目指せ横綱

増田朋美

第一章

目指せ横綱

第一章

何処かの県で桜が開花した、というニュースが流れるようになった、そんな季節だった。そうなると、静かにしてはいられなくなって、みんなどこかに出かけたいと言いたくなる季節であるが、最近は大雨やら地震などの災害がやたら多くて、皆出かけようという気持ちにはならないのだった。普通のひとまでこんな憂鬱になるのだから、病人にとっては、なかなか乗り越えられない季節ともいえるかもしれない。

さて、その日、製鉄所では、いつも通りに杉ちゃんが、利用者たちの食事を作っていた。さて、よく煮込んだので、ルーを入れるか、と、鼻歌を歌いながら、杉ちゃんがルーを鍋の中に入れた時、四畳半から水穂さんの声がした。

「ちょっと待ってくれ、すぐ行くから。」

と言っても、車いすの杉ちゃんには、車いすを方向転換させることだって、一苦労なのだ。急いで杉ちゃんは、車いすを動かして、直ぐに四畳半へ行ったのだが、普通に歩く人よりもはるかに遅いため、杉ちゃんが到着した時は、もう四畳半の畳は汚れていた後だった。

「あーあ、またやったのねえ。まあ、病人だから、しょうがないか。ほら、薬のみな。」

急いで杉ちゃんは吸い飲みを水穂さんに渡した。水穂さんは、

「ごめんなさい。」

と一言だけ言った。

「謝んなくてもいいよ。早く、薬のんで、静かに休みなや。」

杉ちゃんにそういわれて、水穂さんは、吸い飲みの中身を飲み干した。これでしばらくすると、薬の副作用で、眠ってしまうことになるのだ。予想した通り、水穂さんは、静かに眠ってしまうのだった。杉ちゃんは、これを見て、大きなため息をついた。

「どうしたんですか?」

製鉄所を管理しているジョチさんが、四畳半にやってきた。水穂さんが吐いた血液で汚れた畳を眺めながら、

「やれやれ、もう汚しましたか。畳を張り替えて、一日しかたってないのに。」

と、大きなため息をついた。そして、枕元に置いてあった、雑巾をとって、汚れた畳をとりあえず拭いた。でも、畳だから、完全に取り去ることはできなかった。

「畳にとって、水気は大敵だよな。まあ、それはそれで仕方ないとして、又畳屋さんに頼むか。素人が畳の張替えはできないからねえ。」

杉ちゃんもため息をついた。

「ですが、これだけ何回も畳を汚されたら、畳の張替え代がたまらないですよ。千円とか二千円とかで済むような金額じゃないんですよ。本当に懲りないくらい、畳を汚しますね。」

ジョチさんは困った顔をした。

「いくらねえ、病気のせいであって、本人のせいではないといわれても、これだけ何回も畳を張地変えなければならなくなると、一寸、むきになるというか、なんとなく腑に落ちないところがありますよね。」

「ああ、ごめん、それは僕が、直ぐ駆けつけてやらなかったということだろうか?すまんねえ、僕、歩けないから、直ぐに飛んでいくことはできないのよ。」

そういわれて杉ちゃんはちょっと小さくなった。

「いえ、杉ちゃんの事を責めているというわけではありません。其れははっきりしています。そういうところははっきり違うと言っておきましょう。でないと、いつまでも、引きずったままになりますからね。それよりも、問題点をはっきりさせましょう。今僕たちが解決しなければならない問題というのは、水穂さんが苦しみだした時、直ぐに駆け付けて手当てしてやれるような、人材がないということですよね。」

「うん、確かにそうだ。利用者さんたちは、いまお受験真っ盛りで、とても、病人の世話をしている余裕はないよねえ。」

と、杉ちゃんに言われて、ジョチさんはその通りだと思った。確かに、いまの利用者さんたちは、高校受験とか大学受験の受験勉強の場所として利用している人が多く、ちょうどその大詰めの季節なのでとても他人の事をかまっていられる余裕はなさそうだった。

「はい、それもはっきりしていますね。つまり、杉ちゃん以外、水穂さんの事をかまってあげられる人材は今はいないということです。それで、水穂さんの側に立って考えると、すぐに苦しみだした時、薬を飲ませるか、吐いたものをふき取ってやるとか、そういう事をしてくれる人材が必要だということがはっきりしています。さらにもう一つ、杉ちゃんでは、そういう人材にはなれません。」

