第二章

第二章

数日後の事だった。新しいお手伝いさんというか、家政婦さんがやってきて、何日たつだろう。彼女が水穂さんのもとにやってきて、畳が汚れる確率はどれだけ減ったのだろうか。

「いやあ、よく働いてくれますよ。彼女は。」

ジョチさんがそういうほど、彼女、原口芙紗子は大変な働き者であった。

「まあ、容姿の面で言ったら、間違いなく地雷になってしまうと思うけど、でも、欠点と言えば、それくらいかなあ。」

と、杉ちゃんが言うほど、原口芙紗子は、容姿の面では、確かに劣るのであった。よく太っていて、体重は女性にしては重量な、25貫はあるだろう。身長も女性にしては高くて、五尺と七寸くらいはあるのではないかと思われた。25貫も体重が在れば、容姿を売りにしている女優や女郎から見たら、とんでもない大きな体格の女だと思われる。

「いいえ、杉ちゃん、それは言ってはいけませんよ。近頃は太っている事を、売り物にしているテレビタレントもたくさんいるんですからね。太っているということで、コンプレックスに思う時代は終わりましたよ。」

ジョチさんがそういうと、杉ちゃんは、

「そうだねえ。まあ、確かにそうだなあ。僕はテレビを見たことがないので、よくわからないけど。」

といった。

「とにかくだな。その太った容姿の割には、彼女は実によく働いてくれる。水穂さんの食事もちゃんと食べさせてくれるし。こないだだってさ、よくやってくれたと思うよ。水穂さんがどうしても、食事をとらないときがあったでしょ?」

「そうでしたね。」

とジョチさんは言った。

「その時、その太った女性、つまり菅の山芙紗子さんが、うまくとりなしてくれたんだよな。ほら、作ってあげた人は、水穂さんが元気になってくれるのを願って作っているのだから、それを裏切るような真似はしないでくれなんて。あんな言葉、誰も発言しなかった言葉だよ。其れを口にしちまうなんて、結構な訳ありだなあ。」

「ええ、彼女は、そういうところが素晴らしい。そういう風に、いざというときは、荒療治が必要なこともしっかりわかっているんですからね。そういう発言ができるというのも、ある意味では優れているかもしれませんね。」

杉ちゃんとジョチさんが言う通り、ずいぶんの間、食事をさせるのに、大変苦労に苦労を重ねていた水穂さんが、芙紗子さんのおかげで料理を食べてくれるようになったのだ。それは大変な進歩と言えるに違いなかった。

「ほら、もう少し食べてください。きっと、料理もおいしいと思いますから。杉ちゃんの料理は、製鉄所一だって、ほかの利用者さんも言っていました。」

と、四畳半から声が聞こえてくる。声だけ聴けば一般的な女性の声なのだが、顔を見ると、一寸びっくりしてしまうかもしれない。

「はあ、またやってる。彼女、おだてるのが上手だな。僕をおだててもしょうがないんだけどね。」

と、杉ちゃんは、彼女の声を聞きながら、そういうことを言った。

「まあ、確かに彼女は美人ではありませんが、かなり能力のある女性である事は間違いなさそうですね。」

と、ジョチさんもいった。

「はい、おいしそうですね。今日は、トマトのおかゆですか。なんでも作ってしまう杉ちゃんだけど、こんな変わったおかゆをつくれるのも、杉ちゃんらしいですね。ほら、モッツアレラチーズが入っておいしそうよ。」

