当日 〜旅の終わりも唐突に〜

1


 エメラルドグリーンの水平線に陽が沈み、紺碧の海が情熱的な赤へ色づいていく。グランドテール島の南東にある首都ヌメアは、背に低い山々をいただき、観光によって潤った街が煌々と輝きを放つ。内海ラグーンに停泊するヨットが夕陽を浴びて燃え、豪華絢爛のクルーザーが来たる宵闇をあざ笑うようにしずしずと、巨体を横たえていた。

 天国にもっとも近い島——ニューカレドニア。

 大自然が生みだした奇跡のような多様性と、美しい海に囲われた島を、一台のが滑るように駆けていた。

 首都へ続くテリトリアル一番線の直線を、電気モーターが猛々しく洗練された出力で加速していく。平均的なスポーツカーほどの車長でありながら、驚くほど重い車体を四輪の全地形対応タイヤが路面へ吸いつくように走らせ、カーブではまるで運命が定めていたと言わんばかりに華麗なコーナリングを決めた。

 人の身長より低い車高がバラより明るい紅ルビーローズをまとい、迫る街の灯りを歓喜のモーター音で迎える。夜のとばりさえ、ビロードにしてしまいそうな挑戦的なエクステリアの象徴として、そのフロントの中央に角を突きあげた雄牛のエンブレムが宿る。

 個有名カーネーム——無限インフィニート

 フルスモークの二人乗りスポーツカーの運転席で、沈みゆく夕陽を薄く目を開いて睨みつけているのは、極東の雨季に花を咲かす一年草の紫をした瞳。紫陽花色の瞳を夕陽へ向けたまま、「やっぱり」とつぶやいたブルーテは意を決したように深く息を吸った。

「中止すべきです。この作戦には嫌な予感しかしません」

「『きみの勘はよく当たるんだから、シャレにならない』」

 窮屈そうに助手席で唸って、タキシードの永有珠がくりくりと目を動かす。直通回線パスからは鼓動の早鐘がブルーテへ伝わってきていた。それが、普段とは逆の、永有珠にからかわれているようで、薄く紅を引いた唇を引き締めるしかない。

「笑いごとじゃあないですよ」

「『こういう機会もなかなかあるものじゃない』」

 緊張強いの永有珠の声が楽しそうなことに、ブルーテは髪の色を夕焼けに染めるしかなかった。

 そうして、なぜ自分が無鉄砲極まりないプランに乗ったのか、ズバ抜けた頭脳で思い返しながらため息をついた。


 永有珠のプランは、単純明快だった。

 世界最大の植物種を有するドゥアールの天庭〈ガーデンエターナル〉。そこからボタニカリトにされた植物のサンプルを拝借し、手持ちのボタニカリトを一挙に分離する。

 ボタニカリトはすべて、永有珠のトレーラーハウス〈アヴァロン〉に積まれており、ペアを為す鉱石は通販で入手済みだ。「廃棄しておけ」とオウカに言われておきながら、こっそりボタニカリトのリストを保管していたおかげである。

 永有珠がボタニカリトの分離を原生地へこだわる理由は「元いた場所へ」という思いの他に、この鉱物と有合された植物のサンプルを手に入れるためでもあった。

 ユニーカ〈分離セパレーション〉。永有珠が触れ、対象に集中したとき、溶けあった"ひとつ"は分離され、"ふたつ"となる。カフェオレからミルクを分離するように、川の流れを二本に分けるように、あるいは動物もどきからマシンを引きはがすように。

 そのためには、ユニーカの使い手である永有珠があらかじめ、対象を肌で知っておかねばならない。

 だが、素材となった植物がどれも、生き残っているとは限らない。

 どのような経路で創造主オウカが絶滅した種をボタニカリトの贄としたのか、間近にいた永有珠もブルーテも聞かされていなかった。カネとコネが余りある熱狂的ファンに恵まれていた〈彼〉のこと。レッドリストの最上位に記されたはずの、失われた種を手にしていたところで永有珠も驚きはしない。

 そうして驚かない最大の理由が、オウカの狂信的ファンにして、その作品のほぼすべて——ボタニカリトを除くすべてを所有するドゥアールだ。

 植物をこよなく愛する公爵は元植物学の権威であり、植物のリバースエンジニアリングで財を為した男だ。莫大な資金を投じて作られたその庭園には、古今東西のありとあらゆる花が咲き乱れ、果実が星々さながらに実り、巨木が大地へ根を張るという。

「天庭の番人」、という大層な名がつく所以である。

 だが、天庭の場所は問題ではなかった。南太平洋の秘境、ニューカレドニアの大部分を庭作りに使っていることは公爵本人が語っている。

 そして故・造々凰華宛てに送られたレセプションへの招待状には、天国にもっとも近い島の首都にある、公爵のプライベートカジノが指定されていた。

 そこへ、正面から乗り込むと真顔で語った永有珠の額に思わず手を当て、体温を測ろうとしたブルーテをだれも責めることはできまい。


 景観保全のため、首都ヌメアの高層建築物は厳しく制限されている。

 カジノが建つ南海岸のウーアントロへ続くハイウェイの周囲も、黄昏に色づいた平地にポツポツと家屋が散らばるだけで、のどかなものだ。

 緩やかに蛇行するハイウェイの向こうには、宝石のように輝く太平洋と、手前で負けじと燦然に煌めく宮殿が夜を心待ちにしていた。

「……ねえ、仮マス?」

 無人のハイウェイをマシン性能ギリギリの速度で飛ばしながら、ハンドルを切ったブルーテがぼそりと言った。

「『どうした?』」

「旅を……いえ、この旅が終わったら、どうするんですか」

「『公爵を出し抜いたら、ってこと?』」

 的外れもよすぎる返答に、ブルーテはキッと横を振りかえってやや本気で助手席の肩をド突いた。

「『痛い』」

「自業自得ですっ!……そうじゃなくて、ボタニカリトをぜんぶ手放したら、次はどうするんですか? まさかマスターの後を継いでアートをするわけはないでしょうし。仮マスのセンスは壊滅的ですし」

「『言ってくれるな。そのドレスはいいセンスだって言ってたくせに』」

「つぎ、調子に乗ったら、海へ突っこみます」

「『わかったから道、はずれないでくれ』」

 右の側道へ突っこませていた片側のタイヤを路面へ戻し、ヒューマノイドが無言の圧力で続きを促す。

「『正直、考えてない。怒らないでほしいんだけど、ほんとに考えてないんだ』」

 同じく夕陽へ瞳を向けた永有珠の横顔は真剣そのものだった。その横顔に免じて、寛大なブルーテは口を利いてやる。

「でも仮マス。ユニーカを使いまくったらもう、老い先が見えていますよ」

「『遠慮がないな、ブルーテは』」

「遠慮してほしいですか?」

 ユニーカの行使は、著しくヒトの基幹テロメアを損耗する。その傷は肉体DNAに刻まれ、確実に行使した者の寿命を削りとっていく。

 そのくせ、分離した"ふたつ"の行く末を左右することもできず、磨り減った寿命を補う術は当然、ユニーカにも現代科学にも存在しない。

 それでも、奇形の男はためらわない。

 歪められたものたちの、あるべき姿を取りもどす。

 それだけが正しいと信じて。

「『いや、ブルーテはありのままがいい』」

「狭義では、すでにちがっていますけど」

 黄昏色を照らし返す髪をクスクスと空色に染め上げ、ブルーテが本革のハンドルを大きくきった。南東に広がる港湾都市ウーアントロの豪奢な光が、夕陽の退場を急かしている。

「『……聞いてくれブルーテ』」と助手席の、今さら緊張感が漂う声に、ブルーテは整った眉を上げて応えた。

「なんですか、仮マス」

「『いまは旅の終わりを心配している場合じゃない』」

「でしょうね。仮マスのザルプランが失敗したときはワタシたち、公爵のペットに……」

「『ぼくはなんとしてもボタニカリトを還さなくちゃならない。それは、きみのためでも——』」

「——ワタシのため⁈ ちょっと言い訳がましくないですか、それ。仮マスがあの植物もどきにこだわっているって、素直に言ったらどうです!」

「『ちがうんだ。ぼくは——』」

「もういいですっ」

 一方的に会話を断ち切り、拒絶の意味を込めて固く、ブルーテが目をつむる。一文字に引き結んだ唇から言葉を引きだすのは、真実の口から手を抜くより難しいだろう。

 たとえその心へ直接、語りかけたチャットところで返事はもらえそうもない、と怒らせてしまった相方を横目に見た永有珠は心中でうなだれるほかない。

 そうして、このところは怒らせてばかりだな、と動かない手で頭をかきたくなったのだった。


 小笠原諸島を出発した一週間前の夜も、永有珠の所業にブルーテは髪の色を真紅に染め抜いていた。

「——そういう問題じゃないでしょっ! どうしてさきに言ってくれなかったんですか仮マス」

「『なんでって……。一応、師匠のアドレスを管理してるのはぼくだけど』」

 とは、ボタニカリト分離作戦を打ち合わせている永有珠の言葉である。

 公爵ドゥアールから造々凰華へ送付されたレセプションの招待状。そのあからさまな罠の匂いを、珍しく愚鈍な永有珠でも感じ取っていた。

 それは、いい。いつまでも知恵が回らないようでは、ブルーテのほうが心配でやれない。

 問題は、その罠への対応だった。

「とぼけた顔しないでくださいっ。どうして、出席の返事なんかしたんですか!」

 レセプションの日付は、一週間後の十二月初頭。空飛ぶトレーラーハウス〈アヴァロン〉を持つ永有珠なら、半日もかからずに飛んでいける。出欠の返事の期限は明日だが、話し合う時間はじゅうぶんあるはずだった。

 あっけらかんと、その返事をした、と永有珠が打ち明けるまでは。

「忘れたんですか⁈ フルボッコにされて、仮マス、危うく死ぬところだったんですよ? そんな相手の誘いにわざわざ乗るなんて……そこまであの、モドキがだいじなんですかっ!」

 ドンッ、とテーブルへ叩きつけたブルーテの手の衝撃に、箸がカラカラと転げていく。

 目でその動きを追った永有珠の返答は、いたって簡潔だった。

「『行くしかないよ。きみに反対されるとは思わなかったけど』」

「信じらんないっ‼」

 言い捨て、手荒に皿を重ねる。最後に箸を拾い上げズカズカ歩き去っていくブルーテを追い、玉座を旋回し、たいまつのように明るいグラスファイバーの髪へ永有珠がかけた言葉は、まさしく火に油を注ぐことになった。

「『それが、ぼくのすべきことなんだ。同意してくれてたじゃないか!』」

「ワタシがいいって言ったのは、仮マスと旅をすることです! そのついでに、植物もどきを土に還すのであって、メインじゃあありません! ましてや、命を張って敵の懐に飛びこむなんて、自殺行為なのがわからないんですか‼」

「『危ないのはぼくもわかってる。だけど、はやく旅を終わらせるには、これしか——』」

「そんなに……そんなにワタシと旅がしたくないなら、もう勝手にしてくださいっ‼」

 髪を森林の緑に染め上げ、うつむいたままブルーテの体が躍る。

 刹那、アヴァロンのハッチが乱暴に閉められ、景色を透過していた壁がブルーテ権限で無機質なベージュに帰した。

 二人用のトレーラーハウスを拡張したアヴァロンだ。狭いと感じることはないが、決して広いわけでもない。

 キッチンの蛇口から滴る、洗いかけの小皿に当たる水滴の音がやけに響く。

「『いい方法、だと思ったんだけど』」

 広く感じるトレーラーハウスのなかで返事をしてくれる者はいなかった。


 †


 沈みゆく夕陽を追いかけるようにインフィニートが疾走するころ、ヌメア南東のプライベートポートにそびえ立つカジノ『グラントンパレス』のカーポートでも、さまざまな乗り物がひっきりなしに音もなく横付けしては、着飾った少人数をこのバロック様式の宮殿へ送り届けていた。