「さすがジョチさん。なんでも言えるんだな。理事長と呼ばれるだけあるな。」

ジョチさんが、そう問題点を分析すると、杉ちゃんは、苦笑いしていった。

「まあ、立場とかそういうことは関係ありませんよ。こういった問題は、誰かが行動を起こさないと解決しませんから。それでは、誰か人を一人雇いましょう。畳を張り替えるよりは、人を雇った方が、安く済みますよ。そうすると、65歳以上の高齢者であれば、ホームヘルパーが来てくれたりするんですが、水穂さんの場合、まだその歳ではないので、ヘルパーは利用できません。そうなると、専門的な介護はできないという欠点はありますが、家政婦さんと呼ばれる方を雇うことになります。」

「そういうことはいいからさ、誰か人に来てもらおうよ。ヘルパーさんとか、家政婦さんとか呼び名はどうでもいいからよ、誰か水穂さんのそばについていて、世話をしてくれる人だ。そうなると、結構な力持ちでないとできないだろうがな。」

と、杉ちゃんは、腕組みをしていった。

「そうですね。水穂さんの体は弱っていてやつれていると言っても、人間の体を動かすのは、相当難しいものがありますよ。そういうことからも、体力があって、少しの困難ではおれないで世話を続けてくれる、体育会系の人が適していますね。僕も、こんなに何回も畳を汚されていたら、本当に困ってしまいますので、善は急げで、家政婦斡旋所に電話をかけてみますね。」

と、ジョチさんは、急いでスマートフォンをとって、電話をかけ始めた。でも、電話は数分で終わってしまった。別の斡旋所にかけているのか、何回か電話をかけて、家政婦を一人こちらによこしてほしいのだが、とやり取りを繰り返した。しかし、それを言った後で、直ぐに、ああわかりましたと言って、電話を切ってしまうのであった。

「おい、大丈夫か?契約成立できた?」

ジョチさんが五回目に電話を切ったところで、杉ちゃんがそう心配そうに聞いた。

「ええ、それが五件かけてみましたが、全滅でした。まあ確かに、最近はメイドブームと言いますか、家政婦を雇う一般家庭もずいぶん多くなったようですが、たぶん、それだけではないと思います。」

ジョチさんは、スマートフォンを置いた。

「そうか。つまり、水穂さんの事を、世話をしたがるやつがいないってことか。それ、もしかして、水穂さんの出身階級にも関係あるんじゃないの?」

「そうですね。」

と、杉ちゃんがそういうと、ジョチさんは、はいとため息をついた。もしかしたら、それも関係しているのかもしれなかった。いくら賃金をもらえると言っても、同和地区から来た人間のところに雇われるのは嫌だという、家政婦さんが多いのかもしれない。

「まあ、とにかくですね、人材が必要なことは確かですし、公的な機関はほとんど役に立たないことも確かですので、インターネットなどで、探してみようと思います。」

ジョチさんがそういうと、製鉄所の玄関の戸がガラガラっと開いて、

「すみません、今日セッションの予定で、来させてもらったんですが。」

とまた誰かの声がした。

「今時誰だろ?」

杉ちゃんがわざと大きな声でそういうと、

「なんだか男性の声みたいですね。」

とジョチさんが言った。

「今手が離せないの。上がってきてくれる?」

杉ちゃんがデカい声で玄関に向ってそういうと、わかりましたと言って、その男性は玄関の引き戸をガラガラと閉めて、製鉄所の中に入ってきた。

「こんにちは、水穂さん、具合はどうですか?」

と、いいながらやってきたのは、竹村優紀さんであった。リヤカーのような、箱を置いた運搬車を引っ張っている。その中には多分、竹村さんの武器のひとつである、クリスタルボウルが入っているのだろう。

「ああすみません竹村先生。御覧の通り、水穂さん、先ほど急に苦しみだして、いま眠ってしまったんですよ。申しわけありませんが、今日のクリスタルボウルのセッションは取りやめにしていただけないでしょうか?」

ジョチさんは、申し訳なさそうにそういうが、

「いいえわかりました。大丈夫ですよ。そういうことはよくある事ですから。其れより、理事長さん、なぜそんな浮かない顔をしていらっしゃるのです?何か、落ち込むようなことが在りましたかな?」

と竹村さんが聞いた。

「話したくないというのなら、別にかまいませんが、病人を介助する人間というのは、愚痴を言うことがなかなかできないものですから、そういう時は、直ぐに、誰かに話して、楽になった方が良いと思いましてね。病人のほうが心配して病気を悪化させても困りますし、介助者が、気を病みすぎて体調を崩してしまうのも、困った問題です。そうはならないように、介護者は、嫌なことが在ったら、直ぐに解決しておく方が良いと思ったですよ。余計なおせっかいでないといいですけど。」

