終章

終章

静かな日だった。のんびりと、一日が過ぎようとしているその日、今日も原口芙紗子が水穂さんの世話を続けていた。水穂さんを病院へ連れて行った日から、あの後大規模な変化は見られない。いつも通り、水穂さんは、芙紗子にうまくおだてられながら、ご飯を食べたり、憚りにいったりするだけである。

その日も、いつも通り、芙紗子は家政婦として、水穂さんに食べさせるため、おかゆの入ったお皿をもって四畳半にいった。

「水穂さん、お昼ご飯です。今日は、わかめのおかゆにいたしました。どうぞ食べてください。」

芙紗子は、四畳半のふすまを開ける。水穂さんは、眠っていたようであった。芙紗子は、お皿を水穂さんの枕元に置き、

「お昼御飯ですよ。起きてくれませんか?」

と声をかけてみた。そして、その肩を軽くたたくと、水穂さんは、静かに目を開けた。

「もう一回言いますが、お昼ご飯です。」

芙紗子が優しくもう一回言うと、水穂さんは、布団から起きて座ろうと試みたが、力なく、出来なかった。

「無理して起きなくても結構です。其れよりも、食べることを一生懸命してください。生きるためには食べなくちゃいけないんですから、まずそれをしっかりやっていただかないと。」

芙紗子は、水穂さんに、体の向きだけ、動かしてもらって、

「はい、さほど、熱くはありませんから、しっかり食べてくださいね。」

と、口元へ、おさじを持っていった。水穂さんは、直ぐに中身を飲み込んだ。

「じゃあ、もう一口食べましょう。」

芙紗子がもう一回おさじをもって行くと、今回も口にしてくれた。

「はい、もう一口食べましょうね。食事には、とり直しはありませんよ。しっかり取り組みましょう。」

「芙紗子さんは、やっぱり相撲にまつわるたとえ話がうまいですね。」

水穂さんは、細い声で芙紗子にいった。

「いやですね。私は、もう角界を離れてしまった身分ですし、今は、この仕事が一番なんですから、もう、相撲の話は、しないようにしないといけないですよね。」

芙紗子は、自分の額を一寸たたいた。

「いやあ、いいんですよ。あなたが何をいおうとも、相撲が好きなんだってことは、ちゃんと分かりますよ。隠そうと思ったって、そういうことは、知らないうちに外へ出てしまうものですよ。」

「そうでしょうか?」

水穂さんに言われて、芙紗子はそういってみた。自分でも、そんなことは意識しているつもりは

ないのだが、本当にそうだろうか?

「ええ。ちゃんと顔に出ています。相撲が好きだってことが。容姿が劣ると言いたいわけではありません。ただ、あなたは、今は確かに相撲部屋のしきたりになじめなくて、戸惑っているかもしれませんが、そのうちもう一度相撲を取りたいと思うようになるんじゃないかなと、僕は思いますね。」

そういわれて、芙紗子はびっくりした。今の自分であれば、絶対に相撲部屋には帰らないと誓ったはずなのに、何でこんなことを言われなければならないのか。そんなこと、絶対あり得ないはずなのに?

「あなたはなぜ、相撲をやろうと思ったんですか?しかも、女性でありながら。確かに、女相撲は、海外では盛んに行われているようですが。」

水穂さんにそういわれて、芙紗子は黙ってしまった。

「大相撲なら、なんとなくわかるけど、女相撲というのは、珍しいですからね。何かきっかけがないと、そういうことは始めないでしょう。女相撲の部活を用意している高校などもこの辺りでは多くないし、何かわけがあったのかなと思って。」

水穂さんはそういって、二三度咳をした。そんな水穂さんを見て、芙紗子はどうしても、理由を話さなければならないなと思った。ほかの人なら、黙っていられるけれど、水穂さんにだけは、どうしても理由を言わなければだめなのではないか。それはもしかしたら、ある種の恋愛感情に近いのかもしれない。

「ええ、あたしは、子供のころから、太っていましたけど。」

芙紗子は、その理由を話し始めた。

「これは本当で、小学生なのに、すでに60キロ近かったんです。でも、父も母もさほど太っているわけではなかったので、よく、おかしな親子だとからかわれていました。小学生の時は、私服で登校できたから、まだ気にしないでいられたんですけど、中学校に入ると、制服を着るから、みんな同じ格好をするので、あたしはどうしても、太っているのが、はっきりわかってしまって。セーラー服でしたので、もう本当にひどかったんです。あたしは、そんな恰好で、学校に毎日毎日通うのは、嫌で嫌で仕方なかったんです。」

