散る花は数限りなし尽く

白川津 中々

 花が咲いておりました。

 寒気の去り始めに風邪を拗らせたため床に伏せ、久方ぶりに外に出たのでございますが、細く、針金のように伸びていた枝に凛とした花弁が命を宿しているのを見ると、なんとも尊いなと思え、胸が暖かくなります。元より病弱な身体故か人並み以上に生きるという行為を肯定しがちなところは是正せねばならないのかもしれません。けれど、芽吹いた花をこの目に写し、どうして心に平常を保っていられましょうか。美しく木枝に満ちる花々はまさしく生命の神秘であります。それを前にして感情の発露が見られない人は、失礼ながら劣っていると断言してもよいでしょう。美を知らぬ人間は、等しく野蛮であり、低俗なのです。

 こう申し上げますと、私の事をなんとも鼻持ちならない嫌な奴だと蔑む方もいらっしゃると思います。確かにある種の人達にとっては私は途方もない馬鹿者であり、また夢想家として批判の対象となるでしょう。日頃働くわけでもなく、両親が残した財産で衣食住と、たまにお酒を頂いて過ごす身でございますから、立派に働きになっている人からすれば、鬱憤を溜める不愉快なフーテンと評されても仕方のない事でございます。もっとも私にとってフーテンなどといった称号は身に余る名声であり恐悦なのでございます。親の残した金で生き汚く暮らしいる物乞い以下の人間が不労を恥じない自由人の誉を受けるなど甚だ失礼な話ではございませんか。とはいえ、語源となった瘋癲という言葉には精神疾患者の意味もあると聞いており、そちらに関していえば、確かにそうしたきらいがあると言わざるを得ないでしょう。この世に生を受けながら何をするわけでもなく一日中呆けているような人間が正常であるはずなく、ともすれば精神に何かしらの異常が生じているのも納得の話。私は人にできる事ができない不具者であり、社会不適合者の烙印を押されるのも致し方ない存在なのでございます。

 しかしそんな私であっても、現世に生を受けたとあればやはり生きなければならないようで、病弱でこそあれ、人並みに死を恐れ、未練がましく欲望にしがみついてしまうのです。もし健康であり不具でない私が今いる私を見かけたのであれば、きっと後ろ指を刺して笑いの種にするでしょう。「なんだいありゃあ木偶の坊かい」と粗野な言葉を使い嘲るに決まっております。今にも死にそうなくせに腹一杯ご飯をいただき、働きもせずぼうっとしている私自身を軽蔑するのは、いわば摂理ともいえるでしょう。しかしこれは逆もまた然りで、例えば身も心も頑丈な大工に、まるで正反対の同一人物がいたとしたら、きっと彼は頑丈な自分を小馬鹿にしてこう述べるのです。


「図体ばっかり大きいんだから」


 

 勿論、私とて同様です。私は私よりも生き生きとした人間や世に出て働く者を側で見て、「どうしてあんなに頑張るのかしらん」と流し目で見る悪癖がございます。しかしそれは羨望を孕んだ侮蔑であり、決して憎らしいからそうしているわけではないのです。彼らからしてみれば働かない私がさぞ羨ましいでしょうが、私からしてみれば、真っ当に生きられる彼らが実に眩しく、あの花のように尊く思えるのです。


 この世に咲く命はいずれも美しく、また儚いものでございます。必死に生を迸らせ散っていく姿のなんと艶やかな事でございましょうか。私は、その様子をただ、眺める事しかできません。


 桜に鵯やってきて、枝を突いて花散らす。


 あぁ、尊い。

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