探偵の産まれ出ずる温度
吉岡梅
書斎にて
春寒し。文筆家を自称する
――書けぬ。
朝からかれこれ1時間。執筆は1文字も進んではいない。文字数のカウンタは微動だにせず、増えるのは珈琲の量ばかり。このままではいかん。無為に正午の鐘を迎える事となる。が、かといって、書けぬ。吉川は身じろぎもせずに画面を見つめるばかりであった。
原因は明確だった。アイディアの枯渇や構想の甘さが招いた行き詰まりではない。諸々の事情に起因するモチベーションの低下とも異なる。では何か。それは――、寒さであった。
寒いのだ。吉川が書斎と呼んでいる小屋がシンプルに寒いのだ。朝日はあたらず暖房は故障中。おまけに吉川は冷え性だ。手足の指先は悉く冷え、痺れを伴い声高に動けぬ事を主張する。さらに言うのであれば、春冷えとはいえ季節は春。屋外の植物たちは、無事冬を越し生き延びた自らを寿ぐ花粉を盛大に振りまいている。吉川は花粉症でもあった。目と鼻は乾き頭痛が酷い。手足は動かず、頭痛は増すばかり。このままでは座して死を待つようなものだ。
――ゆくか。
吉川は、やおら立ち上がり、資料を広げ放している卓上からひとつの鞄を手にした。メッシュ地の鞄の中に見えるのはバスタオルにタオル、そして乳液。お風呂セットだ。吉川は次善の策として、温浴施設へと駆け込む算段であった。あくまでも止むを得ず。仕方なく。座して死すよりも打って出て活路を見出さんと。
「留守を頼むよ」
事務所の唯一の同僚であるお掃除ロボットルンバ氏に声をかけると、鼻歌混じりで駐車場へと向かって行くのであった。
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午前の温浴施設はいい。それほど混雑しておらず、こざっぱりと清潔で明るい。なにより温まる。湯に浸かっている者の大半は地域の高齢者だ。みな、噛み締めるように体を温めている。わかる。
吉川が温浴施設に足繁く通うきっかけとなったのは、腰痛だ。腰に突然走る魔女の一撃。コルセット無しでは立つことすらままならぬ痛みに悩まされ、藁にも縋る思いで温浴施設へと向かった。古来よりわが国には温浴施設で療養する習慣がある。「湯治」という専用の言葉があるほどだ。その昔から、長逗留する価値があるほど効果的な手段であったのだろう。
実際、わかりやすく楽になった。自らの力だけですんなりと動ける、立てる。その嬉しさ。初めて自力で歩いた赤子すらこれほどに喜ばなかったのではないか。吉川は温浴施設に深く感謝した。以来、何かと理由を見つけては通っている。
洗い場で体を清め、白湯に浸かる。たちまち温かな湯が体を包み、痺れるほど冷たかった指先に血液が流れていくのがわかる。ありがたい。
程よく暖まった所で湯から上がり、体の水分を拭き取る。そして向かう先といえばそう、サウナ室だ。
サウナ室で温まり、水風呂で冷やし、椅子に腰かけ休憩する。この一連の流れが気持ちいい。体にいい。ととのう。――と、最初に聞いた時は、半信半疑であった。特に水風呂で冷やす工程。冷やす。冗談ではない。ただでさえ冷え性に悩まされている身であるのに、自ら水に浸かるなど考えられない。吉川は、真っ先にそう思った。
だが、多くの者がこの一連の流れを称賛している。中には水風呂こそが本命の工程だと宣う輩までいる始末。半信半疑ではあるものの、好奇心が勝った。吉川は水風呂に入ってみた。が、やはり冷たい。水風呂との初対戦は、つま先をほんの少し浸しただけで退散する羽目となった。
しかし、負けたままでいるわけにもゆかぬ。その後、何度か対戦を重ねるうちに、水風呂に浸かれるまでになった。するとどうだろう。確かに爽快感があるのだ。もちろん水は冷たい。冷たいが、それもいい。不思議な感覚であった。
さらに、水風呂から上がった瞬間に訪れる安堵感。その後に椅子に深く腰を落ち着け、ゆっくりと目を閉じた時に訪れるなんとも言えない心地。全身がリラックスしているのに、感覚は研ぎ澄まされているという感覚。
しばらく自分の感覚の変化に向き合っていると訪れる、腕や背を這い上がって来るぞわぞわとした何か。首筋へと登り、鼻の奥の方から額の中心に向け、すっ、とそれが抜けていく。気持ちいい。ただただ気持ちいいのだ。
一度その体験をした吉川は、サウナを楽しみにするようになった。腰の痛みも和らぎ、体調が回復してからも、お湯ではなくサウナを目的に温浴施設へと向かうほどであった。
いつものようにサウナ室のドアを開けると、熱せられた空気が出迎える。こじんまりとしたサウナ室には、先客が2人いた。吉川と同じほどの年齢と見受けられる男性と、既に髪も綺麗に白くなっている年配の男性だ。