確かにそうだろう。丸々太った人が、セーラー服を着用したら、お笑い芸人のような恰好と言われてしまう可能性もある。

「そうですか。それで、同級生か誰かにいじめられたりしたんですか?」

水穂さんがそう相槌を打つと、芙紗子は、そうなんです、と小さい声でいった。

「同級生ばっかりじゃありません。特に、高校受験が近づいてからは、服装検査とかうるさくなったので、担任教師にもいじめられました。あたしは、太っていて、身長も大きかったから、どうしてもスカートの膝がみえてしまうんです。制服の規格サイズでは、膝を隠せる長さのものがなくて、仕方なく、膝を見せて通いましたが、担任の先生が、お前は服装が悪いから、素行も悪いと決めつけて、成績が悪いと、運動場を走らされたりとか、そういうことをされたんです。其れだけじゃありません。私の事を、絶対原口芙紗子とは呼びませんでした。あたしの事を、きせのさとって呼んで、からかっていました。」

芙紗子の目に涙が光っている。この告白に嘘はないだろう。彼女はそれほど、先生や同級生にからかわわれたに違いない。

「それで、あたし、素行の悪い不良生徒とか、服装をきちんとしない、態度の悪い生徒と通信簿に描かれてしまって、結局高校受験はできなかったんです。まあ、体力はあったので、体育の成績は悪くなかったんですけどね。でも、そんなあたしを、受け入れてくれる高校もありませんでした。中学校の卒業式の日、あたし、もう悔しくて、担任教師を殴りたくなってしまったんです。其れを狙って、絡んできた同級生もいたんです。卒業式の後、同級生に、高校受験できなかった気持ちはどうだと聞かれて、同級生を上手投げで投げ飛ばしました。もちろん、学校で問題になるかと思いましたが、それはなくて。その代わり、同級生を投げ飛ばすほど体力があるのならって、父があたしを、相撲部屋に入門させたんですよ。」

「そうですか。それはお辛かったでしょうね。自分の力では変えることのできない問題に、立ち向かわなければならないことほど、つらいことはないと僕も知っていますから。誰も、味方がいない、そんな学校生活だったですね。」

芙紗子がそういうと、水穂さんはにこやかに笑ってそういうことを言った。

「どうして、わかってくれたんですか。私の事なんて、わかってくれる人なんて、誰もいませんでした。相撲部屋でも、変な伝統意識ばかりで、肝心なところはどこかへ行ってしまっているようなことばかりで、辛いことばかりでしたし。ひどい時は、なんであたしはいきているんだろうなって、そんなことを考えたことだってありますよ。」

水穂さんは、表情を変えないまま、彼女の話を聞いていた。

「いえ、それは、経験者でなければわからない事ですよ。其れを探すのが、人間の使命という識者もいます。本当はだれにでもある事ですけど、それは、口に出して言うことはなかなかないから、だから人間は複雑化してしまうのはないかと思うんですね。本当は、そういうことを言えば、もっと楽になれるのにという場面はいくらでもありますよ。でも言えない。人間というのは、そういうものだと思います。」

「そうなんですか。ありがとうございます。水穂さんは、優しいんですね。あたしの事、そういって、慰めてくれるんですから。あたしは、もう自分のすべきことも、やめちゃったというダメな人なのに。」

芙紗子は、水穂さん話しを聞きながら、涙を拭くのを忘れてしまったようであった。ただ、熱い大きなものがいっぱいになったような感じだった。

「ただ、一つだけ訂正させてもらってもよろしいでしょうか。あなたは、きせのさととからかわれたことを、かなりコンプレックスに思っていたようですが、稀勢の里という力士が、どんな人物だったか、ということはご存じおありですか?」

水穂さんは、芙紗子に、語りかけるようにいった。

「ええ、、、それが、大相撲中継を見るようになったのは、相撲部屋に入門してからで、それまでは全然知らなかったんです。」

芙紗子は一寸恥ずかしそうに言った。

「そうですか。稀勢の里と言えば、平成最後の横綱と言える、すごい横綱でした。その当時君臨していた、海外出身の横綱の連勝をやめさせるなどの、大一番を披露しました。最後はけがに苦しんで引退せざるを得なかったけど、今いる横綱よりも、潔くて、立派な力士だったと思います。確かに、からかわれてすごくいやだったと思いますが、稀勢の里という力士は、とても素晴らしい力士だったんです。其れを、忘れないでください。」