芙紗子は、水穂さんの顔の前におさじを持っていく。先日の荒療治が効いたのか、水穂さんは、しっかりと、中身を口にした。

「どう?おいしい?」

芙紗子に聞かれて、水穂さんは、ええとだけ答える。

「そう。其れは良かった。じゃあ、もう一口食べましょうか。栄養を取らなくちゃ。なんでもそうだけど、人間は体力第一だから。」

芙紗子がもう一度おさじを持っていくと、水穂さんはしっかり中身を口にした。

「良かったわ。じゃあ、ご飯だけじゃなくて、モッツァレラチーズも食べましょうね。チーズは、肉並みに栄養があるから、体力付けるのにはぴったりね。」

と、彼女はチーズを水穂さんの口元に持っていくが、

「残念でした。其れは不正解。それはモッツァレラチーズではありません。ヤギのチーズです。水穂さん、乳製品が食べられないので、ヤギのチーズを代理で使ったんだよ。」

と、杉ちゃんが四畳半に顔を出したので、芙紗子は思わずスプーンを落としそうになった。

「そ、そうなんですか。ごめんなさい、てっきり、モッツアレラかと思ってしまいました。」

芙紗子が急いでそういうと、

「いやあ、気にしないでいいんだけどねえ。ヤギのチーズなんてあんまり出したことないだろうからね。」

と、杉ちゃんが言った。

「さっさと、食わしてやってくれや。固まると、臭くなるから。」

「はい、わかりました。水穂さん、しっかり食べましょうね。」

芙紗子はヤギのチーズを水穂さんに食べさせた。

「おお、よく食べるじゃないか。お前さんのおかげで、食事を作る側にも、やりがいというものが出てくるもんだぜ。ほんと、お前さんよくやってくれてありがとうね。ずいぶん口がうまくて、きちんと掃除も洗濯もしてくれて。こんなくるくる働く女中を雇ったのは久しぶりだよ。ほんと、ありがとうな。」

杉ちゃんが芙紗子にそういうと、

「いいえ、相撲部屋では、ほかの力士の服を洗濯したり、食事を配ったりするのは、幕下の私の役目だったんですから、それは、慣れてます。」

と芙紗子は答えるのだった。

「はあ、そうなのね。確かに、番付がしたの力士は、上の力士、つまり横綱大関の世話をしなきゃならないもんな。それは、そうだよね。」

「ええ。まあそうですね。」

芙紗子は、一寸いやそうに言った。そして、水穂さんにもう一口、ヤギのチーズをたべさせる。

「ご飯を食べ終わったら、新しいシーツに変えますからね。その間は、縁側に座布団を敷いておきますから、そこに寝ていてくださいね。」

「ああ、ありがとうございます。」

と、水穂さんは言った。そして、水穂さんに改めて、ヤギのチーズや、トマト雑炊をたべさせて、食後に飲む予定の薬もしっかり飲ませた。

「じゃあ、薬飲んだら、シーツ変えますから、しばらくお待ちください。じゃあ、一寸縁側に、座布団を敷いておきますから。」

と、芙紗子は急いで縁側に座布団を四枚並べた。そして、水穂さんの体をよいしょと持ち上げて、彼を、その上に寝かせてあげた。そのあと、急いで敷布団のシーツを新しいものに変えてやる。シーツは、いわゆるファスナーで中身を包むタイプではなく、フラットシーツというタイプのシーツで、昔ながらの包むタイプのものであったが、芙紗子は何も文句を言わず、シーツを付け替えた。

「はい、水穂さん、終わりました。シーツ変えましたから、気持ちよくお休みいただけると思います。」

食事をした後、水穂さんは、よく眠るのだ。芙紗子は、水穂さんをよいしょと持ち上げて、水穂さんを布団に寝かせるのだ。さすがに力士というだけあって、水穂さんのような、六貫程度しか体重がない人間を持ち上げるのは、簡単なことのようだ。芙紗子は、水穂さんにすぐにかけ布団をかけてあげて、

「はい、ゆっくりお休みください。じゃあ、また、三時のおやつをお渡ししますから、それまで、よく眠ってくれてかまいませんから。」

と、芙紗子の声は優しかった。その太った容姿には似合わないくらい、優しかった。

「しかし、よくやってくださいますね。あなた、本当によく働いてくださいますし、彼も喜んでいることでしょうね。」

ジョチさんは、水穂さんが眠ったのを確認して、そう芙紗子に言った。

「ええ、まあ、そうなんですけどね。ただ、私は、相撲部屋で、上の番付の力士にしてきたことをやっているだけですけどね。」

芙紗子がそういうと、ジョチさんは、外出ましょうか、といった。一寸話があるということだった。芙紗子ははいわかりましたと言って、ジョチさんと一緒に、食堂へ行った。

「しかし、あなたも変わった人ですね。其れは認めますね。単に容姿の事だけではありませんよ。食事の世話にしろ、シーツの取り換えにしろ、ああして不平も言わずに、迅速にやってくださるなんて、なかなかそこまで有能な家政婦はいませんよ。どこかで、家事をお習いになったということはありますか?」

ジョチさんは彼女に聞いた。

「ええ、先ほども言ったとおりです。上の番付の力士、つまり横綱とか、大関の力士の世話をするのも、幕下の私の務めですから。」

と、彼女は答えるのだった。

「それで、ああしてプロ並みに、家事をこなせるようになったんですか?まあ確かに、女子相撲であろうと、相撲部屋のしきたりは厳しいでしょうからね。」

「ええでも、私は、挫折しました。こんなに太ってしまったから、女相撲でもやろうかと思って、入門したけど、あまりにも厳しくて鬱になってしまって、勝負師にはなれないと、親方から言われてしまいましたし。私もダメだと思いました。それなら、潔くやめた方が良いなと思って。」