 マンタを模ったものや、雫の形をした特徴的な例外はあるものの、セレブたちが乗る車は昔からそう変わらない。変わったところは、高級車を降りる淑女の手をうやうやしくとるボーイがガールだったり、キーを渡すことなく車が勝手に移動し、カジノの駐車場ではなく、沖合に停泊するプライベートクルーザーへ飛んでいったりすることだろう。

 彼らの車は文字どおり、天文学的な金額がかかった自慢の品だ。

 愛車を駐車場へ他の車と一緒に駐める、などということは考えられない。金銭は彼らにとって細事でしかなく、極端な話、乗り捨てたところで痛くもかゆくもない。が、という事実が、彼らの車に捨ておけない価値を与える。

 特に、今宵のセレモニーへ招かれた人々ゲストなら、その手が触れたモノはさながら教皇の祝福を受けたに等しい重みを持つ。

「ようこそ、バランディック皇子」

 クルーザーがまるまる収まる巨大なカーポートをいっぱいに埋めた、水晶の超ロングリムジンから降車する白髪の老爺へ、完璧なアラビア語の発音で会釈しながら、宮殿の入り口に立った年若いメイドは隙なくその老爺の相貌を、頭へたたき込んである百六人のデータベースに照らし合わせた。

 本人確認セキュリティはすでに、ボーイとガールへ扮したセキュロイドたちが塩基配列に至るまで済ませてある。招待状は、などいうクラシックな問答をするまでもなく、沖合一〇キロメートルに設置された海路関ウォーターキャッスルを越えるか、上空の空境スカイラインをゲストが通過した時点で誰何は自動的におこなわれている。柔和な表情を携えたメイドが、カジノの入り口で慇懃に立っているのは、あくまでも主人による指示からだった。

 レセプションの主催者であり、メイドの仕える主人たるドゥアール公爵いわく、今宵は「主賓」が訪れるという。

 名だたる名士が集うこのレセプションの主賓は、疑いようもなくそれら名士を呼び寄せたドゥアールに他ならない。

 そう上申したメイドへ、主人であるドゥアールはただ深海のような碧眼を向け、「ただちに自分の元まで案内しろ」、と命を下した。

 ただそれだけのために厚化粧で頬の傷を隠し、前日から主人の所有するこのカジノの入り口へメイドは立っていた。二十四時間程度の立ち仕事くらい、彼女にとっては朝飯前以下のこと。訓練で三日三晩、不眠のうえ戦闘ヒューマノイドと拳を交わした経験に比べれば拍子抜けするほど容易い。だからこそ、主人の奇妙な指示にメイドは、少し驚いていた。

 ドゥアールが認める傑物はそう、いない。真っ先にとある名が彼女の頭をよぎるが、荒唐無稽すぎて考慮に値しない。そもそも、その人物は確実に現世を去っている。

 主の顔を思い浮かべていたせいか、宵闇に包まれ、豪奢な宮殿の灯りで照らされたカーポートへ、一台の赤いスポーツカーが滑りこんできたとき、とっさにメイドの少女はフリルに仕込んだ袖口の金のカフスへ指を触れかけた。控えめな警報を鳴らし、来訪者をお引き取り願うためだ。このようなクラシカルな車を使うゲストに思い当たりがない。

 だが、人間であるメイド以上に反応が早いはずのベルボーイ&ガールたちが動かないのを目の当たりにしてかろうじて、思いとどまった。そしてためらわず、左のカフスへ指をあてた。


 2


 その場に相応しくない服装、というものがある。葬式にアロハシャツで顔を出せば叩きだされるだろうし、コートを羽織ったまま海へ飛びこむのは大変よろしくない。

 その点、インフィニートの斜め上へ開く助手席のシザードアから、引き出しみたく横向きに降車した永有珠のタキシードは、正装といえる。

 ワンテンポ速く、運転席からすらりと降り、小麦色の足を黒のピンヒールであしらったブルーテは、背中が大胆に開いた深紫のドレスが鮮やかだ。まばゆい照明の下では、枝分かれした肌の蒼いラインが非自然的な美しさを醸し出している。化粧っ気のない唇に強めのルージュを引き、森の息吹を匂わす萌黄色へグラスファイバーの髪をリンリンとゆらす。

「さてと」

 紫陽花色の瞳の奥でセンサを総動員し、容易した七つの脱出プランをいつでも実行できるよう気を張っていたブルーテは、カジノの入り口で整列する若い男女の同類ヒューマノイドから歓迎のシグナルを受けとって、形のよい眉をひそめた。

「出席はだれかさんが伝えてはいましたが」

 てっきり、到着するなり拘束され、ドゥアールの地下処刑場にでも連行されるかと思っていたブルーテは肩透かしをくらった気分だ。おかげで、周囲を見回す余裕さえある。

「自然と調和する気はさらさらないようですね」

 薄暮にまばゆい偉容をさらす白亜の宮殿は、笑ってしまうくらい周囲から浮いている。まるで、中世欧州の城をそのまま南国の海辺へ据えたようなセンスの無さだ。この宮殿の裏手に、目的の天庭ガーデンエターナルはある。のだが、ブルーテの目でも見透かすことは叶わない。

 遠視でも捉えることのできなかった庭園を諦め、身近へとブルーテが目を戻す。

「『ブルーテ、ちょっと……』」

 直通回線パス越しに言葉が途切れるのと、愛車から降りたはずの永有珠へ、メイド服の少女が駆けよるのは、ほぼ同時だった。

「仮マス⁈」

 すぐさまボンネットを飛び越えるが、そこではうやうやしく会釈され、目を泳がせる窮屈そうなタキシードが、助けを求めるようにこちらを見ていた。


「お客様。失礼ながら、ご尊名をうかがっても?」

 夜のとばりのようなスカートをさっと翻し、緋色の絨毯を敷きつめたエントランスまで付き添うと、メイドが針路をさりげなく防いだ。ブルーテへ問いかける感情のない目は、三メートル近い背もたれの麓で丸まる永有珠には見向きもしない。

「かわいいですわね、そのフリル」

 斜め前でわずかに腰を屈めた、その黒と白のメイド服にブルーテが純粋な賛辞を送る。動きやすさと相方の好みからパンツ姿の多いブルーテだが、たまにはこんなキュートな装いも惹かれる。

 ブルーテの称賛が意外だったのか、一瞬、目を見開いたメイドは「……ありがとうございます」とぎこちなく会釈した。

 彼女からは弱い信号しか読み取れない。他のヒューマノイドと違い、大部分が人間であるらしいことに警戒を強めながら、ブルーテは艶やかに微笑んだ。

「いえ。それと、ワタシはお付きですわ。こちらの閣下にお訊ねなさって?」

「失礼いたしました」

 さすがというべきか、さっと膝をついてメイドが目線の高さを合わせる。横から見ていてもわかるほど、永有珠の顔が赤い。

 元々、人見知りなうえに社交場には縁のなかった人だ。名前すら社会に出てこないような大物たちが集う世界指折りのプライベートカジノで、一芝居、打とうとしているのだから緊張するのも仕方ない。

 タイピングを間違えてはあわてて打ちなおし、あわてたためにまたミスし、たった数音の語句に手間取る永有珠を、メイドは完璧な微笑みをうかべたまま辛抱強く待っている。訓練を受けているであろう彼女なら、何時間でもこうして待ってくれるだろう。が、そうやって気をつかわれるほど焦りを増していく性格の永有珠には、脱水症状ものだ。

 先刻の車内での意趣返しとばかりに、額に汗がにじむ仮のマスターを放っておきたい欲求と、なぜだか無性の腹立たしさにかられつつ、さりげなく体を寄せてハリボテの肩へブルーテが手を置いた。

「『サー・ゾウゾウだ。スキャンしてみればいい』」

 しゃがれた人工音声にギョッとして永有珠が目を向けてくるが、ブルーテはその肩に指を食いこませて黙らせた。オウカの肉声とは似ても似つかない即席の架空音声。が、その声を知る者は限られている。

 その永有珠の名告に瞬刻、メイドの表情が空白を告げる。

「……ご配慮、痛みいります」

 だがすぐさま微笑みをたたえたまま、一礼し永有珠の手甲へ自分の左手を掲げた

 個人認証シーケンサーはかなり小型化したものの、人の掌に収まるに至っていない。白磁の掌からDNA読み取りのグリーンレーザーを捉えたブルーテは、微笑みを絶やさないメイドへの認識を改めた。彼女は半人間もどき《ハーフヒューノイド》なのだ。

 当然、口を動かさずとも、カジノのどこかにいるその主人へ伝えられるはずだ。

 サプライズな来客の正体を。

「たいへんお待たせいたしました。ご案内いたします——サー・オウカ・ゾウゾウ・


『自分で"サー"なんて言うか?』

『正式に叙勲された騎士ナイトなら、自分から名乗るのが礼儀ですよ?』

『叙勲されたのはぼくじゃない』

 と、絶妙な歩幅で先導するメイドの二歩、後ろを行く永有珠とブルーテがチャットを交わす。

 社交用に改造ドレスコードした背もたれのやたら高い大理石調の玉座スローンで、永有珠の黒い瞳が忙しなく動いてヴェールスクリーンのキーを弾き、周囲からの視線を集めて髪の毛をさらに色づかせるブルーテは、出されたスープに入ったハエを見るような目を向けてきた、いかにもアンダーグラウンドの重鎮といった白スーツに白髭の禿頭へウインクを返しつつ、永有珠との会話チャットを続けた。

『いまごろ、庭番公爵は驚いていますよ。信心深くなくても、手にかけた人間が自分のパーティーに来た、となれば不気味でしょうし』

『こんなトリックが通じたのはビックリだけど』

 ドゥアールの招待状に招待客の名前は明記されていない。生前のオウカがブルーテを紹介することはなかったし、ブルーテ自身がしゃべらない限り、その名は鉄壁ファイアウォールに守られている。

 それなら、オウカと関連のある証拠が示せれば、レセプションへすんなり入れると永有珠は読んだ。

 もっとも、証拠としてオウカの養息と明かすことに前向きだったわけではない。

『おかげで堂々、忍びこめたじゃないですか』

『帰ったら、公的個人認証識別子PIDを更新しといてくれ。二度と聞きたくない。あんな……』

『ゾウゾウ、ジュニアって?』

 斜め後ろを悠々と歩くブルーテには永有珠の表情は見えない。が、盛大に顔が歪んでいるだろうことは断言できる。最近の永有珠は少し、度が過ぎる。やきもきした分、これくらいの仕返しは許容範囲である。

『……よしてくれ』

『正装してよかったでしょ?』

『目立って仕方ない』

 タキシードを着られるような体型ではないので、永有珠の衣装は〈羽衣〉にブルーテが手を加え、カラーリングを変えただけの普段着パジャマである。スローンの装飾は道中で散々もめた結果、ブルーテが押しきった。永有珠のワガママを一つ聞く、という条件で。

『古代の幼王みたいで似合いますよ。でもこういうとこ、レディが主役のはずなんですけどね』

『きみも、よく似合ってる』

『はいはい、ありがとうございます。仮マスが背中フェチだったなんて意外でした。着てほしいドレスがある、と言われたときはどんな破廉恥なコスプレをさせられるのかヒヤヒヤしましたが』

 文字で言って、その場でブルーテがひらりとターンした。鈴音のように髪が微笑み、黄金のシャンデリアと緋色のロビーに大輪の花が咲き開く。その花が見られない永有珠が憐れでならない。

『ぼくは公爵が餌に食いつくか心、配……』

 ふいにチャットが途切れたのは、カジノ内の通信妨害からではない。

 先導するメイドが流れるように脇へ下がり、道を空ける。

 その背が晴れ、代わってまばゆい白が立ちはだかる。

「仮マス——」

 永有珠の肩をつかんで、力を込めたブルーテが一歩、前へ出た。

「ふん? 生きていたか。てっきり、ものと思っていたが」

「……」

「聞こえないな。ああ、そうか。口がきけないんだったな。それで、口の利き方を叩きこんだのだったはずだが……出来そこない?」

 後ろに目でもついているのか、永有珠に背を向けたまま言ってのけたその人物へ、回し蹴りを食らわせたい衝動を、髪の色だけで抑え、真紅のファイバーを逆立てたブルーテが声を落として、おざなりなカーテシーを差し向ける。