「そうなんですか、、、?」

水穂さんに言われて、芙紗子は聞いてみる。そんなこと全然知らなかった。きせのさとと言われて、ただ、自分が太っているから、それをからかわれているだけだとしか思っていなかった。そんな、立派な力士だった何て何も知らない。もう少し、大相撲中継を見ていれば、稀勢の里が相撲を取っているさまを見れたかもしれない。

「ええ、そうです。誰でも知っている、すごい力士でしたよ。あなたは今は確かに角界になじめなかったと思っていると思いますが、決して、相撲が嫌いというわけではないんだし、もう一度、横綱目指して、頑張ってみたらどうですか?」

そんなことを言われて、芙紗子はびっくりしてしまった。自分はもう角界には戻らないと思っていたつもりだったのに、なんで横綱を目指して頑張ってみたらなんていわれなければならないのだろうか?しかも、思いを寄せていた人物から。

「でもあたし、相撲部屋の伝統的な作法で躓いてしまったから、もうできないんじゃ、、、。」

「いいえ、誰でも躓くことはあります。あなたはただ、感性が良くて、一寸過敏に感じすぎてしまっただけですよ。其れよりも、中学生時代に、教師や同級生からのいじめに耐えられたことを、思いだしてください。」

「そうでしょうか、、、。」

「ええ、きっとできますよ。其れを忘れないでいてくれれば。あなたは、体も大きいんだし、力も強いじゃないですか。其れなら、それを生かしたスポーツができるというのは、最高に幸せじゃないですか。其れは忘れないでいてほしいですね。」

「は、、、はい。わかりました。」

芙紗子は思わずそういってしまった。思いを寄せているというか、特別な感情にある人からそういう事を言われてしまうと、なぜか、断ることはできないなと思った。

「今の話し、全部聞かせてもらいましたよ。相撲界に入ったのは、そんな理由があったからなんですね。そういうことなら、うちで家政婦として働くのは勿体なさすぎますね。それなら、水穂さんが言う通り、相撲界にかえった方が良いと僕も思いますね。」

いきなりふすまが開いて、ジョチさんが入ってきた。水穂さんはそれを見て、一瞬びっくりしたようで、数回咳をしてしまった。芙紗子も、思わず、

「理事長さんどうしてここに!」

何て言ってしまったくらいだから、相当驚いたのだろう。

「でもあたし、自信がもうないんです、相撲部屋の雰囲気もなじめないし、番付は幕下のままいつまでも上がらないって、嫌味を言われるし。」

芙紗子は急いでそういうが、

「いえいえ。水穂さんの言う通りです。あなたは、中学校の間、制服を規定通り着られなくて、ずいぶんいじめられたそうですね。それに、耐えることができたんだから、あなたは十分力士になれますよ。きっと、そうやって、耐えていけることこそ、番付を上げていく原動力になると思うんですね。」

と、ジョチさんは言った。

「ほんとだほんとだ。相撲取りは、やっぱり相撲取りになる運命っていうか、そういう力があるんだよ。稀勢の里っていうすごい力士の名前を挙げられていたってのも、お前さんには、馬鹿にされる座量だったかもしれないが、それだってある意味、相撲への縁じゃないの?」

縁側で、着物を縫っていた杉ちゃんまでもがそういうことを言う。芙紗子は、やっぱり自分は、相撲というものをやるために生まれてきたのかなと考え直した。だってすでに、こんな多くの人に、相撲の事を語らせているのだから。もしかしたら、水穂さんの言う通り、相撲のために生まれてきたということなのかもしれない。

「そうですね、、、。」

とりあえずそこで、言葉を切ったのだが、杉ちゃんもジョチさんも、水穂さんも、皆にこやかな顔をしているのが、本当にその通りにしなければいけないというか、そうした方が良いと示していることがわかった。

「あたし、やっぱり、女子相撲に出ようと思います。」

芙紗子は小さい小さい声でそういった。

「大変なこともあるとは思いますが、水穂さんたちに励ましてもらったことを忘れないで、頑張ろうとおもいます。」

「そうそう。お前さんは、女相撲に出るのが一番いいんだ。からだも心もそうなってるさ。其れは悪いことでもなんでもないの。ただ、それに従って生きてれば、絶対幸せになれるってものよ。それは僕が保証する。」

