私の尊いひと

きざしよしと

私の尊いひと

 青い空の下、くっきりとした白いラインが象るコースを、細くて長い背中が駆け抜けて行く。カモシカのように軽やかに走る彼女は、まるで重力なんて感じていないかのようにぽーんと飛んだ。その長い手足が待ち構える銀色の棒に触れる事はない。

 ぽすん、彼女の尻が緑色のマットの上に着地すると同時に、周囲がわっと湧いた。どうやら、また記録を伸ばしたらしい。

 友人たちに囲まれて、照れくさそうに歯を見せるのを、俺は教室の窓から眺めていた。

 2学年上の先輩は今日も人気者だ。御葛貫遊鯉みつづらぬきゆうごという仰々し名前の彼女は、見ての通り運動神経が良く、気さくな人格が人を呼ぶのだろう、友人も多い。勉強だって人並み以上に出来、両親は医者をしていると聞いている。おまけに、とっても美人だ。短く切りそろえたボーイッシュな髪型は、すらりと長い手足や、中性的な切れ長の目にとても良く似合っていた。

 ふと、先輩がこちらを見た。

 目があった途端にしまりなく破顔して手を振ってくるので、恥ずかしく思いながらも渋々手を振り返した。

 容姿端麗、眉目秀麗、凡そ欠点などないような人だ。俺のようなものにも、平等に、優しく接してくれている。

 きっと、彼女のようなひとの事を、尊いひとというのだろう。


「春蘭はさあ、私の事をどう思っているわけ?」

「……仲の良い先輩?」

 放課後、校門前に待ち伏せされて隣を歩く。

 先輩の隣を歩いていると、周囲の人間の眼差しが嫌が応にも刺さる。こんな長身の美女の隣に、顔にどでかい傷のあるヤンキー面の男が並んでいたら、そりゃあ目立つのも致し方ない。

 美女と野獣だの、御葛貫の気まぐれだの、陰口ばかりは止め処なく溢れて来るが、先輩は気にした様子なんてない。いつでも人好きそうな綺麗な笑みを浮かべて、飄々と俺の隣を歩いた。

「そうじゃなくってさぁ」

 そんな彼女が今日は不満そうだ。

「じゃあ、美人な先輩」

「嬉しい! もう一声」

「賢い先輩」

「もういっちょ!」

「優しい先輩」

「この正直者め~!」

 わちゃわちゃと頭を撫でられ、そのまま自然と先輩は俺の手を握る。先輩はいつもそうやって手を繋いでくる。

 いつも正直どきりとするのだが、顔に出さないように努める。だって、先輩には他意なんてないだろうから。勘違いして拒否されたりしたら、きっとちょっと泣いてしまう。

 そのまま2人で歩いていると「でも、誰にでも優しいわけじゃないんだぜ」と先輩の薄い唇が零した。目尻の赤い、とろりとした目がこちらを見ている。この熱を孕んだような目が、俺は、少し苦手だ。勘違いをしてしまいそうになるから。

「じゃあ、俺、こっちなんで」

 いつも通り、イチョウの木が植わった曲がり角で別れる。黄色い絨毯を踏みしめながら、俺は小さく溜息をついた。


 木造アパートの一室に帰って来ると、まず父親がいないかどうかを確認する。電気が消えていても中で寝ている場合があるので注意しなくてはいけない。うっかり起こしてしまったら、飛んでくるのは拳か灰皿だ。

 今日は帰って来ていないようだった。双子の妹も友人の家に泊まりに行ったきり、しばらく帰って来ていない。誰もいないワンルームに、ぴちょん、と締まりの悪い蛇口の声だけが響いていた。

 その片隅に座り込んで膝を抱える。本当は夕飯の支度をしないといけないのだが、部屋が汚くてどうにもやる気が出ない。まどろむように、瞼が重くなっていく。その癖意識だけは嫌にはっきりとしていた。


 先輩と出会ったのは小学生の頃。妹と行った公園で、鬼ごっこに混ぜてもらった事がきっかけだった。家は反対方向であったが、学区は同じで、学校内外を問わず遊んでくれる年上のお姉さんだった。