「一人相手に軍隊を送りこんどいて、成否もわからないド素人外道が、なんのたわごとですの? 公爵」

 シャンパングラスを傾けていたチェスターコートがそこでようやく、振りかえってブルーテへ顔を向ける。

 金髪をオールバックに撫でつけた壮年の男が、碧眼でさっと、上から下まで鑑定するように眺めまわすなか、わずかに表情を変えたのをヒューマノイドは見逃さなかった。

「これは失礼した、レディ?」

「ミル・ルー様にございます」

 控えたメイドが恭しく頭を垂れる。

「よい名だ。ハイナ、我はこちらのレディと話がある。よそ者は引き取り願え」

「おそれながら公爵閣下。こちらは、ゾウゾウ卿のご継子にあらせます」

 ほう、とそのとき金髪が初めて永有珠へ視線を移した。初めて存在を認識した、と言わんばかりに。

 瞬間、永有珠の頭に恐怖があふれた。

 丸メガネの奥のその目は海の色をしているが、熱帯魚の棲まうサンゴ礁の明るい浅瀬の海ではない。光さえ届かない深海の超高圧を具現化した目だ。射すくめられるだけで息が苦しくなり、永有珠は自分が粉々になって散っていく痛みをただ受け入れるしかない。

 あの碧眼に見下ろされ、体の随まで刻まれた苦痛が——

「……マス!」

 四散する意識のなか、永有珠は自分を呼ぶ声を聞いた気がした。

 名前ではない。仮称というよりあだ名に近いその、人をバカにしたような呼び方には聞き覚えがあった。旅へ出てからというもの、いや、忌まわしい屋敷にいたあの頃から、中性的なアルトの声が永有珠の光だった。

 薄れゆく自分をかろうじてつなぎ止めてくれたのは、やはりその小バカにした声だった。

「——仮マス! 威勢はどこにいったんですか。ラスボスは目の前ですよ」

 感覚を得るだけの道具となった手にひんやりしたものが触れる。永有珠が目を落とすと、亀裂の入った小麦色の華奢な手が重ねられていた。ぼんやりとした頭でその手を辿り、はたと凛々しい横顔に目を奪われた。

 雨に咲く花の色だった瞳はいま、まっすぐ正面に、ドゥアールに向けられている。

 紫は、至高の色。あらゆる頂点に立つ、帝王の証。

 彼女がついていてくれるなら、おそれるものなどなにも、ない。

「オウカ師が貴様を後継としたのは誠だったか。師の顔に泥をぬる気分はどんなだ? あいにく、ここに貴様のガラクタはひとつもない。情熱の欠けらもない粗悪品など、贋作以下だからな」

「ぼくは……彫刻師、じゃない」

 ひそひそ声とグラスを交わし合う音の群れに、永有珠のかすれた声が溶けこんでいく。肺活量がほとんどゼロに近しい状態では、肉声など蚊の鳴くようなものでしかない。

 それでもドゥアールの耳には届いたらしく、深淵のような目が無言で続きを促していた。

「〈彼〉の——造々凰華の時代はおわった。〈彼〉はぼくを選んだが、なにも継ぐつもりはない」

「あべこべだと思わんかね。継承しないというのなら、その身分はなんだ?」

「利用価値のあるカードだ。他者をそうとしか考えていない、あなたと、おなじ」

 言いきった永有珠の瞳がまっすぐ、ドゥアールを捉える。見上げる格好で、ほんの数言だけ交わしただけで息が上がっている。周りは全員が彫刻師オウカのファンでも、その後継にまで好意的とは限らない。

 それでも、永有珠は落ちついていられた。

 骨張った肩にしんと載る、その重みがある限り。

「ルー」

 呼び慣れない偽名に舌が笑いそうになる。そんな永有珠を横目に赤毛をなびかせたブルーテが、薄い胸の合間からシルバーの円盤を取り出す。ブルーテの手のひらに載ったそれが宙へ映像を結んだ。

「ドゥアール公。これらの品々に、関心があるのでは」

「ふむ」

 食い入って見つめる公爵のその姿勢だけで答えは是だ。ホログラフィに浮かぶガラスドームの数々。それらはドゥアールが求めてやまない幻の作——オウカ・ゾウゾウのボタニカリトそのものである。

 保管場所のアヴァロンからのストリーミングには逆探知の心配もあったが、ブルーテが幾重にもダミーとプロテクトを施している。ヌメア沖、南太平洋に沈めたトレーラーハウスに手を出すなら、さしものドゥアールも海洋警察を無視はできまい。

 そして本物であると示すのに必要な賭けは、ドゥアールがメイドと交わした頷きによって証明された。

「やはり師は愛らしいな。我に探しだせとおっしゃる声が聞こえる」

「うえっ」とブルーテが永有珠にしか見えないようピンクの舌をペロリと出した。笑いを堪えつつ、ホログラフィを眺める公爵へ、決めておいた台詞を投げかける。

「贈り物は、喜んでもらえただろうか」

「貴様ごときが師のアートを弄するなど甚だしいが——」

「このっ……っ」

 ガラスの砕ける音がし、プロジェクターもろとも映像が霧散する。真紅の絨毯より赤く染め上げた髪を振りかざしたブルーテは、いまにも拳を繰りだそうとしている。

 そんな張り詰めた空気のなか、ドゥアールだけは超然と構えていた。——否、薄い唇の端が醜く歪んでさえいた。

『ブルーテ‼』

 ヴェールに登録してあるショートカットを素早くなぞり、爆発寸前のヒューマノイドに呼びかける。そのわずかなブルーテのためらいに躊躇せず永有珠は玉座を進めて、間に割って入った。

「ふん。興醒めだな」

「……正当防衛で追いだされては困る」

 軽く丸メガネを押し上げ、薄ら笑みを浮かべたドゥアールが何事もなかったようにグラスを傾ける。その、グラスと同じ背高の入れ物をトレイに乗せて差しだされ、ブルーテは毒気を抜かれて二の句が継げない。

「アルコールは入っておりません、ルー様」 

「えっと、そうじゃなくて……」

「毒など入れんよ。貢ぎ物を捧げる者に、我は敬意を払わねばな。希望があれば、ハイナに言いたまえ。ミルクから聖水まで配合してくれる」

 さらりと言ってのけたドゥアールに、頬をぴくりとさせたブルーテがグラスを受けとる。意を決して一口あおり、弾ける香りに紫の目をぱちくりさせる。

「サー。お飲みものをお持ちしましょうか」

 そんなブルーテを見ていた永有珠の前でメイドが膝をついて、エメラルドの瞳が訊いた。感情を感じさせない怜悧な顔立ちが、吸い寄せられるように美しい。

「あ、いや、ぼく……ワタシは大丈夫です」

 シャンパンを早速飲み干したブルーテが「かわいいメイドさんに、ミルクでも絞ってもらったらどうですか〜」と、酔客よろしくはやし立ててくる。ブルーテの味覚はガスクロマトグラフばりの精度を誇る。いかがわしい成分を取り込んでいる可能性は限りなく低いから、単に興が乗ってきたのだろう。

「ルー、ほどほどに——」

「ハイナさん、おかわりいただけます? このノワール、おいしいですわね」

「ほう、わかるかね。我が蔵でとびっきりの逸品だ」

 諫めた永有珠を置き去りにして、なぜかブルーテとドゥアールはシャンパン談義に花を咲かせている。ため息をこらえ、膝をついたままのメイドのハイナへ、

「すみませんがハイナさん。彼女にはミネラルウォーターをお願いします。……すぐ楽しくなるんだから」

 と永有珠がこぼす。ここにはパーティー目当てで来ているのではない。今の雰囲気ならドゥアールへ本当にボタニカリトを渡して終わり、ということになりかねない。あくまでプレゼントはドゥアールの気を引く餌でしかなく、真の目的は、公爵の天庭だ。

 揉めるなら揉みたいこめかみから思考を外し、口を開く覚悟を決める。

 そのとき、視線を感じて永有珠はこちらを見ている翠の目へ問いかけた。

「ハイナさん、どうしました?」

「い、いえ。申し訳ありません。ただちにお水をお持ちします」

 逃げるように去っていくその後ろ姿を気に留める者はいない。永有珠たちが来てから常に付き添っているドゥアールの侍従だが、何度かこのような視線を感じたことがあった。特に、ブルーテとの会話のときは強い興味の目を感じた。

 フロアの影に消えたハイナの様子は気になるが、今は優先すべきことがある。

「ドゥアール公」

「まだいたのか。いまさら怖じ気づいたのではあるまい?」

「ボタニカリトをわたす条件がある」

 その一言で場の空気が瞬時に変わる。ブルーテと談義していたドゥアールがメガネを押し上げ、ゆらりと永有珠を向いた。深海の色をした瞳が、氷の言葉と共に永有珠の全身を刺し貫く。

「我に、条件をつける、と?」

「オウカの作には、元になった生きものがいる」

 久々に音を発した喉は既に焼けつくように痛い。冷や汗を吸収して〈羽衣〉は速乾性を上げているはずだ。今すぐにでもここを離れ、また悠々自適なあの二人旅に戻りたい。

 そのために、一刻も早く、ボタニカリトを還さなければならない。

「ボタニカリトも例外ではない。ぼ……わたしは、その生きものたちが見たい」

 光を通さないドゥアールの瞳が重圧でもって先をうながしている。

 間に立つブルーテは無表情に見えるが、その髪の色は緊張で薄紫の筋を引いている。普段はからかって遊ぶくせに、こういうときは永有珠自身より永有珠を心配してくれる。

 すべて終わったら、ブルーテの行きたいと言っていた桜の名所へ行こう。

 場違いな決意に勇気をもらい、永有珠は短く息を吸って要求を締めくくろうとした。

「あなたは広い庭を持っていると聞いた。そこを見せて——」

「ハハハッ!」

 思わぬ笑い声に永有珠は一瞬、自分の耳を疑った。そして確かに声を立てて笑っているドゥアールを視界に収めた、自分の目を疑う。とっさに動けるよう身構えていたブルーテに至っては、髪の色を忘れて口をあんぐりさせていた。

 周囲の視線に軽く手を振って「失礼」と応えて、公爵が傍のテーブルへグラスを下ろす。

「くくっ。なんて顔だ。君らは我を何と心得ておる? 狂喜のコレクターか? 血塗られた公爵か? 見識が狭すぎるな。我は、己の愛するものを慈しむ領主ぞ?」

 両腕を広げ、高らかに宣言するドゥアールの顔は至って冷静そのものだった。

 事実を真実として、一片も疑いなく信じ切っている者の顔。

 信念、と永有珠は師に似た狂気を感じて悪寒を覚え、そのような狂気を時折みせる永有珠の姿に、ブルーテは悲痛と、やるせなさを押し隠しきれない。

「たかだか我が天庭を拝むため、絞首台へ送られるような覚悟を決めるとはな。滑稽でやれん」

 今一度盛大に鼻をならすと、戻ってきたメイドのハイナへ顎をしゃくって公爵は尊大に頷いた。

「よかろう。我が天庭、存分に慈しむがよい。ハイナ、を案内してやれ。愛しき師の失われた心を持参した者だ。レベル6までのアクセスを許可する」

「かしこまりました、閣下」

 ウォーターボトルを新しいグラスに注ぎ終えたハイナが、流れる所作で承諾する。そのハイナにグラスを差しだされ、短く礼を言ったブルーテが吞まれかけた場の空気に抗って異議をとなえた。

「仮マ……サーのみとはどういうつもりです。ワタシも行きます」

「造られし者を我が天庭に入れることはできん。愛しい植物たちはそれを好まないからな」

「ですがっ、ハイナさんは……っ」

 言ってブルーテがハッと、口をつぐむ。顔色のように髪の色を後悔の黄緑へ染め、微動だにしないメイド姿に「ごめんなさい」とうなだれた。

 口を開きかける本人より早く、淡々とした口調がハイナを遮った。

「何を謝ることがあるのだ。ハイナの両手は、我に拾われたとき欠損しておった。疑似義肢ノイディカルプラントを与えていなくば、生涯、ものに触れることすら叶わなかった。そうだろう、ハイナ」