杉ちゃんがそんな発言をしたので、皆笑ってしまったが、芙紗子の気持ちはさらに固まった。やっぱり、相撲部屋へ戻ろう。そうしよう。そんな言葉が芙紗子の中を渦巻く。

「じゃあ、この仕事も。」

「ええ、いつでもおわりにしてくれて結構です。どうせ、僕たちは、家政婦斡旋所に又頼まなきゃいけませんので。それは気にしないでくださいね。そうするのは理事長に課せられた義務ですから。」

そう言いかけるとジョチさんがすぐ言った。

「まあ、良かったよ。お前さんが女相撲に戻ってくれてな。いつか、横綱になって、土俵入りするところを、僕たちにも見せてくれよな。」

杉ちゃんがそういった。そうか、目指せ横綱。そうなれば、自分も、周りの人も変わってくるに違いない。

ジョチさんはスマートフォンを出して誰かに何か電話をかけ始めた。何の話なのか、芙紗子にはよくわからなかったけど、別に気にはしなかった。

翌日。芙紗子は、身の回りの物をカバンに詰め込んで、製鉄所を後にした。女郎が身請けされる時のような豪華な見送りは一切つかなかったが、芙紗子はそれでよいのだと思った。見送りの事なんてどうでもいいから、それよりも、新しい人生を私なりに頑張るんだと思って、相撲部屋へ向かって歩いていったのだった。

「なんだか、彼女がいなくなってしまったのは、寂しいなあ。」

お昼時、杉ちゃんが、水穂さんにご飯をたべさせながら、一寸ため息をついた。ちょうどそのとき、竹村さんが、クリスタルボウルセッションの打ち合わせのため、製鉄所に来訪していた。

「まあいいじゃないですか。彼女は、体の強さは十分にありますし、力士としての素質は十分にある人ですよ。ただ、心の弱さというのかな、それが邪魔しているだけの事で。そこだけ取り払えば、きっと横綱をめざしてがんばってくれるのではないでしょうか。」

ジョチさんは苦笑いを浮かべながら、杉ちゃんたちにいった。

「でも、ありがとうございました。彼女に再び角界に戻るというきっかけをつくってくださって。」

竹村さんが、水穂さんに頭を下げる。布団に寝たままの水穂さんは、いいえ、大した事ありませんとだけしか言わなかった。

「水穂さんが、ああして説得してくれなかったら、彼女は中途半端な生き方しかできなかったと思いますよ。人間、なんでもそうだけど、中途半端にかかわるよりも、本気になってぶつかっていけるものがある方がずっと幸せになれますからね。其れは、うちに来る、クライエントさんにも行っていることなのですが。そういうきっかけは、本来学生時代くらいの年齢に得るのが一番いいのですが、現在の子どもは、そういうきっかけに出会えないまま、大事な年代を終えてしまうんですよね。僕は、そういう日本の教育制度をこれからも批判して行きますよ。」

竹村さんは、そういうことを言っているが、水穂さんの表情は複雑だった。心から、その言葉を喜べないようだった。其れはもしかしたら、特殊な事情を抱えているせいで、本心で芙紗子にいったのではなかったのかと疑いをもたれても仕方ない顔だった。竹村さんが、そのあたりを理解しているかは、不詳だった。

「ああ、分かっているよ。水穂さんはまた別の意味でつらかったんだからな。それは言わなくていいからな。人間の生き方なんて、楽な道何て一つもないのは、みんな知ってらあ。ほんとはそれがもっと広まってくれるといいのにね。其れをしないもんで、あの方が楽だ、このほうが楽だって自慢しあってさ、結局喧嘩するんだよね。」

「そうですね。」

杉ちゃんがそう訂正して水穂さんはやっとほっとしてくれたようだ。

「まあ、いずれにしても、彼女、菅の山芙紗子さんは、きっと横綱を目指して頑張ってくれますよ。」

ジョチさんは、杉ちゃんたちの話をまとめるように言った。

そのころ、女子相撲の相撲部屋では、レオタードに回しを付けた菅の山が、ほかの力士の胸を借りて、一生懸命稽古に励んでいた。菅の山は強くなったねと親方たちは、感心して彼女を見つめていたのだった。彼女は、水穂さんに言われた言葉を思い出しながら、土俵の上に立つことを忘れないと誓った。



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目指せ横綱 増田朋美 @masubuchi4996

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