いしながら、先輩と二人で秘密を共有する。先輩と同様、私も予言なんてものは信じていなかった。


 かつて、人は幼子を神のものとして扱っていた。それは子どもの死亡率があまりに高かったからだ。一部の地域や家では幼子そのものを神に等しいものとし、崇めることがあるという。おそらく私たちの一族もそのひとつだろう。


「でもかわいそうね。あんな小さい子をこんな女しかいない屋敷に閉じ込めて……。一度も屋敷の外に出たことがないって話よ。大きくなったらどうするのかしら?」

「先輩は知らないんですか?」

「私も去年入ったばかりだからね……。七つになったら世の中に出す、っていう話もあるけど、そもそも私、お姫様がおいくつか知らないわ」

「千歳だそうですよ」

「あら、なら年上ね」


 私がお姫様から聞いた年齢を伝えれば、先輩はクスクスと笑う。子どもの可愛らしい冗談だ。私も初めて聞いたときは笑ってしまった。


「じゃあ、そろそろ持ち場に戻るわね」

「はい。それじゃあ、先輩。また」


 先輩と別れた後、私は雑巾がけに邁進した。懸命に身体を動かす中で、ひとつの事が脳裏に過る。


『あんな小さい子をこんな女しかいない屋敷に閉じ込めて……。一度も屋敷の外に出たことがないって話よ』


 先輩の言葉が私の頭をずっと巡っていた。





「ミコト! これはどうしたんだ!」



 お姫様はお仕事から帰ってくると、すぐに私が用意していたクレヨンに飛びついた。


「この屋敷なんにもないから、お姫様いつも暇でしょう? 実家から持ってきたんです。はい、これお絵かき帳です」

「でかした! よくやった! ミコトすき!」


 お姫様はぴょんぴょんとその場で跳ねる。無邪気に喜ぶその姿に、私まで嬉しくてたまらなくなった。ダッシュで近所の実家まで取りに戻った甲斐があるというものだ。


「うむ! ではさっそくかくぞ!」


 お姫様は畳の上にお絵かき帳で広げ、そこにクレヨンを走らせる。描かれる線はぐちゃぐちゃで、なにが描かれているかはわからなかった。


「お姫様、なにを描いていらっしゃるんですか?」

「ミコトだ!」

「え」


 私は一瞬固まってしまった。お姫様が描いたのはただの丸の集合体だ。人の形をしていない。


「よ、よくできています」

「そうだろう!」


 しかし、ここでそれを指摘するのは大人げないというもの。私がお世辞を言えば、お姫様はニマリと笑みを湛える。


「ミコト! おまえのなまえはどうかく?」

「海に琴です」

「うみか! わしはうみをみたことはないが、とてもうつくしいときく」


 お姫様の発言に私はハッとした。

 この少女は時代遅れのしきたりに縛られ、海を見たこともないのだ。


「お姫様、海見たいですか?」

「ああ。でもむりだ。わしはおひいさまがゆえに」


 淡々としたその様子に、私は一抹の寂しさを感じた。


「……お姫様。海、見に行きしょうか? 幸い、ここ意外と海には近いんですよ。急げば往復一時間で行けます」

「いいのか?」

「ええ。こんな娯楽もない場所に子どもを閉じ込めるなんて、虐待もいいところです。そうですよ、虐待です。もっと早くこうしなきゃいけなかった」


 私はお姫様の手を取る。その手はあまりに小さくて柔らかく、幼子の脆さを感じた。


「ミコト」

「さあ、行きましょう。大丈夫。私に任せてください」


 私はお姫様の手を引き、屋敷の門まで彼女を引っ張った。





「さあ、この門の先は屋敷の外ですよ」


 私は裏門の傍まで来ると、お姫様に語り掛ける。彼女は自分が外に出てはいけないと思っているのだろう。何度も後ろを振り返っていた。


「いいのか? ミコト。けいやくいはんだ」

「契約? そんなのもういいんです。あなたを守らないといけないって、この手に触れてよくわかりました」


 私はお姫様の手を握ったまま、裏門を開ける。そして外へと一歩出た。


「ほら、お姫様。これが――」




 振り返り、お姫様の身体を引こうとする。しかし突如、ものすごい力に私の方が後ろに引かれた。お姫様が動かないのだ。


「おひいさ――」


 お姫様の様子に違和感を覚えた私は、彼女を呼ぼうとする。しかしそれは叶わなかった。






 なぜなら、私の腕が泡のように膨れ上がり、血をまき散らしながら弾けたからだ。



「え――」



 なにが起きているのか問う余裕も、痛みに叫ぶ暇もなく。私の身体は瞬時に膨れ上がり、






 そして弾けた。



 命が尽きるその瞬間、笑う獣を見た気がした。





「お卑畏ひい様、困りますよ」



 その血まみれの少女の姿の化け物は、己の指についた血を舐めとっている。その前にはバラバラになった海琴の死体があった。


「儂トノ契約ニ触レタノハミコトヨ。ソレニ十年ブリダ、許セ」


 化け物は笑う。海琴を魅入ったのは己であるはずなのに、悪びれもしない。


「だから言ったのに」


 そっと呟いた言葉が死体に届くわけでもない。死体から目を背けるように、化け物に触れぬように、そっと踵を返した。





 触れてはならぬ。


 たっときものに触れてはならぬ。


 その身体、弾けて消えるだけなのだから。

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おひいさま 葎屋敷 @Muguraya

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