「公爵閣下のお慈悲、この一生をもってお返しする所存でございます」

 深々と頭を下げるハイナに、ブルーテの髪がほのか朱色に染まる。ドゥアールの恩着せがましい言葉に永有珠も不ぞろいな奥歯を嚙みしめた。

 だが、その怒りは悔しさに近く、公爵の言葉をわずかなりにでも理解できる自分への不甲斐なさからでもあった。

「今宵は偉大なるオウカ・ゾウゾウの偉業をたたえるため、諸国から賓客を迎えている。貴様は招かれざる下野だ。が、ずうずうしくも後継の皮をかぶるというなら、せいぜいそのように振る舞え」

 言い残し、公爵がフロア奥の大階段へ足を向けかけ、ブルーテにその濃紺の目を留めた。

「造られし者よ。話がある。我と来い」

 ぞんざいであまりに理不尽な要求。

 それをブルーテは声高に突っぱね、一悶着あると永有珠は思い——

「わかりました」

「……ルー⁈」

 恭順な言葉に永有珠は目を丸くするほかない。頑としてブルーテはついてくると、そう信じて疑わなかった。そうしてドゥアールの天庭からボタニカリトの片割れを奪い、脱出する。

 それが、事前に立てたプランのはずだった。

 髪を透明に変え、感情の読めない紫の瞳を永有珠へ向けながら、相方のヒューマノイドは最初からそう決めていたように首を横に振った。

「ワタシも公爵とお話があります。サーはさきにお庭を見てきてください」

「でも……」

 食い下がる永有珠に苛立った声で「見苦しいぞ」と遮ったドゥアールの額にシワが縒っている。

「レセプションは貴様のためだけにあるのではない。今宵の天庭は貸し切りにしてやる。これ以上、駄駄をこねるというのなら師の後継でも容赦せん」

 鋭く言いきってドゥアールが背を向ける。少し遅れてブルーテが歩き出すと、振りかえって会釈した。

「ハイナさん、サーをお願いしますね」

「承知いたしました、ミス・ルー」

 そのまま公爵のあとを追いかけるブルーテは永有珠に目もくれない。

『ブルーテ、あとで』

『……』

 チャットにも返事はなかった。


 広大なカジノのあちらこちらに、美術館さながらオウカの作品が展示されていた。短い生涯ながらその手がけた作は四百におよぶ。そのすべてを、ブルーテは記憶している。それが、〈彼〉が課した仕事だったからだ。

 多種多様なゲストに負けず劣らず、奇妙な作品たち。

 一メートルもある水晶の眼球、化石のような砂岩から豹の骨格、本物の人の涙を封じた磁力で回り続ける砂時計。

 フロアの中央、一番目を引く場所にそのアートは真昼さながら光を浴びて輝いていた。

「美しいだろう。植鉱ボタニカリト朶銥だい〉は。師の才が遺憾なく発揮された傑作だ」

「ワタシには銀ピカの汚物にしか見えません」

 憚らないヒューマノイドの物言いに公爵の顔がかすか硬直する。それも刹那のことで、フロアへ身を乗り出すようなバルコニーへたどり着くと、ドゥアールはブルーテとの距離を詰めた。

「おまえがほしい」

 深紫のドレスを翻し、すかさず距離を取ったブルーテは速攻で渋面を作る。

「お断りです。ショーケースに入って貴方からジロジロ見られるくらいなら、溶鉱炉へ飛びこみます」

「ハハッ! 活きがいいな、。我から逃れられると、本気で考えておるのか」

「そのときは、貴方も無傷では済みませんよ」

「ますます気に入った」

 満足げに頷き、バルコニーの欄干に両手を突く。

 その白い背中はあまりに無防備に見える。ひと蹴り、見舞えば十五メートル真下へ真っ逆さまだ。

 そんなブルーテの心中を読み取ったように、フロアを睥睨したままドゥアールが言った。

「これほどの情熱、いったい師は何を見据えておられたのだろうな。我には、人の範疇を超えようとしたようにおもえてならん。〈彼〉ほどの才能は当分、あらわれんだろう」

マスターはただのヒトです。特別視されることがなにより嫌でした」

「ならば、おまえが継ぐべきだ」

 欄干から身を乗り出した状態のドゥアールが間髪をブルーテに与えない。

「おまえこそが最高傑作なのだと、オウカ師はおっしゃっていた。我には理解しがたいことだ。だがいま、ようやく腑に落ちた」

「……なぜ?」

「おまえは限りなく穢らわしい。が、とてつもなく美しい。そのことが理解できる者など、世界に

 赤を経ず、瞬時にブルーテの髪が紫紺へ逆立った。

 感情のタカがシステム内で弾け、それが忌まわしい名を耳にしたからなのか、それとも優しいとさえ思える表情をうかべた奇人に戦慄したからなのか、あまりの激情に判断がつかなくなる。

 マスターが、自分をどう見ていたか、腐るほど身にしみている。

 マスターは、自分をよくできた作品、としてしか見てはいない。

 その主を憚らず称する公爵もまた、主の言葉を繰り返す。

 だがそれは、ブルーテにとって呪われた過去でしかない。

 過去を過ぎし日々として昇華させ、"今"という時を生きる意味をわからせてくれたのは、その主ではない。

 才に乏しく、人の機微にはまるで疎い。意地っぱりなくせに、自分がいないと置いてけぼりにされた子どものような顔をする。

 つい数分前、振りかえらず背を向けた理由は、公爵の言質を取るため。信用させるためわざと突き放したというのに、ヴェール経由で見えた顔といったら。

 ブルーテにとっての"今"を、嘲弄するなら、赦せるはずもなかった。

「……それが、オウカ・ゾウゾウの後継者を手にかけた理由ですか」

「言ったろう? あれほどの逸材を継ぐ者はいない。否、必要ないのだ。彼は完成された真の創造主。それを、憐れみで拾った飾りに過ぎない出来そこないを、跡継ぎなどと——」

 ブルーテの我慢はそこまでだった。

 握りしめていた拳が、怒りをぶつける対象を求め、疼いていた。

 だから心の欲するままに、それを解き放つ。

「だまれッ‼」

 肌を割る亀裂ベインを超高速でエネルギーが流れていく。

 音速を超えて踊りかからんとする肉体ボディの発した熱が、耐熱性のないドレスの裾をあぶり、炭へと帰せる。バランスの悪い軸足のヒールが折れ、ブルーテにわずかなラグを作った。

 その程度、たかだか人間一人に遅れは取らない——はずだった。

「ガキンッ‼」

 甲高い音と共に大気を震わせ放たれた必殺の拳が、弾かれる。

 笑みを深める公爵との間に見慣れた、それでいてケバケバしいネオンゴールドの半透明な光が輝いている。それが、汎用可変電磁層ヴェールによる強力なシールドであるとブルーテの思考が理解したとき、四方をすでにネオンゴールドの光に取り囲まれていた。上を見上げても、黄金色が目を焼くだけ。

 光の牢のなか、感覚を失い、だらりと力なく垂らした右腕を庇うようにして、紫紺の髪を逆立てる少女が歯を剥く。

「臆病者っ‼ シールドを外して堂々と戦えッ‼」

「この障壁は我の体だ、穢らわしき傑作マスターピースの娘よ」

 奇術師マジシャンのように大仰にまくって見せたドゥアールの左袖の下には、皮膚らしい皮膚はなく、代わって黄金の線が、あらゆる言語で肌を埋め尽くしていた。それら文字はランダムに連なり、意味を持たない。が、人類最古のヒエログリフが、ブルーテたちヒューマノイドの言語たるコードたちと並び立つさまは、文字を刻みつけた本人の高慢を表しているように見えて、ブルーテは吐き気を禁じえない。

「……シールドジェネレータを、皮下、に」

「さすがは師の最高傑作グランドマスターピース! そのとおり。これは我の神威の証だ。何人たりと、我に触れることは叶わん。……だが」

 恍惚とした表情が一変、優しげな笑みへとドゥアールの口元が姿を変える。その変わり様に、ブルーテはすでに思考を割いていなかった。通信をも遮断するエネルギーシールド。だが、ブルーテには科学を超えてつながる回路、ダイレクトパスがある。量子テレポーテーションにアイディアを得たその回路は、ユニーカという、未だ科学が解き明かすことを拒み続ける異能によって編み出された。

 特定の相手のみにしか通じないダイレクトパスを、いまは傍にいないタキシードへつなげようとして、ブルーテは気付いた。

 空間を飛び交う通信の嵐が、回復している。ドゥアールのシールドによって一切の隔絶を余儀なくされた通常通信の目に見えない嵐が、ブルーテのあらゆる感覚器へ信号を伝えている。

 そして悪趣味と言わざるを得なかった黄金色の壁もまた、ブルーテの認知空間から消失していた。

 そうして、呆けていたヒューマノイドへ、腕を下ろした公爵が静かにささやいた。

「おまえに自由をやろう。我を手にかけたくば好きにするがいい——おまえが、主にしたようにな」


 3


 南半球で見える星座は、北と少し異なる。

 狩人オリオンは逆さに立ち、獲物サソリの毒尾がまさにその足を狙うように上弧を描く。

 そんな話をしてくれた快活な少女の笑顔が頭に浮かび、何度目かわからない通信を飛ばしかけて、永有珠は浮かんだヴェールのキーボードから視線を逸らした。

「……」

 真夏の夜空の下、輝く宮殿を背に舗装された一本道を、完璧に一定した歩幅でしずしずと歩くメイド服の、表情が読み取れないエメラルドの瞳が前を見据える。そのメイドからやや遅れ、やけに高い背もたれを有した玉座が、道へ影を落としながら浮遊し追随する。

 二人の前には、煌びやかな俗世から隔離された手つかずの山林が遠く、三日月の麓まで続いている。

 この山林に、目的の天庭——ドゥアール公爵が所有する世界最大の植物園〈ガーデンエターナル〉がある。

 そう公爵本人に明かされ、専属の案内人まで伴われ、プライベートカジノ〈グランパレス〉を後にしてから一時間足らず。空気はひんやりし、いたって静かな行程に永有珠の不満はない。

 あるとすれば、グランドテール島へ着くまで、そして到着してからも頬を膨らませがちだった相方の心配だ。元から気分屋なところのある彼女だが、髪の色を変えてまで腹を立てることは滅多にない。そんな相方を、一週間で二度も永有珠は立腹させてしまっている。挙げ句、さきほどは敵地で離ればなれになるという事態に、まったく動揺を見せていなかった。むしろ彼女自身から別行動を願うような様子でさえあった。

「——まだ怒って、いるのか」

 擦れた肉声のつぶやきに驚くより早く、静謐な否定が入った。

「いえ。わたしは怒っておりません。サー・ゾウゾウ・ジュニア」

「……そ、そうか。あーの、ハイナさ、ん?」

 裏返り気味の声を落ちつかせようとして、さらにおかしくなった問いへ前を歩くメイド——ハイナが律儀に「はい、なんでしょう」とわずかに振り返る。

「その呼び方は、やめてほしい。せめてゾウゾウだけで……」

「承知いたしました、ゾウゾウ様」

 速攻で返る歯切れのよさに永有珠は言葉もない。

 そして、いまのように会話が続かないことも、永有珠に宵闇のようなプレッシャーを与える原因だ。寡黙であるという自覚がありながら、会話のない時間が永有珠は苦手だ。

「あー、ハイナさん?」

「はい、なんでしょう」

「庭園はどこに?」

 無理やり絞り出した話題は、永有珠がずっと聞きたかった疑問だった。

 カジノを出てからというもの、一向に〈ガーデンエターナル〉が近づいてこない。トレーラーハウス〈アヴァロン〉の車内から走査スキャンした限り、ここヌメアは港街であり、北東へ五キロほど行ったさきに、街と同程度の面積を有する自然保護公園があるだけだ。

