雨の喫茶店にて

黒木屋

雨の喫茶店にて

 先ほどまで雲は多かったものの、晴れ間も覗いているような空模様だった。それがいきなりの土砂降りだ。三月に入って間もないこの日は季節が逆戻りしたかのような肌寒さで、この雨のせいで一層冷え込んでいることだろう。


 「さて困ったね。あまり長居する気はなかったんだが」


 彼は喫茶店の窓際の席でエスプレッソを啜りながら、激しく地面を叩き付ける雨を見つめて呟いた。会社勤めをしているわけでもなく、特にこの後予定が入っているわけでもないから止むまでここにじっとしているのに問題はないのだが。


 「ん?」


 そのままぼんやりとしていると、外からサイレンの音が聞こえてきた。音の種類からして消防車のようだ。近くで火事があったか。彼は雨粒が流れるガラス越しに外を見やるが、無論サイレンを鳴らして走る緊急車両の姿は目に入らなかった。


 窓の外では突然の大雨に戸惑いながら鞄やハンカチを頭にのせて走る人の姿が何人も見られる。そんな中で彼から見て左手に徐々に人が集まりだしたように見えた。家事はそちらの方で起きているらしい。雨の中でも火事場見物の群衆というのはいなくならないものなのだろう。


 「ほう」


 そんな中、人々の群れと逆行するように左手から歩いてくる一人の男が目に入り、彼は興味深そうに顎に手を当てた。彼の目を引いたのは薄紫色の傘を差した、歳の頃は三十歳前後といった中肉中背の男だった。カーキ色の長そでシャツにジーンズといういでたちで、傘を持った右手の脇に少し皺の寄った大きめの茶封筒を抱えている。足を痛めているのか、歩き方が少しおかしい。


  カラン……


 喫茶店の入口のドアベルが乾いた音を立て、その男が入って来た。「いらっしゃいませ」という型通りの挨拶を耳にしながら、男は疲れた表情で店内をぐるりと見渡す。しかし急に降り出した雨のせいもあって席はほとんど埋まっており、少なくとも入り口付近で空席を見つけるのは難しかった。


 「よろしければ相席いかがですか?」


 男が自分の方に足を引きずりながら近づくのを見て、彼は声を掛けた。見知らぬ若者にいきなり声を掛けられ最初は訝し気な顔をしていた男だったが、空席を探すのが面倒に思ったのか、「すいません」と頭を下げ、俺の向かいに腰を掛ける。小脇に抱えた封筒をテーブルに置くのとほぼ同時にウエイトレスが注文を取りに来た。


 「ブレンドを」


 薄紫色の傘をソファの窓際に置き、男がぼそりと注文する。水の入ったグラスを置き、丁寧に頭を下げてウエイトレスが去るのを待ってから、彼は明るい表情で男に話しかけた。


 「いやあ、急に降ってきましたね。傘を持たずに出てきたのでここに足止めですよ」


 「そうですね。降るような空模様じゃなかったですからね」


 男は彼と目を合わせることなく、いかにも社交辞令といった風で淡々と答える。


 「しかしあなたはちゃんと傘をお持ちじゃありませんか。用心深い方のようだ」


 「いやこれは……借りものでして」


 「なるほど。確かにそれはどうも女性向けの傘みたいですからね」


 「え?」


 「薄紫色の布地に白い水玉模様が幾つか。持ち手の部分も細くていかにも女性用といった印象を受けます。彼女からの借りものですか?」


 「え、ええ。まあ」


 「しかし彼に貸すのにいかにも女性向けというその傘はどうでしょうね?彼女さんの部屋にはビニール傘とかはなかったんですか?」


 「い、いいじゃありませんか。何か問題でも?」


 「いえいえ、気を悪くなされたなら申し訳ありません。少し気になったもので」


 男は憮然とした顔でテーブルの端に置かれたメニューに手を伸ばした。これ以上この若造に余計な詮索をされたくない、という意思表示のように。


 「……」


 茶色の表紙が付いた冊子状のメニューの前にラミネート加工された手書きの期間限定メニューが書かれたメニューがあり、それに目を通した男の眉間に皺が寄る。ますます不機嫌な顔になってそのメニューを戻した男に、彼は微笑みながらハンカチを取り出した。