吉川は年配の男性が気になった。あからさまに大きいのだ。恐らく身長は190センチほど、体重は3桁を越している。サウナ室のひな壇に、腰にタオルを1枚置いただけの姿で威風堂々と鎮座している。目じりを下げて目を細め、サウナ浴を満喫しているその顔は、アルカイック・スマイルを思わせた。
その風体はどこか神仏の像を連想させる。巨躯の老人が半裸で座しているというのは、何かありがたみや尊さを感じる。思わず手を合わせてしまいそうだ。吉川はそんな事を思いつつ、自らもサウナ室の一角に座した。
しばらく蒸されていると、先の2人の会話が耳に入ってきた。男性と巨躯の老人は、知り合いのようだ。男性は敬語を持って接している。と、いう事は、上司と部下といった関係だろうか。それとも、ただの知り合いだろうか。勝手な推測をしながら蒸されているうちに、肩のあたりにぷっくりと玉の汗が浮き出てきた。
と、男性が巨躯の老人の事を「とうさん」と呼ぶのが耳に入った。とうさん。「父さん」だろうか。と、言う事は、この2人は親子だろうか。ちらりと目を向けると、なるほど、年の頃は親子としては問題ない。だが、男性は敬語で接している。親子間で敬語を使う事はありえなくはないが、多くもないだろう。いったい、2人はどんな関係なのだろうか。そこではたと思い当たった。
――
義理の父と義理の息子。男性は巨躯の老人にとっての娘婿なのではないか。そうであれば、敬語で話す理由も、とうさんと呼ぶ理由にも説明がつく。義理の親子で仲良く並んで蒸されるとは、良い関係ではないか。それにしても、熱い。そろそろ限界だ。
吉川は、先客の2人に軽く頭を下げてサウナ室を辞した。水風呂へ向かい、桶に水を取り汗を流して肩まで浸かる。思わず声がでるほど冷たい。が、それでいい。
先ほどの2人は、まだサウナ室にいるようだ。吉川よりも先に入っていたのに、吉川よりも長く入っている。よほど熱さに強いのだろうか。2人で我慢比べでもしているのだろうか。そんな事を考えつつ、水風呂から上がって体を拭く。
休憩用の椅子へ深く腰かけ、目を瞑る。耳の感覚が鋭敏になっているのか、湯の音がいつもよりはっきりと聞こえてくる。いい気分だ。
吉川は、知らず先ほどの2人の事を考えていた。あの巨躯の老人。ひょっとしたら、かの老人はサウナ室に住まう神様や妖精の類なのかもしれない。サウナが盛んな国であるフィンランドでは、「サウナ室にはトントゥという妖精が住んでいる」という伝承があるという。かの老人がそうである可能性は否めまい。まだサウナ室から出てこないのが、その傍証だ。
愚にもつかぬ推理をぼんやりと展開している自分に気付き、吉川は苦笑した。推理ともいえぬ推理だ。――推理。その言葉から今度は安楽椅子探偵へと思いが飛ぶ。今現在、自分が座っているこの浴場の椅子も、安楽椅子と言えば安楽椅子なのかもしれない、と、とりとめもない考えが泡の如く浮かんでは消えていく。
その時、ぱっと結びついた。推理と安楽椅子と温浴施設。そうだ、温浴施設の安楽椅子で推理をする探偵と言うのはどうであろうか。だが、なぜ温浴施設で。その理由を想像する。
探偵は冷え性で、寒さのために推理ができないのだ。そのため、温浴施設で温まると脳が活性化し、推理力を取り戻すのだ。元々は推理力のあった探偵。元刑事の年配の探偵というのはどうだろう。姿かたちは、先ほどの巨躯の老人をモデルとして。いっそそうだ、温浴施設というよりは、サウナに入って推理を展開するというのは。
ぼんやりとした思い付きが妙な形に組みあがってゆく。吉川はもう少し考えてみることにした。
――探偵がサウナで謎をととのえる話、か。
確かに妙なアイディアだが、面白そうでもあった。サウナ後のリラックスした気分であるから許せているものの、素に戻って再検討してみると、そのくだらなさに気づいて放り出すやもしれない。よくある事だ。だが、今はそれを楽しもう。
事務所に戻り車外に出ると、
きっとこの世には、尊いものがたくさんある。普段はそれに気づかずに。花も、猫も、そして
忙しい日々の中では見落としてしまうそれらを、感じられるくらいにはリラックスしてやっていきたいものだ。そのために自分は、温浴施設の力を頼ってゆこう。
――またひとつ、サウナに行く理由が増えてしまったな。
吉川はそうひとりごちるとほくそ笑んだ。足元のそら殿は、不思議そうにそれを見上げている。その喉を撫でさせていただき、抱き上げて事務所へと入る。
そしてまた、日々のよしなしごとは続いていく。
探偵の産まれ出ずる温度 吉岡梅 @uomasa
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