 その自然公園が件の庭園とすると、まだしばらくこの気まずい空気の行脚が続くことになる。

 ふと前を行く白いフリルが立ち止まり、永有珠もそれに合わせて浮遊玉座を止める。

「こちらです」

 半身振りかえったハイナが宙に手をかざすと、ぼんやりしたグリーンの光がその手の形に浮かび上がった。

 刹那、遠方に見えていた山林が蜃気楼よろしく霞んでいく。再び山の稜線が夜の闇に姿を現したとき、その変貌に永有珠は息を吞んだ。

「——すごい」

 黒々と闇に沈んでいた山は、四季を散りばめた色彩の見本市に様変わりしていた。山頂近くは低温域に色付く葉の燃える赤やオレンジ、裾野へ向かうにつれてグラデーションが黄色や薄桃色へ装いを変えている。麓には、ここからでもわかるほど巨大な水晶が夜空を突き、月光を反射して透白に空間を閉じ込めているのが、温室であると察しがつく。

 他惑星のようなクリスタル群から蛇行した道がゆるゆると、永有珠たちのいるヌメア郊外へ続き、その脇にも多種多様な花が、草が、木々が調和の取れた配置で根付いている。

 正面、まるで天国への入り口のような黄金のアーチを見上げ、荘厳に刻まれた文字を永有珠は生唾と共に心へ吞み込む。

 案内役のハイナは、片手を上げ、相変わらずの無表情のままその文字を紹介した。

「ようこそ、ゾウゾウ様。永えなる天の庭、ガーデンエターナルにございます」


「……こちら、絶滅危惧種のフトモモ科に属する、ゴールデンペンダでございます。英語圏では別名の"初恋"で知られ、ここニューカレドニアの南西、オーストラリアはケアンズの州花に指定されておりました」

 背丈を大きく超える十メートルほどの樹花を示しながら、ハイナの説明が心地よく永有珠の耳を打つ。すらりと四十五度上を指し示す色白の手指のさきを目で追うと、そこには東洋の毬によく似た丸い浅黄の多弁花が、果実のようにたわわに実る。指先ほどの小さな花たちが立体的に寄り集まり、拳ふたつ分ほどの球体を形作る。

「初、恋?」

「弾けるようなその瑞々しさと色合いから、甘酸っぱい初めての恋を連想させることから、とのことにございます」

「へ、へえ。ロマンチックな花言葉だ」

 鉄仮面を貫くハイナがそのような説明をスラスラと口にしたことに少し、驚きながらも感想をもらした永有珠に、続いた「公爵閣下のお言葉にございます」という追加説明が、危うく、喉を詰まらせるところだった。

「げほっ……」

「いかがなさいましたか。お顔が赤いようですが」

 心配してくれたハイナが不思議そうに首をかしげる。あのドゥアールの知りたくもない一面を覗いた気がして、強烈に嫌悪感をおぼえた永有珠だが、同時に、ひとつひとつ花言葉を書き換えていく公爵の姿を想像し、こみ上げる笑いを隠しきれない。

「い、いや……大丈夫」

「さようにございますか」

 頷いたハイナはそれ以上、踏みこんでこない。案内役として必要過剰な詮索をしないのは当然なのかもしれないが、対照的な少女の姿が永有珠の頭をよぎった。ブルーテなら、こういうときは根掘り葉掘り、心の言葉を暴きに探りにくる。土足で踏みこまれるような無遠慮さには一時、いら立ちを感じないでもなかった。

 それが、心地よく感じるようになったのはいつだろうか。

 在りし日へ意識が飛びかけ、永有珠はあわてて自分の思考を現在へ固定する。まさにいま、そのブルーテは永有珠のワガママに付きあうため、宿敵に一人、立ち向かっている。別れ際のそっけなさは引っかかるが、ドゥアールの根城に残った事実は変えられない。

 ブルーテのためにも早く、目的を果たし、帰還しなければならない。

「——こちらも、お確かめになりますか」

 言いかけた意図をハイナの確認に先制され、永有珠はとっさに言葉に詰まった。それでも自分を落ちつかせながら、「頼む」と要求を口にする。

「かしこまりました」

 会釈し、ハイナが浅黄の花毬——ゴールデンペンダの葉へ伸ばした手でもって、ポキリと、枝をひと房、折り取った。花のついた切り枝を手に永有珠のそばまで歩み寄り、一礼し、骨張った永有珠の手をゴールデンペンダへ触れさせる。

「『分析……』」

 肌を通して伝わる花の質感、香り、ひんやりした命の灯り。

 それらすべてを、永有珠は記憶へと焼き付ける。

 花卉に直に触れ、その構造と在り方を肌で知る。

 それが、はるばる太平洋を渡り、自分を手にかけようとした相手へ頭を下げてまで、永有珠が為そうとした目的。

 すべてのボタニカリトを分離するための、不可欠な手順だった。

「『あー、またハイナさんの構造まで流れこんでくるな』」

 触れたものの構造を知るのは、選択的な行為ではない。当然、永有珠の右手を支えるハイナの陶磁のような手を通じても、公爵付きメイドの"在り方"まで永有珠の分析へ流れこんでくる。紳士として永有珠は、諸々のプライベートな情報を極力見ないようにしつつ、つい自分の手に触れるもう一つの手をまじまじと見つめてしまう。

 ハイナの手もまた、触れている花のように夜気をまとって冷たかった。肌を区切る亀裂ヴェインはなく、その手のひらは驚くほど生粋の人の手に似て浅い掌線が柔らかく広がる。手のひらの中央、月明かりに反射した緑の宝玉が、そうではないと警告するように楔を打ち込んでいる。

「『待てよ。これって……』」

 スルーしなければならない個人情報のなかに見過ごせない文言を見取って、永有珠が奥歯を強く嚙んだ。文言はいわゆるバイタルのデータだった。身長、体重、血中コレステロール値に、心拍数から種々のホルモン値まで数値化され、心臓付近に埋め込まれた送信機から送り出されている。受信先は十中八九、主のドゥアールに違いない。

 そして、人の体にあるべからずものが、同じくハイナの心臓付近で信号が届き、命令を実行するときを待っていた。

「『——くそっ、公爵め』」

 内心で毒づいて永有珠はちらりとハイナの横顔を盗み見た。淡い白色に照らされ、ただでさえ色白な頬は透き通るように美しく、影になった半分が物憂げな見えない感情を示しているようだった。

 彼女はこのことを知っているのだろうか。

 体内に、爆発物が仕込まれていることを。

「ゾウゾウ様?」

 長く見つめすぎてしまったせいで、ハイナがこちらへ黄緑の瞳を向けてきた。その真っ直ぐな目を見ていられず、とっさに「い、いや。次にいこうか」と永有珠は視線を逸らした。

 露骨に怪しい客人に顔色ひとつ変えず、永有珠の手を離したハイナが枝を無造作に放って、散策路へつま先を向ける。

「かしこまりました。お次で最後、でございましたね。こちらへ。日本エリアへご案内いたします」

「助かる。……それにしても折った枝、よかったのだろうか」

「問題ございません。よい肥やしとなるでしょう」

「そ、そうか」

 低地の草木から始まった天庭ツアーは乾燥地帯、湿原、湖畔と場所を変え、全力疾走するハイナの前は、なだらかな丘が続いている。玉座の速度を上げ、その後ろ姿を自動追尾モードで追いながら、流れていく景色に永有珠は〈ガーデンエターナル〉の偉容に舌をまく他なかった。

 その所蔵する植物種の数が、圧倒的だからだけではない。

 その莫大な種が、それぞれに最適な環境で、考え得る限り最高の状態を保たれている。

 師匠の関係で永有珠もある程度、植物を学んではいた。だが、この庭園を築き上げている知識量は尋常ではないと永有珠は恐れにも似た畏怖を感じる。数多の植物を適した生育環境に配置することがどれほど高度な知識に基づいているか、焼き付け刃の自分にさえ察しがつく。

 知識に裏打ちされた、植物たちへの圧倒的な想いも。

「『情熱、か』」

 先刻ドゥアールに投げつけられた言葉を心のなかで反芻し、永有珠は高速で流れていく景色をまぶたで遮り、深く息を吐いた。

 ドゥアールの庭には確かな想いが根付いている。

 威厳を誇示するだけなら、希少な植物だけ集め見せびらかせば事足りる。公爵ほどになれば、それこそ固有種の宝庫たる、ここニューカレドニアを自らの領地にすることさえ容易なはずだ。

 だが、ガーデンエターナルは、希少種の展示場ではなかった。

 ひっそり道端に花びらを広げるナズナ、樹木に絡み付く厄介者のヤドリギ、そのヤドリギに寄生され共生するケヤキの大木を、永有珠は道中で目にしてきた。どれもありふれた植物でありながら、その姿は生命力にあふれ、脇役の感はどこにも見当たらない。

 それは、すべての植物を自らのものと公言して憚らないドゥアール公爵の、熱い想いの表れだった。

 それが、創造ではなく、破壊セパレーションを目的とする永有珠との、永遠に埋まり得ない深く暗い溝だった。

「『ぼくが間違っているのだろうか』」

 自問自答に答えてくれる相方は、いま、そばにいない。そして問いに対し、はっきりと「否」をとなえられない自分は、底なしの不安へ沈んでいくようだった。

「ゾウゾウ様——」

 無感情な声とほぼ同時に玉座の動きが止まる。減速していたことにも気がつかなかった永有珠は、物思いから顔を上げ、そこで初めて、正面の薄桃色に思考のすべてを持ち去っていかれた。

「バラ科サクラ属、エドヒガンにございます」

 夜空はある。周囲も薄暗い。

 だが、しだれたその古木は、照らし上げる光に暗闇を寄せ付けない満開の花をまとい、丘の上にただ一本だけ、立っていた。


「きれいだ……」

 頭上を覆うサクラ色の天蓋を見上げ、永有珠はただ感嘆の言葉をもらした。

 白色の淡い光に包まれた桜は幅広に枝を伸ばし、時折吹いてくる風にゆっさゆっさと凹凸の激しい枝先を上下させている。その度、はらはらと薄桃色の欠けらが重力に逆らうように時間をかけて大地へ降り立つ。

「日本の地で生まれたエドヒガンは、二〇四〇年代、一斉に寿命を迎えたクローン体、ソメイヨシノの親株でもございます。この樹株は、二十三年前、伐採が予定されていた老木を公爵閣下が引き取り、ガーデンエターナルでわたくしめが養生してまいりました」

「ハイナさんが、この桜を?」

「はい。樹木医だったわたくしめに、閣下が最初にお与えになった務めでございます」

「そうなのか。ハイナさんがこの桜を元気してくれたんだ」

「……わたくしめは、ただ、お務めを」

 頷きかけ、そうしてよいものか迷うようにハイナの言葉がぎこちない。

「ハイナさんの仕事のおかげで、ぼくはいま、本物のエドヒガンを見ていられる」

 大きく動かせない首で精いっぱい永有珠が頷いてみせると、桜の医者は深々と頭を下げた。

「いま日本で見られる桜は、そのクローンのクローンばかりだ。こんな立派な一本桜は、保護の名目で近づくこともできない」

「あちらでは、超高精細立体スキャンによる全季節型の花見が可能と、うかがっておりますが」

「ホロザクラか。限りなく本物に近いが、やはり本物にはかなわない」

 科学が作りだしたデータの桜には、手で触れることさえできる。天候を自由に設定し、雪化粧させることもできれば、砂浜に花びらを散らすことだって自在だ。咲き開いた花を、蕾へもどすことさえ造作もない。

 生まれたときからそうだった桜に、けれど永有珠はなぜだか無性に哀愁を感じてしまう。光の屈折と磁場によって描きだされたその姿を、拒絶してしまう。

「ゾウゾウ様」

 何度目かわからない名前を呼ばれ、永有珠が声のしたほうへ玉座を回す。背後に控えていたメイド姿は相変わらずの無感情な表情だったが、どこか思い詰めたように頬が硬い。その姿に、さきほど偶然に知り得た彼女の秘密が、永有珠の思考をかすめていく。