と、彼女、原口芙紗子は、小さな声で言った。

「そうですか。それはまた、貴重な経験をしましたね。最近の相撲部屋は、パワーハラスメントの温床と言いますか、時代に合わない言動をして、問題になることもありますからね。まあ、合わないところには、ながくいないほうが良いと思いますからね。其れは間違った判断ではないと思いますよ。」

と、ジョチさんは、彼女に言った。

「本当は、私も悩んでいるんです。このような容姿ですから、ほかに就職しても当てがないって、言われたのは本当ですし。だから、本当に相撲をやめてよかったのかなあって、悲しい気持ちになるときもあるんです。だって、ものすごいパワハラがあったとしても、私は道をあきらめた身ですし。そういうリタイアしたって、あんまり、うれしい存在じゃないでしょ。」

と、彼女、原口芙紗子は、一寸恥ずかしそうに言うのだった。

「でも、ここまでしっかり働いてくれる家政婦さんはそうはいませんよ。これまでに何人か家政婦さんを雇ったけど、短いものでは数週間、長いものでは二か月しか持ちませんでしたから。水穂さんの事や、業務内容が過酷すぎて、みんな辞めてしまいますからね。まあ、彼女たちに打ち勝つつもりで、頑張って続けて下さい。」

と、ジョチさんは彼女を励ますように言った。

「今の時代は、初志貫徹なんて似合わない言葉ですよ。途中で投げ出して、転職するのは当たり前のことです。まあ、親方もそれをわかって、あなたを僕たちに引き渡したんだろうし。其れに、この製鉄所に来ている利用者たちも、みんなやりたいことはないか、あったとしても、周りの理不尽のせいで、断念せざるを得なかったという過去がある人ばかりですから、彼女たちも、あなたのことは、意思が弱いとか、甘ったれとか、そういうことは言わないと思います。彼女たちは、そういわれることのつらさをうんとよく知っていますからね。もし、何かコンプレックスが在ったら、うちの利用者さんと、話し合って下されそれでいいと思います。」

「理事長さん、本当に私を、ずっとここで働らかせてくれるつもりですか?」

芙紗子は変なことを聞いてきた。

「ええ。僕たちはそのつもりですよ。ほかに水穂さんの世話をしてくれる人材を探すのは、最も辛辣ですからね。」

ジョチさんが当然のように答えると、

「そうですが、、、私、本当にここで雇ってもらっていいものでしょうか?試しにやってみるというか

、ダメで元々というつもりで、ここに来たのに。だって、道を外しちゃったダメな人間だし。家政婦としての仕事も、親方に言われたことと同じことをやっているだけで、専門的な知識があるわけじゃないし。」

と、芙紗子は小さな声で言った。

「だめでもともとなんて、何をおっしゃいます。あなたのような、よく働いてくれる家政婦さんは、どこを探してもいないと思いますよ。あなたは、ご自身の事を、ダメな人間とおっしゃっていますけど、僕から見ると、そんなことはないと思います。相撲部屋をあきらめたことだって、ある意味ではパワーハラスメントから脱出できた被害者だったかもしれないし。人生なんてね、なにが役に立って、なにが役に立たないか、それは、わからないですよ。それに、知識だって、すでに、相撲部屋で得たではありませんか。本当にね、何を武器にして生きるかなんて、若い時には、決まらなくて当然です。一度や二度そういうことがあってよかったというか、当たり前の事です。大事なことはね、それを、吉ととるか凶ととるかは、なんでも自分次第だということです。」

ジョチさんは、そういって彼女を励ますが、

「でも私、ただの太ったダメな女性としか、みなされていませんし、一度やりたかった相撲だって、親方にいろんなこと言われて、やめてしまいましたし。」

と、彼女はまだ自信がなさそうな感じだった。

「そうですけど、それで得たものはちゃんとあると考えてください。」

ジョチさんは、そういったが、

「いいえ、出来ることは、家事仕事しかないじゃありませんか。」

という芙紗子。今の時代は、家事仕事だって、商売になる時代なんですよ、とジョチさんは言おうと思ったが、彼女の顔つきを見て、それは言わないで置いた。

「それよりも、あなたはそのままでいいですから、もう少し、ご自身に自信をもって生活してくださいね。」

ジョチさんがそういうと、

「おーい!ちょっと来てくれ!大急ぎ!」

と、杉ちゃんのでかい声が聞こえてきたので、二人は顔を見合わせた。

「もしかして、水穂さん?」

芙紗子は急いで立ち上がり、四畳半へすっ飛んでいった。彼女は太っている割に瞬発力はあり、直ぐにすっ飛んでいくことができるのであった。芙紗子が、四畳半に行くと、水穂さんは、かろうじて杉ちゃんに口元を抑えてもらっているので、畳は汚さずに済んでいたが、激しくせき込んでいた。