「ありがとうねえ竹村さん。まあ、捨てる神あれば拾う神ありとはこのことだ。あのねえ、竹村さん、誰か僕以外に、水穂さんの世話をしてくれる人、いってみれば家政婦さんみたいな人が欲しいな。力持ちで、あまり細かいことは気にしない、体育会系の人が一番いいんだ。」

杉ちゃんは、あっさりといった。こういうときに、なんでもさらりと話してしまうのは、杉ちゃんならではであった。

「それで、家政婦斡旋所に五件電話してみましたが、どこも満席で、あいている人が居ないそうです。最近は、メイドブームというか、家政婦さんを雇いたがる家庭が増えているのは確かなようですね。」

ジョチさんがそう付け加える。

「そうですか、それは大変ですね。今は家政婦斡旋所も、気軽に雇えることを打ち出していますし、家事の苦手な人がだんだん増えていますからな。本当に必要な人にそういうサービスがいきわたらないという問題がありますよね。もうちょっと、考え直してから、頼んでほしいものですよね。まあ、僕たちが、一般の人の意識を変えることはできないですが。」

竹村さんは、セラピストらしく、しっかりといった。

「確かにそうなんだよなあ。できるやつは、自分でやってくれればいいのにさ。全く、金だけがあって、何もないというやつが多すぎだよ。最近はいろんなことが人任せになってるけど、本当に必要な奴だって、こうしているんだってことを、忘れないでもらいたいよ。」

杉ちゃんが、竹村さんの話に同調した。

「そうですね。其れは確かに言えます。でも、水穂さんのような方は、ちゃんとサービスを受ける権利は有しているのですから、それは使ってもいいと思います。たとえ、彼の出身地がどうのと言われても、それだけは、はく奪されておりません。出身地がどうので、彼を責めることは、神の怒りに触れることです。」

竹村さんはちょっと宗教的なことを言った。こういうことは、ある意味宗教が助けてくれるということかもしれなかった。人間のおかしなところを是正するために、宗教というのはあるんだと思う。

「まあ、そうですけど、僕が電話をかけたところはいずれも満席で、新しく派遣しようとする会社はありませんよ。」

ジョチさんは小さい声で言った。

「そうですねえ。其れなら、いい人材がいますから、紹介しましょうか?」

不意に竹村さんがそういうことを言う。

「竹村先生、誰か斡旋所を知っているの?」

と、杉ちゃんが聞くと、

「斡旋所というわけではないのですが、力持ちで忍耐力もある体育会系の人というと、ひとり出来そうな人が居るので、彼女を紹介しようかと思いましてね。彼女なら、文字通り力持ちだし、忍耐力もあり、しっかり働いてくれると思いますよ。」

と、竹村さんはにこやかな顔をしていった。

「そうですか。彼女というと女性ですね。女性に務まるかどうか不明ですが、大丈夫ですか?」

ジョチさんは心配そうな様子だ。

「はい。そこは大丈夫です。体力と根性なら彼女は十分すぎるほどあります。そこは、僕が保証します

よ。」

竹村さんはしっかり頷いて、

「よろしかったら、こちらへ電話をしてみてください。」

と、手帳を取り出し、頁を一枚やぶって、ある人のスマートフォンの番号を書いた。

「個人のスマートフォンの番号ですね。これは、斡旋所の代表の方の番号ですか?」

ジョチさんが聞くと、

「いえ、代表というわけでもないんですけどね。まず、僕の方から、彼女に話しておきましょうか。彼女は、働くことに喜びを見出してくれるタイプの人柄ですから、きっと役に立てると思いますよ。僕が彼女に話しておきますので、理事長さんたちは、彼女を迎えにいってください。理事長さんたちは、それだけすればいいです。後は僕が、彼女に話をつけておきます。」

と、竹村さんはなんだかなぞかけをしているように言った。

「しかし、その女性がどんな女性なのか、はっきり話をしてくれないと、こちらでも雇う準備ができませんよ。」

ジョチさんはまだ不安そうであった。

「いやあ、こういう時は助けてくれる奴に任せておくのが、一番ってもんだろう。それなら、竹村さんの誘いに乗ることにするよ。じゃあ竹村さん、御願いします。その女性を僕たちに紹介してくれ。」

杉ちゃんがそういったため、竹村さんはわかりましたと言って、スマートフォンを出して何か打ち始めた。杉ちゃんは嬉しそうであったが、ジョチさんはちょっと不安そうだ。確かに雇われる人物の顔が見えないと、雇う側としては不安になるのは当たり前ではあるけれど。