 ここなら、爆発の被害は最小限に済む。だが、確実に桜も巻き添えをくらう。

 身構えた永有珠へ一歩、踏み出したハイナが「浅学をお許しください」と断ったうえで言葉を続けた。

「——本物、とはなんなのでしょう」

「……思い込みだ、きっと」

 はぐらかされたと思ったのか、ハイナが整った眉尻を下げた。そこは普段、わずかな表情の変化に一喜一憂している永有珠のこと。すぐさまあわてて舌を嚙んでから、

「ジョークじゃない。ぼくはそう思っている。——結局、自分が納得できたものが本物じゃないだろうか」

「納得……」

「いまこの瞬間だって、現実とは思えないくらい美しい。でも、ぼくは本物だと思っている。ここまでの道のりを納得しているから。……まあ、彼女がいてくれたら言うことないんだが」

「お連れのヒューマノイドでいらっしゃいますね」

「——その呼び方はやめてくれ」

 思った以上の強い言葉に永有珠自身、言って驚いた。確認したハイナに悪気があったとは思わない。

 ただそれでも、怒りは収まらず、

「彼女は人間もどきじゃない。彼女は——」

「——人間だから、でございますか?」

 遮ったハイナの言葉に、遮られたこと以上に息が詰まる。

「……な、ぜ、それ、を……?」

 驚愕に唇が震える永有珠を見たハイナの顔に一瞬、苦悶の色がうかんだのが永有珠には見て取れた。ハイナの苦しむ理由が、永有珠には見当もつかない。

 それ以上に、ブルーテの根源に関する情報を知っていたことが、さらに思考を緊張させていく。かろうじて視線を手元のベルボタンへ合わせることには成功したが、続く言葉を入力はかなわない。

「申し訳ありません。サー・ゾウゾウ・ジュニア——」

 永有珠の嫌がった肩書きで呼び、新緑の瞳が照準器よろしく対象の目を捉えて離さない。

「あな、たは……」

 そのまま胸元のリボンを解き、露わになった裸体をゆっくりした赤い点滅が彩った。

「——公爵閣下の贈り物は、どちらにございますか」

 ハイナの背から抜き放ったナイフが冷たく、永有珠の首へ警告を刻む。

 事もなげに散ってみせた桜の花びらが、はらりと二人に舞い落ちた。


「——仮マスっ⁈」

 脳内へ直接呼びかけてくる通信と、跳ね上がった相方の心拍数に、バルコニーに立つブルーテはとっさに振り向いた。深紫の髪が、無駄に滑りのいいじゅうたんと同じ緋色へ瞬時に色づいて、ブルーテは、階下を背に超然と碧眼を向けてくる白いチェスターをきつく睨みつけた。

「なにをしたッ⁈」

「なにも。いまのところは、な」

 限定付きであっさりと所業を認めた丸メガネの壮年——ドゥアール公爵は、自分の言葉にいきり立つ、右腕を力なく垂らした小麦色の顔に青い亀裂の走る少女——ブルーテを満足げに眺めて歩み寄る。

「おまえの忠誠心を試しただけだ、狭間をさすらい続ける美しきものよ。その怒り、ますます気に入った」

「仮マスを傷つけてみろッ! 貴方の欲しいものぜんぶ、壊してやるッ!」

「そう咆えるな。客人が驚くではないか。皆、おまえの主に深い敬意を払っている者ばかりだ。それに——」

 わざとらしく言葉を切り、丸メガネの奥の碧眼でブルーテを制したドゥアールは、振り返って上階から高らかに宣言した。

「お集まりの諸賢! しばし拝聴願いたい。きょう我らは、偉大にして唯一の彫刻師、オウカ・ゾウゾウの夭折を悼み、ここに彼の功績を称えるため馳せ参じた。その偉業を今後、新たに目にすることが叶わぬのは、我らにとり、否、世界にとっても大きな哀しみである!」

 謳い揚げるドゥアールの声に静かな高揚がフロアを伝播していく。その言葉に続くものが何であれ、ブルーテにとって耳心地のいいものであるはずがなかった。

 今度は気配を悟らせることなく、下肢へ力を込め、一気に駆け抜け——

「——だが今宵!」

 広げたドゥアールの右腕が黄金の光をまとい、同刻、ブルーテをまばゆい四角柱が阻んだ。閉じた空間の壁を、ブルーテは大地に穴を穿つ威力の拳でこじ開けようとするが、高密度のエネルギー壁がそれを許さない。

 肌の亀裂が高速で点滅し、消費される膨大な体内エネルギーが灼けた皮膚に湯気を立たせ、それでも足りないと強引に生産させ続けた結果、限度を超えた熱量によって文字どおり、千七百度まで耐えるヒューマノイドの人工皮膚イノーガスキンが融解していく。

「我、ジャン・クロージャン・ドゥアール公爵は、我が名において諸賢に吉報を伝えたい! オウカ・ゾウゾウは不滅だ! いまここに、万雷の拍手をもって迎えよう——彼の継承者を‼」

 ひしめき合うフロアを撫でつけるざわめきは、ブルーテの耳に届かない。ただ狂喜し言い放ったドゥアールの最後の言葉が、ブルーテの抵抗を一時的に留めていた。

 そのざわめきを生んだ張本人がブルーテを見つめ、黄金に瞬く双腕を広げる。光が反射し、見ることの叶わなくなったドゥアールの目。

 だが、悠々と動くその唇が発する声なき命令を、傷つき、なおも考えることを止めないブルーテの目が、脳が、思考が、正確無慈悲に読み取る。

「受け入れろ。さもなくば今度こそ——あれが死ぬぞ」


 4


 一度だけ、本物の殺意というものを当てられたことがある。

 それは激しい怒りや、粘りつく憎悪などではなかった。

 ただ鋭く冷たい、こちらの死を欲する揺るぎない想いだった。

 ——いま、喉元に当てられている刃物のように。

「抵抗はおすすめしかねます、サー。苦痛は、なにも生みません」

「……後半は、同意、する」

 つーと、首を伝ったヌメリが取って付けただけの蝶ネクタイに染みて、わずかに不快感が軽減した。機能線維ではないシルクの帯は、相方が絶対不可欠だと言って聞かなかったアイテムだ。邪魔でしかないと主張した永有珠に、新緑の髪の色をした笑顔のまぶしいその少女は、「記念すべき社交場デビューですよ?」と微笑んで無理やり、帯を引き結んだ。

 不可思議な回線を通して永有珠とつながる少女のパス。普段、思っていることがひとり言のように言葉として浮き上がってくるヴェールはいま、なにひとつ、声を投げかけてこない。

 その心中を察したように、バターナイフのような短い刃を永有珠の首へ這わせたまま、覆いかぶさるようにメイド服をはだけたハイナが耳元でささやいた。

「ミス・ルーは今頃、公爵閣下の手におちているでしょう。あの方が欲するものは、必ず手に入れる」

「……あなたはそれでいいのか」

 不思議と、ハイナの言葉に揺らがない自分を感じて、永有珠は逆に問い返した。

「いい、とは?」

「ぼくの相方は、そう柔じゃない。きみの公爵に、おいそれと従う器じゃない」

「サーには、おわかりにならないでしょう。閣下の言葉は天命そのもの。たとえ、サーのヒューマノイドだとしても、逃れることは——」

「いい加減にしてくれ!」

 ヴェールに浮かべた矢印キーを視線で叩き、初動のない遠心力へ身を任せる。無駄に背高な玉座がごぅ、と風を切ってその場でターンを決める。

「なっ⁈」

 さしものメイドも予想していなかったらしく、身軽に後ろへ飛んで距離を取った。その背後に立つエドヒガンが、はらはらと薄桃色の欠けらを散らした。

「ブルーテはヒューマノイドじゃないって言ったじゃないか。彼女は……」

 めまいを堪え言ったところで、永有珠は自分の過ちに舌を嚙みそうになった。よりによって名前を、自分たちを貶めようとしている敵に滑らせるとは。

「Blute——東洋の深山に咲くといわれる、幻の青い花」

 だが、その名を聞いて緑の瞳を大きく開かせたのは、ハイナだった。つぶやいた内容はごく一部の者にしか知られていないおとぎ話のような逸話だ。その昔、仙人が流した涙から育ったという幻の花。

 人の手が決して届かない桃源郷に咲く花の名を、彼女が冠した理由を永有珠は知らない。名付けオウカは名前に想いを込めるような人格でなく、現にそのネーミングセンスは名を授かった本人まで顔をしかめるほど。

 甚だ永有珠も同感だが、ブルーテの名は悪くないと思う。ひっそりと山間に揺れる青い一輪は彼女にぴったりだ。

「そうだよ。彼女は——ブルーテは花の名を持ったヒトだ。本人には言えないけど」

「……意味が、わかりかねます」

 永有珠に逃亡する気がないのが伝わったのか、ゆっくり腕を下ろしながらメイド服が顔をしかめた。

「ただのワガママ、だ」

 擦れた声に出してようやく、幼稚な主張だと笑みがこぼれた。

「ぼくは、ブルーテがヒューマノイドと呼ばれるのも、彼女がそうしてほしいって言うのも嫌なんだ。ブルーテはだれよりヒトらしい。それは尊いことなんだ」

「サーは自己満足からお連れの方を人あつかいしたい、と?」

「そうだ。ワガママだよ」

「お連れ様は、広い心の持ち主でいらっしゃいますね」

「まったくだ」

 言いきった永有珠の顔に後悔も恥じらいも偽りもない。いっそ清々しく、開き直った青白い顔は拍子抜けするほどだ。

 その開き直ったままの顔で、永有珠は己に刃を向けた刺客へ持ちかける。

「ハイナさん、教えてもらえないだろうか。あなたの主は——ドゥアール公爵はどんな手をつかうのだろう?」

「乞われて答えるとお考えなら、わたくしへの愚弄です」

 キッと半目になったメイド服へ「すまない」とあわてて付け加えながら弁明を続ける。

「ブルーテは知恵が働く。相手がだれだろうと、引けはとらないはずだ。だけど、しばらく連絡がない。心配だ」

 ドーム越しに降り注ぐ月明かりを見上げ、ノッポな玉座に乗る小柄の男が顔に影を落とす。この男は状況を理解しているのだろうか、とハイナはやや混乱していた。

 永有珠の命は、こちらが握っている。あの玉座にどのような仕組みが残っているかは知らないが、二度は妨げられない自信がある。

 主の命令は、彼から情報を聞き出すこと。そのための手段なら問わない。

 状況は彼にとって絶望的に悪く、孤立無援だ。にもかかわらず、男は認めたがらないヒューマノイドを案じ、魔の手たる自分へあけすけなまでに心を吐く。

 それが演技には、少なくとも百戦錬磨のハイナには見えなかった。

 それがどことなくうらやましく、ハイナはそんな自分に驚いていた。

「公爵閣下は常に相手の先手に立つお方です。わたくしはこれまで、閣下を欺いた者を見たことはありません」

「だからあなたの助けがいる、ハイナさん」

 まっすぐに名前を呼ばれ、ハイナは染みついた癖から相手の意図を読もうと思考を回す。

 だが、暗闇のなか、ライトアップされた桜の下、黒い瞳はただ純粋に願いをたたえていた。

「なぜです。なぜ、わたくしがサーの手助けをしなければならないのですか。公爵閣下に背くことがなにを意味するか、おわかりでしょう」

「背く必要はない。あなたはドゥアールがほしいものを持っていく。ぼくは、ぼくの大切なヒトを取り返す」

 滔々と続けて依頼を述べていく人質に、ハイナはため息が禁じえない。こんなワガママな要求など聞いたことがない。

 けれど、不思議と悪い気はしなかった。

 人質の語る作戦は、まるでクラシカルなスパイ映画だ。そんな安っぽい手が、公爵に通用するわけがない。

 けれど、そのまっすぐな想いはハイナに、忘れていたなにかを思い起こさせていた。だれかを純粋に想う、まっすぐな気持ちを。

「——それで、サーは騎士ナイトになられるわけですね」

 作戦を伝え、ひと呼吸をついた永有珠にハイナが真顔でそんなジョークを投げかける。一瞬、目を見開いた永有珠は視線を逸らし、ぼそっと声音をこぼす。青白い頬は薄桃色に色づいていた。