 そんな先輩の誰にも相談できなかった秘密を、俺は知っている。

 きっかけは何だったか、中学の頃、人気のない男子トイレから出て来る先輩とかち合った事があったのだ。

「そこ、男子トイレっすけど」

「そうだね? 私が使うのは変かな」

「……た、多分」

「変かあ」

 先輩は気にした様子もなくけらけらと笑った。

 正直この時の俺は良く知る女子生徒が男子トイレから出てきた事にそりゃあもう盛大に驚いていたのだが、先輩があんまりにも神妙な顔をして、「少し、妙な話をしてもいいかい?」と切り出してきたものだから曖昧に頷いて先を促すほかなかった。

「私はね、自分が本当に女であるのか疑っているんだ」

 語り出す彼女の表情は珍しく暗い。

「戸籍上が女である事は理解している。けれど、納得はしきれていないんだ。自分が女であるのだと言われると、なんとなく、そうじゃないんだと言いたくなる。かといって女でないなら男なのか。そう問われると自信がない。私はいったい男なのか女なのか、それがわからなくて据わりが悪い」

 先輩の話は当時の俺は難しくて良くわからなかった。わからなかったが、先輩が苦しい思いをしているのが嫌で、何かを言った気がする。さて、何を言ったんだか。

 思い出そうとした時、がちゃんと玄関が開いた。父親が帰って来たのだ、早く夕飯の支度をしなくては、と慌てて重たい腰をあげた。


「ほっぺ、痛そうだね」

「……まあ」

 放課後、いつもの道を並んで歩く。繋いでいない方の手がつついたのは、大きめの絆創膏が張られた下頬だ。結局あの後、腹をすかせて帰って来た父親を待たせてしまったし、飛んできたマグカップを躱しきる事ができなかった。

「私がもっと大人だったらねえ」

「それは、困ります」

 思わず口を突いて出た。

「先輩と、一緒に帰れなくなる」

 先輩の形の整った目が大きく見開かれた。それはすぐに細められ、またあの熱を孕んだようなとろりとした視線が、俺の網膜を撫でつける。

「……中学の時のことを覚えているかい?」

 覚えているもなにも、昨日考えていた事だ。あの後も先輩の抱える悩みは俺以外の誰にも共有される事は無く、結局のところ中学も高校も恰好良すぎる女子生徒という事で先輩は通している。

 どちらとして生きたいのか、先輩は決めたのだろうか。それとも未だに悩み続けているのか、後にも先にもこの事が話題になる事はなかったので、その後の展望を知らないのだ。

「私は未だに自分がどちらなのか測りかねている。でもまあ、女でいいんじゃないかと思い始めているんだ。恋愛対象として見た子が男の子だったからね」

 心臓をぎゅっと握りつぶされるような心地がした。先輩は、好きな人がいるのか。

「けれどきっと、一般的に女性が男性にするようには愛せないのではないかと思うんだよ。守られるよりは守りたい。頼るよりは頼られたい。肉体的な意味でも、精神的な意味でもね。……女の身でありながら、女でいてもいいかと妥協しながら、相手と繋がる事を想定しながら、私は恋した相手をお姫様のように大事にしたいんだ」

 自嘲気味な笑みを見せて「笑えるだろ」と吐き出す先輩に、俺ははっきりと「いいえ」と首を振る。

「どっちでもいいと思います。きっと先輩は男でも女でも、どちらでもなくても、そのどちらでもあったとしても、美人で賢くてカッコいいんで」

 蚊の鳴くような声が出た。

「先輩に優しくされる人が羨ましい」

 じわ、と涙が滲む。あんまりにも自分が情けなくて下を向いていると、先輩が長く溜息をつくのが聞こえた。次いで手が離れたと思えば、長い手足に抱き留められて変な声が出た。

「お前は本当にかわいいね」

 呆れたように「まったく鈍いんだから」と小声でぼやく声はどことなく嬉しそうだ。

「中学の時も同じように言ってくれたよ。その言葉にどれだけ私が救われたかしらないだろう。どちらかの型にはまらなければいけないと思っていた私にとって、”どちらでもいい””どちらでなくてもいい”というのは、青天の霹靂のような至言だったんだ。……お前は私を随分と勝ってくれているが、お前だってそうさ。真面目で素直で家族思いの優しい男だ」

 俺の髪をまるで宝物に触れるかのように撫でる。そんな風に触れてくるのは先輩が初めてだった。冷たくて柔らかな指先が、いたわるように頬を撫で、腕を辿って、両の手に行きつく。

「ねえ、私の尊いひと。私は君の幸いになりたい」

 そっと握られた手を、俺はしっかりと握り返した。

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