「じゃあ、僕が話しをつけておきますから、理事長さんと、杉ちゃんは、彼女を迎えに行ってやってくださいね。後ほど、彼女の住んでいるところと、電話番号をお伝えします。」

と、竹村さんはそういった。やれやれ、意外なところで、こういう出会いがあるもんだなと、杉ちゃんもジョチさんも、不思議な顔をして顔を見合わせたのであった。その裏では、水穂さんが静かに眠っている音が聞こえてくる。

「まあいいじゃないの。竹村さんのいうことだもん、悪いことではないと思うよ。其れよりも、どんな人物なのか楽しみじゃないか。」

小園さんに運転してもらっている車の中で、杉ちゃんは不安そうな顔をしているジョチさんに言った。

「はい、まあそうなんですけどね。本当に水穂さんの事手伝ってくれるかどうか心配で。」

と、ジョチさんはそういうが、

「いやあ、誰かに頼るってのは悪いことじゃないよ。其れよりも、貴重な人材が見つかってよかったじゃないか。どんなやつなのか楽しみだ、これを考えよう。」

と、杉ちゃんはなんでもプラス思考で言った。

「えーと、住所の通りの場所ですと、ここですね。到着ですよ。」

と、小園さんは、ある建物の前で車をとめる。

「は?これが家政婦斡旋所か?」

と、杉ちゃんが言うほど、その建物は家政婦斡旋所から遠く離れた作りになっていた。家政婦斡旋所というと、和風の建物か、それか事業所らしく四角い建物であるはずなのだが、目の前にあるのは、簡素な作りのトタン屋根の建物に、小さなドアがあるだけであり、そのドアには、木の板に毛筆で「竹松部屋」と書かれている。

「しかし、理事長さんが教えてくださった住所を検索してみましたが、ここに間違いありませんよ。機械が嘘をつくはずがないじゃありませんか。」

小園さんがそういうようにカーナビというものは確かに嘘をつかないし怒りもしない。其れがいいのか悪いのか、よくわからないけれど。

「なんだろう。女郎屋かな?家政婦斡旋というより、女郎を連れてくるというところなのかなあ?湯女とか、飯盛り女とか?」

杉ちゃんがそういうと、建物のドアがガチャンと開いた。そして、大変太った、強そうな感じの女性が出てきて、

「あの、どちら様でいらっしゃいますか?」

と、杉ちゃんたちに聞いた。

「ええ、こちらに所属の女性で、原口芙紗子さんという女性を探しているのですが?竹村優紀先生から、紹介がありませんでしたでしょうか?」

ジョチさんが急いでそういうと、

「ああそれでしたら、菅の山の事ですね。ええ、彼女には、ちゃんと話してありますよ。どうせ彼女は、今場所、休場ということになってますから、どうぞお宅で使っていただいて結構です。」

と、女性は言った。

「菅の山。変な源氏名だな。其れに丸々太ったやり手が経営しているなんて、よっぽど変わった女郎屋だ。」

と、杉ちゃんが言うと、

「女郎屋じゃありませんよ。竹松部屋という名称と言い、太った方が所属していることと言い、今場所といった事といい、ここは女郎屋ではなくて、相撲部屋なんですね、女子相撲の。」

とジョチさんが急いで解説した。

「ええ、その通りです。女子の相撲部屋というとなかなか認知度は低いですが、菅の山、すなはち原口芙紗子は、うちに所属する、一番番付の低い力士です。」

そう彼女が言うんだから、この女性は親方なのだろう。

「わかりました。それで、原口さんは、こちらに来てくれることをわかっていただいているのでしょうか?」

ジョチさんが急いでそういうと、

「ええ。ちゃんと彼女には伝えてあります。まだ新入門とはいえ、彼女の成績の悪さは身に余るものがあります。うちの部屋の評判にも関わりますから、しばらくほかのところに行ってもらった方が良いと、竹村先生にも相談していたんです。」

と親方は、言葉は乱暴ではあるけれど、けっしてその女性をバカにしているとか、そういう感じはないような言い方で、杉ちゃんたちに言った。

「そうですか。わかりました。では今日からこちらに来ていただいて、手伝ってくれるということで、よろしいのですね?」

ジョチさんが急いでそういうと、

「はい。しっかり存じておりますよ。そういうことをさせて少し、勝負強くなってもらいたいので、是非、彼女には、頑張ってもらいたいです。いま連れてきますので、少しお待ちください。」

と、親方は、そういって、部屋の中に戻っていった。杉ちゃんもジョチさんも何が在ったのかよくわからないという顔をした。




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