「たまにはその立ち回りも、いいかもしれない」


 宮殿のバルコニーで光の籠に囚われ、食いしばった唇から青い血を流しながら、ブルーテは悠然と腕を広げる金色の公爵を睨みつける。小麦色の体から立ちのぼる蒸気が、ただ虚しく高エネルギーの壁に吸収されていく。

 無駄だとわかっていても、グラスファイバーの髪を紅蓮に逆巻かせ、紫の瞳をした少女は咆えた。

「仮マスはどこにいるッ⁈ 姿を確認するまで言いなりにはならないっ‼」

「案ずるな。おまえがサインすれば済むことだ」

 指揮者よろしく翻したドゥアールの左手から輝く羊皮紙ホロペーパーが宙に放たれる。大仰にわしづかむと高々と掲げ、ブルーテへ突きつけた。

「おまえの創造主の刻印クリエイターズサインを渡せ。永えの忠誠を我に誓うのだ。さすればおまえの連れに手はださん。永劫に」

 羊皮紙にはブルーテの管理者権限を譲渡する電子誓約書の文言が並んでいた。電子的な手続きでしかない誓約には無用の飾りだ。詳細はすべて羊皮紙を形成する光のドットに集約され、ブルーテの目がスキャンしただけで内容は一目瞭然である。ドゥアールの言葉もまた誓約書に刻まれ、その行為は体内に埋め込まれたデバイスが監視し、違反した場合は社会的信用が失墜する。

 そこまでして、ドゥアールはブルーテの刻印がほしいという。ヒューマノイドの基幹に刻まれた絶対服従のコード。その刻印さえあれば、相手は意のままだ。

「ここに集う者すべてが公証人だ。おまえは偉大なオウカ・ゾウゾウの跡を継ぎ、我がその栄光を永遠のものとしよう」

 永遠。そんなものは、どうでもよかった。彼らは永久に憧れ、手に入れるためなら手段を厭わない。

 だが、永遠など、最初からありはしないのだ。

 追い求めるのは、見上げた夜空の煌星へ手を伸ばすようなもの。決して届かない夢へなお、手を伸ばすなら、目の前の大切な何かを手放さなければならない。

「……仮マス」

 ブルーテの想い描いたその人は、ひどくワガママで相手の都合など考えもしない。そのくせ、寂しがり屋で構ってやらないと、傷ついたような顔をするのだ。さっきだって別れるときに振り返ってやらなかったら、捨てられた猫のような顔をしていた。

 永有珠とのパスは以前、バイタルしか伝えてきていない。乱高下があったということはその身になにかが起こったのだ。だがブルーテの問いには沈黙しか返してこない。

 ダイレクトパスで伝えられないほど危機的なのか、あるいは故意に、返事をしないか。

 後者なら、とっちめてやらなければ、とブルーテは目を細くする。そして前科がある以上、ドゥアールを信じることはできない。

 それでも永有珠が救われるなら。

 ブルーテがドゥアールの手に落ちることで、彼の未来に幸があるのなら。

『そんなことあるか!』

 誓約書へ伸ばしかけたブルーテの手を、聞き慣れた声が引き止める。聞こえるはずのない、しゃがれた声。

「——ん?」

 ついと、顔を上げたブルーテの視線につられ、ドゥアールがフロアへ目を向ける。

 宮殿の入り口が勢いよく開かれ、墓標のような背高な玉座が夜気をまとい——

「まてっ、ブルーテ‼」

「仮マス——っ⁉」

 永有珠の首元に走る細く赤い線。

「——ッ‼」

 その傷が目に入った刹那、ブルーテのなかで彼女をせき止めていたものが音も立てずに切れる。

 肌を駆けるヴェインが拡張し、小麦色の肌を侵食。みずみずしさの消えたブルーテの皮膚が蒼光をほとばしらせ、機械的な禍々しさをたたえていく。同じメタリックブルーへ色づいた髪が寄り集まり、一本の尾ポニーテールを成すと鞭のように空気を切り裂いた。ブルーテの拳に絶対的な防御力を見せていた、ドゥアールのエネルギーシールドがその一閃でガラスのようにひび割れる。

「なっ」

 光の檻を粉砕し、だがブルーテは止まらない。深淵の紫を瞳にたたえてブルーテはドゥアールを一瞥するとテラスから身を躍らせ、フロアを突っ切っていく。

 いまのブルーテにとって身じろぎしないドゥアールは最早、眼中にない。すべきことは永有珠の救出だ。

 その姿を狂戦士へ変えたヒューマノイドを、近しい存在が阻んだ。

「ガンッ‼」

 金属音に火花を散らせたのは、腕をまくったハイナだ。ブルーテの突きを次々と躱し、受けとめ、決して退かない。

「どけッ!」

 修羅のごときブルーテの躍動をメイドは顔色ひとつ変えず、淡々と諫める。

「お静まりを。ミス。ここでは人目が……」

「邪魔するなッ‼」

 全状況対応戦闘ヒューマノイドたるブルーテの猛攻を、護衛としてカスタマイズされたメイドが防ぎきれるはずもなく、豪奢なドレスが破け、血肉と金属片が周囲に散らばっていった。

「よせ、ブルーテ!」

 懸命に張り上げた永有珠の声で、ようやくブルーテのメタリックブルーの手が止まった。左手でハイナの首を締め上げ、右の拳が腫れ上がった鼻先の寸前で留まっていた。

「なぜ? 仮マスを傷つけた者ですよ? 排除して当然です」

「悪ぶった言い方はよしてくれ。きみは、人殺しじゃない。これまでも——これからも」

「——っ」

 無機質な機械と化した拳の、震えが止まらない。鉄蒼へ染まる肌の色が抜け落ちていき、元の小麦色の肌が——人間のような肌を取り戻していく。

 それは、ブルーテからすれば赦されたようなもので、受け入れてはならないものだった。

 けれど、たまらなく嬉しい言葉に違いはなかった。

 だからせめて、お決まりの抵抗をブルーテは口にする。

「——ワタシもこれも、ヒトではありません」

「いや」

 だがその言葉はあっさり、否定されて。

「ヒトかどうかどうでもいいんだ。ハイナさんもきみも、同じ素敵な人だよ」

「そんなのっ——」

 ずるい、と口にはできなかった。たかだか出会って数時間の相手と、並列にされたことも悔しかった。

 それ以上に「素敵な人」と表現する永有珠の、その無神経加減がどうしようもなく、相方らしく、だから笑ってしまう。

「ミス・ルー」

 そのブルーテの笑みが伝わったのか、押し倒したメイドが穏やかに呼びかけてきた。満足げにさえ聞こえるその声に覚悟の色を感じ取って、ブルーテは紫の瞳を硬くした。

「なんのつもり——」

「サーを……大切になさってくださいませ」

 願いは短く、行動は素早かった。

 背へ隠したのだろうハイナの左手が煌めき、放たれた銀の軌跡が白い人影めがけ——

「こざかしいっ‼」

 だが、ハイナのナイフはドゥアールの金色のシールドに防がれ、ことりと床へ墜落する。

 瞬刻、いら立った公爵の顔が「しまった」と後悔に歪んだ。

 何人たりとも己に仇成す者は容赦しない。それが自らの手の者だったとしても。

「仮マスっ‼」

 ハイナの腹部がまばゆい赤に染まる刹那、あぜんとした永有珠を玉座から引きずりおろし、ブルーテは駆ける。

 彼女の犠牲を無駄にしてはならない。

 直後、爆音が宮殿を揺らした。

「インフィニート‼」

 紅のグラスファイバーをたなびかせ、永有珠を背負ったブルーテが忠実なる駿馬の名を固有周波数で呼んだ。

 すかさず曙に色づきはじめた空を背に、甲高い駆動音をたぎらせてルビーローズの四輪がカーポートへ滑りこんでくる。行く手を妨げようと、控えたカジノのベルポップたちがワラワラと群がるが、ヴェールでコーティングされた車体は氷をつかむように捕らえることができない。ボウリングピンさながら六人のベルポップたちをなぎ倒し、紅玉のように鮮やかなボディがブルーテの前へ横付けした。

 やや遅れて追いついた背高な玉座は煤けているが、ダメージはない。そのことを確認し月白のシートに血のりを見つけて、ブルーテはひび割れた唇を嚙んだ。

 肩に担がれた永有珠の、ぐっと、力の入る体が息を吐いた。

「ブルーテ。きみのを貸してくれ」

「なにをするつもりですか。早く脱出しないと」

 言いながら永有珠を玉座へ座らせ、衣装を整えてやる。その間も周囲への警戒を怠らないブルーテのセンサは、カジノからゆったり歩み寄る金色を捉えていた。

「大切なものを——」

 ブルーテの視野を、展開したヴェールで共有し、望遠の焦点を一点に集中させる。

 黄金色に色づく永有珠の双眸が捉えるのはただ一点。

 カジノフロア中央、燦然と天井を突く混ざり物の命。ボタニカリト〈朶銥だい〉。

「——奪われる気持ちを」

 ユニーカ〈分離〉の異能が永有珠の体を駆け巡り、ターゲットへ伝わっていく。

 それは、哀しみの波だった。

 夜の庭園をハイナと巡った記憶。つかの間の、少しばかり緊張感に満ちたひととき。それでもハイナはとても嬉しそうに、植物たちのことを話してくれた。自分が世話をしてきた桜を慈しむように見上げて。

 その腹に主の施した保険を宿しながら。

 あの夜桜を、決して忘れまいと永有珠は固く誓う。その腕に残る一枚の桜の花びらへ。

 だから、まるで道具のようにハイナの命を奪ったドゥアールを、決して赦しはしない。

「——味わえ‼」

 ブルーテの遠視を通し、永有珠のユニーカがイリジウムとシダの有合体を解かしていく。人の業によってねじ曲げられた命を、あるべき姿へと還す。

 それが、永有珠にできるただ一つの、償いだった。

「なんだ⁈」

 数多の修羅場をくぐり抜けてきた公爵としての勘が警鐘を鳴らしたのだろう。永有珠たちを捕らえるべくカジノ外へ駆けていたドゥアールが、コートを翻す。

「こ、これは……っ⁈」

 振りあおいだそこには、特徴的なシダの葉をなくし、幹だけが残る無残なボタニカリトの朶銥だいが、シャンデリアの光を弱々しく浴びていた。分離されたイリジウムが水銀よろしく染みをじゅうたんへ広げている。

「き、貴様ぁあああああっ‼」

 顔を真っ赤にし、咆えたドゥアールが腕を振りかぶる。光る黄金色の腕から不可視のエネルギーが放たれ、コンクリートを切り裂きながら停車中のインフィニートを切り刻むべく殺到した。

「ぶ、ブルーテ!」

「安心してください。まったく、思いどおりにならないと豹変するタイプって、ヘドが出ますよ!」

 紫の瞳へ曙光を反射させ、燃える色の髪を持つブルーテが獰猛に歯を覗かせた。

 ヒューマノイドとしての特権を活かし、地上最速のクラッシックカーを己と一つにしていく。時間が引き伸ばされ、襲いくるドゥアールの攻撃がまるで止まったように、遅いくらいに動かない。

 ブルーテを永有珠は、ヒトだと言い切ってくれた。

 業腹だけれど、その自信が実のところ嬉しかった。

 今まで、ブルーテのの話を、永有珠は避け続けてきた。その配慮を理解しないでもないが、やっぱり正面から向きあってほしかった。

 その願いを皮肉にも叶えてくれたドゥアール公爵。

 だが、だからといってここで散るのは願い下げだ。

「自由の海へ‼」

 彼女と完璧にシンクロしたインフィニートが、芸術的なドライビングをもってカジノの駐車場をアクロバットに怒り狂うエネルギー波を回避。その進路へと向けた先は、朝陽に色づく太平洋だ。

「こっ、このまま突っこむのか⁈」

「沖のアヴァロンまで、クルージングする余裕があるように見えます?」

「……酔いそうだ」

「吐いたら着がえて、海水浴しましょ? 仮マスの大好きなフリルビキニで」

 青ざめた助手席の相方の頬が赤らむのを感じて、ブルーテはさらにアクセルを踏みこんだ。

 後方からは、肘を直角に曲げて全力疾走してくる、ドアマンの格好をした一団が迫っていた。レセプションの主催者であるドゥアールは、ゲストたちの対応へ集中し、追跡を部下へ任せることにしたらしい。