「ちょっと前からせき込みはめちゃってさ。薬飲ましたけど、治まんないんだよ。」

ジョチさんも部屋にやってきて、状況を理解したようだ。

「悪いけど、帝大さんのところに電話をかけてくれるかな?本名はえーと、」

杉ちゃんが言うと、

「沖田血液内科。」

とジョチさんは答えた。

「いいえ、あたしが連れていきます。沖田っていうと、あの、沖田眞穂先生のところですよね?電話をして、待っている間に、水穂さんが窒息してしまったら大変です。救急車を呼ぶこともできないんですよね。其れは杉ちゃんから聞きました。だからあたしが走って連れて行った方が良いと思います。」

いきなり、芙紗子がそういうことを言った。杉ちゃんたちもびっくりして、何も返事をしないでいたが、芙紗子は直ぐに水穂さんの体を杉ちゃんから乱暴に受け取ると、背中に背負って、鉄砲玉のように飛び出していった。

「あれまあ、いっちまった。」

杉ちゃんが思わずそういうと、

「じゃあ、僕たちも車で追いかけましょう。」

ジョチさんは、急いでスマートフォンをとり、小園さんを呼んだ。てばやく杉ちゃんを車に乗せ、ジョチさんも急いで車に飛び乗った。そして沖田血液内科まで、小園さんに車で走ってもらう。

二人が、沖田血液内科にたどり着いて、受付に、磯野水穂さんという方が運ばれてこなかったかと聞くと、処置室で寝ているとだけぶっきらぼうに言った。二人は、簡単に御礼だけ言って、すぐに、処置室にいった。

「水穂さん、水穂さんは大丈夫?」

杉ちゃんが思わず言うと、一番奥のベッドに水穂さんは寝かされていた。その近くには、芙紗子が申し訳なさそうに立っている。

「で、容体はいかがなものでしょうか?」

ジョチさんが聞くと、

「あと五分遅かったら、危なかったそうです。」

と、芙紗子はそれだけ答えた。

「どうもありがとうな。僕、歩けないから、こいつを病院まで連れていくことはできないからよ。お前さんがいてくれて、本当に助かった。ありがとう。」

杉ちゃんが、芙紗子に頭を下げると、

「いえ、私は大したことしてません。ただ、水穂さんが危ないと思ったから、ここへ連れてきただけで。でも、なんだか看護師さんたちが、今日はこんな着物を着た人がくるなんて、なんて間が悪いのだろうとか言っていたのが気になりました。いくら、水穂さんであっても、そういうことは言ってはいけないんじゃないかって思いました。」

と、芙紗子はそういった。

「そうですか。あなたは、正義感もお強いんですね。そういう所を勝負に生かせたらよかったんでしょうけど。まあ、生かせる人は、ほんの数人です。大体の人は、負けるか悪に回るかです。」

ジョチさんは、一寸ため息をついた。

「本当にありがとうな。御礼の言葉もないよ。それで、水穂さんは、この後、検査とか、そういうものはあるの?」

杉ちゃんのほうはまだ喜んでいるみたいだった。

「いいえ、もういいそうです。かなり進行しているので、手の付けようがないのは、皆さんご存じだと思うと言われました。だから、目を覚ましたら、かえってくれていいそうです。」

「そうか。わかった。」

芙紗子の説明に、杉ちゃんはぶっきらぼうに言った。

「それにしても、お前さんは、相撲取りよりも、介助人の資格でも取って、部屋を変えた方が良いな。初めに相撲取りを選んだのが不思議なくらい優しいよ。こういう歴史的な事情のあるやつを、病院まで連れて行ってくれたんだからな。お前さんが、相撲取りになりたいと思ったのは、何かきっかけでもあったのか?」

杉ちゃんがそういうと、彼女は、

「言いたくありません。とても恥ずかしいことなので。」

としか言わなかった。

「なんでだ?だってお前さんは、確かに女郎屋とかでは、地雷になっちゃうかもしれないし、女相撲では幕下だったかもしれないけど、きっと優しくて、繊細で、おだてるのも上手という、良いところをいっぱい持っている素敵な女性だよ。」

杉ちゃんがもう一度聞くが、

「とても、恥ずかしいので、、、。」

としか彼女は言わない。杉ちゃん、今は聞かないほうがいいんじゃありませんか、とジョチさんに言われて、杉ちゃんは、

「それならそうかもしれないが、お前さんが角界入りした理由、いつか教えてね。」

といったのだった。



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