 なにせ、規模はともかく、所有するカジノで爆発が発生したのだ。おまけに乱入者のせいで、メインの展示が台無しときている。泥どころか、ドゥアールの面子はヘドロまみれにちがいない。

 きっと、ドゥアールはこれからも永有珠たちを追い続けるだろう。

「あっ、そういえば」

 防砂林を避け、低出力のヴェールフェンスを突き破って砂浜へ、ルビーローズのスーパーカーが飛びこむ。プライベートビーチだから人の姿はないが、乗っている人間への衝撃が減るわけでもない。玉座のヘッドレストからベルトが瞬時に額を固定していなければ、永有珠の首は粉砕していたにちがいない。

 そんなわけで返事などできるはずもない永有珠へ、買い忘れたものを思いだしたように、ハンドルを切ったブルーテが問いかけた。

「ボタニカリトはよかったんですか?」

「——ああ」

「ちょっと仮マス! ふぬけた返事すぎません? 命がけの潜入だったのに『ああ』の一言で済ませようなんて……」

「きみのほうが大事だ」

 しぼりだすような永有珠の声に、ブルーテがハッと、横を見る。

 飛びこむ、というより海面へそのまま沈んだインフィニートがそのタイヤをネオンパープルに光らせ、海中を飛ぶように潜行していく。追跡のヒューマノイドたちは大半が手脚を豪快に回し、かろうじてついてきてはいたが、クロールで進める速度には限界がある。

 徐々に距離が開き、沈んでいくヒューマノイドたちをインフィニートのフロントガラスに映る映像で見ながら、ようやく息を整えた永有珠が吐き出すように言葉を紡いだ。

「ハイナさんから、ドゥアールがきみの服従を条件にするだろうと聞いたとき、怖かった。きみを失ったらどうしようって。それでよくわかったよ。ブルーテがどれほどたいせつか」

「仮マス……」

「だから、戻らない。ボタニカリトは、公爵にくれてやる」

 橙色の光が揺らぐ海中、潜行するインフィニートの前方へぽっかりと穴が空く。鱗が剥がれるようにステルスを解いて巨体を現したのは、全長二十メートルほどの乳白色の長方体だ。後方ハッチを開いた、トレーラーハウス〈アヴァロン〉の格納庫ガレージである。

 インフィニートを収容し、完了のシグナルを受けとったブルーテはすかさず、アヴァロンの操縦システムへ上昇を指示する。目的地は指定せず、現在地からの脱出を最優先にした。ニューカレドニア領海を抜けたところにアヴァロンはあるが、排他的経済水域EEZには変わりない。空へ出てしまえば、追っ手も撒きやすくなる。

 排水されていくガレージ内の壁が透過され、十数の人型がコバンザメよろしく、トレーラーハウスにへばりついていた。あの手この手で突破を試みているが、堅硬な外壁はびくともしない。

「……そんなに簡単に目的を捨てちゃうんですか」

 アヴァロン外壁ヴェールの出力を上げて数人のヒューマノイドを弾き落とす。浮上するアヴァロンを操縦しつつ、ブルーテは睨みつけるように助手席へ髪の色を朱へ染めた。

「ワタシのためっていうのは、なしですからね! あんなにボタニカリトへこだわって、命まで危険にさらしたのにあっさり諦めるなんて……」

「諦めてないよ、ブルーテ」

「えっ」

 驚きに紫の瞳をまたたいたブルーテへ、珍しく永有珠が悪い顔をする。鼻唄でも鳴らしそうにニヤリとしてみせ、玉座の正面に展開したヴェールへ、インフィニートのシザードアを開閉するコマンドを入力する。

「待って仮マス! それってどういう意味ですか」

 ハサミのようにせり上がるドアから、やや煤けたパールホワイトの玉座が車外へ横すべりしていく。追いかけて運転席から降りたブルーテのセンサを潮の香りがつついた。

植鉱ボタニカリトのコレクションケースを作ったのも、お師匠だ。分離セパレートできるぼくがいなければ、ケースは開かない……うわっ」

 ガレージへ玉座を浮遊させてギョッと、永有珠が肩をふるわせる。透過した壁の向こう側でちょうど、顔面を押し付けたヒューマノイドがこちらへ目を向けていた。見えているわけではないだろうが、空飛ぶ車体へ必死にしがみついている姿は少々、罪悪感をかき立てられる。

「……ブルーテ、彼らをどうにかしてあげられないか——」

「な〜るほど、そういうことですか!」

 ぽん、とブルーテが手を打つのに合わせ、外の景色が一回転する。姿勢維持装置スタビライザのおかげでガレージの揺れはほとんどなかったものの、突然のバレルロールに、さしものヒューマノイドも耐えきれずに哀れに落下していった。

「……ひどくないか?」

「まだまだきますよー」

 ブルーテの立てた親指の先へ視線を向け、永有珠の眉が盛大に寄る。

「あれって国際海洋警察機構セオンのパトロール艇じゃないか!」

「公爵閣下が通報なさったんでしょ。まったく、広いのは不動産の面積くらいなんだから」

 言い捨て、ブルーテがヒールで床をコツンと叩いた。せり上がるクローゼットに脱ぎ捨てたピンヒールを放り込み、至る所が破けた濃紫のドレスに手をかける。

「あ〜せっかく、欲望まるだしのだれかさんが選んでくれたドレスだったのに。ねえ仮マス? これはこれでセクシーだと思いません?」

 ヒールを脱いだ時点で先が読めていた永有珠は、すでに玉座の背をブルーテへ向けてあった。アヴァロン宛てに送信されてくる海洋警察の警告を精査しはじめていたその耳に、ブルーテの言葉は届かない。届かないから返事もしないし、耳が赤いのは集中している証だ。

「一日で紳士ぶっちゃって。ま、それはあのメイドさんに感謝しないと」

 丁寧に折りたたんだドレスの上へ、そっと桜の花びらを置く。永有珠の腕についていたものをブルーテがしっかり握っていたものだ。花びらとハイナのつながりを、ブルーテは見ていない。ドゥアールとの駆け引きでそれどころではなかった。

 けれど、永有珠の顔を見ていれば、たいがいのところは察しがつく。

 公爵のメイドは確かに永有珠を傷つけたかもしれない。が、大切なものも与えてくれたらしい。

 そのおかげで、ブルーテはうれしい言葉が聞けたのだから。

「助けてくれて、ありがとう」

 桜の花びらへ目礼し、手早くシャツへ着がえていく。今はまだ想い出に浸っている場合ではない。命を賭してくれたハイナのためにも、必ず逃げ切らなければならない。

 そして、いつの日か。

「ワタシを怒らせた礼は、きっちり返す!」

 シャリシャリ、と決意に燃える髪を空色のバンドで束ね、クローゼットの戸へ軽く拳を見舞う。再び床へ収納されていくその衣装棚へ背を向け、ガレージを後にするブルーテの足取りは軽い。

「ウミヘビはしつこそうですね、仮マス」

 居住スペースへつながる廊下を抜けて、ログハウス調の二階建て、その一階のリビングへスニーカーに履き替えたブルーテの足が向かう。フローリング以外、全天を透過させた居間には先に来ていた永有珠が、海洋警察の制服をまとったホログラムと言葉を交わしていた。ブルーテの呼び名に、紺碧の制服のその警官が露骨に眉をひそめたのを見て、髪の色を同じ海の色に染め上げたヒューマノイドが腰に手を当てる。

「言っておきますけど、トウタ巡査部長。貴方たちが守るべきなのは、海の平和であって既存権益じゃないですからね」

『相変わらずだな。しかし、君にわれわれの職務をとやかく言われる筋合いはないはずだが。今回、明確な領海侵犯を侵したのは、君らだ』

「その件については巡査部長。さきほども言ったように、ぼくたちは入国審査をパスしています。記録を照合してもらえば……」

「なにこれ⁈」

 素っ頓狂なブルーテの声に視線が集まる。

「担当官の権限で記録が消去されているじゃないですか! 公爵にいくらつかまされたんです?」

 現在進行形で海洋警察のデータベースを覗き見た相方の言葉に、「ブルーテ」と永有珠も諫めようとはする。が、その頬は小さく痙攣して笑いを噛み殺しきれていない。

『愚弄するのもいい加減にしたまえ。虚偽の申告であれば罪の上塗りになるぞ。しかるに……』

 ふいに、巡査部長の言葉が途切れ、視線が宙を泳いだ。通信の向こう側で資料を読んでいるその仕草に、ブルーテがさらにたたみかける。

「証拠です、巡査部長。それと、非合法の人体改造は第一級殺人と同等の罪、でしたよね? ガサ入れするなら、もう少し詳しくお話できますけど——まずは、ウミヘビを撤退させてください」

 そう一方的なまでに要望を突きつけるブルーテの目は真剣だ。

 ヒューマノイドが普及した現代でも、それを忌み嫌う人々は少なくない。体を機械へ置き換えることの抵抗は依然として根強い。

 ドゥアールのメイド——ハイナがどのような経緯でヒューマノイド手術を受けたのか、ブルーテにはわからない。が、少なくとも自分の腹へ爆発物を埋め込むことを進んで受けいれたとは思えない。

 ブルーテもヒューマノイドだ。ハイナのその葛藤は理解できるつもりだ。

 だからこそ、ハイナを犠牲にしたドゥアールを、止められなかった自分をブルーテは許せなかった。握りしめた拳が行く当てを探して小さく震えていた。

 システムへ、会話チャットが届いたのはそのときだった。

「『ブルーテ、きみのせいじゃない』」

 隣にいる差出人へ目を向けると、小さく頷き返してきていた。

「『ぼくも止められなかった。あんなことは繰り返しちゃいけない。ハイナさんのためにもドゥアールには——』」

『要請を受諾しよう』

 再びトウタ巡査部長のホログラムが永有珠を向いた。その言葉を裏付けるように、アヴァロン後方へ迫っていたパトロール艇の群れが、興味をなくしたとばかりに速度を落としていく。

『かの植物公爵にはわれわれも聞きたいことがある。情報提供に感謝する』

「よかった……」

 海洋警察の警官に目礼され、ホッと永有珠が息をつく。安堵しすぎてトウタの『とは言え』の一言が耳に入っていない。これで一段落だ、と隣の相方を労いかけ——

「ちょっと⁈ なんでウミヘビが加速してるんですかっ!」

 ブルーテの手がひらりと翻り、ホログラムの横へアヴァロンを中心とした三次元のマップが展開する。

 直進する長方体——アヴァロンの後方へ、ウネウネとした機影が三十近く、急接近していた。

 ホログラムの警官は顔色ひとつ変えないまま、

『ヌメア行政長はきみらに、たいそうお冠だ。提供してくれた情報を活かすためにもひとつ、捕まってくれ』

「捕まえられるものなら、ねっ‼」

 タンッ、と床を蹴ったスニーカーに合わせて、〈アヴァロン〉が上昇する。

「まてっ、ブルーテ。どうするつもりだ⁈」

「口を閉じててくださいよ、仮マス! 舌、嚙んだって知りませんからねッ」

 仁王立ちのヒューマノイドが首をコキリと鳴らす。その表情はどこまでも楽しげに微笑み、結い上げた髪が空に溶けこんだ。

「AGエンジン出力上昇。Protocol・Morayウツボ開始!」

 アヴァロンのシステムを完全に掌握し、高回転のエンジン音を自分の鼓動のように感じる。

 隣では、臆病の抜け切れていない相方が、青ざめた顔でブルーテを説得しようとしているが、そんなのまっぴらごめんだ。

 なぜって——

「旅は情け、心はヒトに限らず!」


 全天モニターの壁を、崩れる空と海が流れていく。

 天国にもっとも近い島の空を、超音速の衝撃波が打ち鳴らした。

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The Lighte 〜ザ・ライト〜 《II》玉座乗りと植物公爵 ウツユリン @lin_utsuyu1992

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