 「よろしければこれをお使いください」


 「え?」


 「いや、あなたの左手。肩から手首にかけてびっしょりじゃないですか。せっかく傘を差していたのにそんなに濡れていては不快でしょう?」


 確かに男の左側は雨に濡れていた。先ほど男が取ったラミネート加工のメニューにも水滴が落ちている。


 「あ、ああ、すいません。傘が偏っていたようですね」


 男はハンカチを受け取り、自分のシャツの左側を拭いた。すぐにハンカチがぐっしょりと濡れる。


 「申し訳ないです。ええと、洗ってお返ししましょうか?」


 「いえ、お気になさらず」

  

 彼は笑って濡れたハンカチを受け取り、バッグから出したビニール袋にそれを入れた。


 「お待たせしました」


 ウエイトレスがブレンドコーヒーを運んできて、男はブラックのままそれを一口啜る。サイレンがさらに聞こえてきた。何台も消防車が来ているようだ。大きな火事になっているのか。


 「近くで火事のようですね」


 相変わらずにこやかな顔で彼は男に話し続ける。


 「そのようですね」


 「あちらに人が集まっているようですから、向こうが現場なんでしょうね。あなたはそちらから来られたように見えましたが、火事は御覧になりましたか?」


 「いや、雨で気が付かなかった」


 「足は大丈夫ですか?」


 「え?」


 「いえ、どうやら足を痛めていらっしゃるようですので」


 「あ、ああ。さっきちょっとつまずきましてね。大したことはないです」


 「ならいいですが。痛みが引かないようなら医者に行った方がいいですよ」


 「え、ええ」


 男は段々と彼が不気味に思えてきた。見も知らぬ男にこれほど積極的に話しかけるのは何故だ?ただ単に馴れ馴れしい性格というわけではない気がする。


 「この雨ですから火事も存外早く鎮火するかもしれませんね。被害に遭われた方がいらっしゃらなければいいんですが」


 「そう……ですね」


 「少し失礼します」


 彼はそう言って席を立った。トイレにでも行くのだろうと思い、男はほっとして冷めかけたコーヒーを口にした。足の痛みはひどいがこのまま店を出ようか、と男が考えていると、彼が帰って来た。


 「すいません」


 彼は相変わらず笑いながら男の向かいに座る。彼の心根が見えず男はそわそわしていた。


 「この近くに作家の筒木八尋つつきやひろ先生のお宅があるのはご存じですか?」


 彼の言葉に明らかに男の表情が変わる。なぜいきなりそんなことを!?男はしばし絶句したのち、絞り出すように声を出す。

 

 「い、いえ。知りません。どちらの方ですか?」


 「おや、筒木先生をご存じない?おかしいですね。出版関係のお仕事をなさっておられるのでしょう?」


 「な、何故それを!?」


 「いえ、あなたの指にインクが染み込んでいるので。それにさっきその手書きのメニューをご覧になった時、顔が曇りましたね。……ここ、誤字がありますね。完璧の『璧』の字が『壁』になっています。普段から校正をしておられるからこういうことがひどく気になるのではないかと思いまして。それに何と言っても……」


 彼は男がテーブルに置いた封筒を指差す。


 「こちらの封筒に出版社の名前が印刷してあります。私の記憶が確かならこの出版社は筒木先生の本を何冊も出しておられたはずですね」


 よどみなく説明する彼の顔を男は青い顔で見つめていた。体がぶるぶると震えているのが誰の目にも明らかだった。


 「あなたはこの出版社の社員。それも筒木先生を担当されている編集者なのではありませんか?それなのに先生を知らないような口をきくのはおかしいですね」


 男は荒い息を吐き、がたっと席から立ち上がろうとする。だが足に痛みが走ったらしくすぐに顔をしかめて腰を落とした。


 「無理はなさらない方がいいですよ。さっきまでは興奮状態で足の痛みもさほどでもなかったのかもしれませんが、一度落ち着いてしまったので症状が悪化しているんでしょう」


 「き、君は……どこまで知っているんだ?」


 「知ってはいません。推測です。まああまり大きな声で話す内容ではないですが、店内には音楽も流れていますし、こちらに注目している人もいないようですからこれくらいの声で話すなら大丈夫でしょう」


 彼はあくまでも淡々と落ち着いた口調で話す。


 「先ほどから聞こえているサイレン。おそらく火元は筒木先生のお宅なんじゃありませんか?あなたが火を付けた……」


 「な、何をバカな!何の根拠があって……」


 「あなたをガラス越しに見た時最初に気になったのはその服装でした。今日は三月にしてはひどく寒い。それなのにシャツ一枚という恰好でしかもこの雨の中を女物の傘を差して歩いてらっしゃった。変に思うのも当然でしょう?」


 「わ、私は暑がりなんだ」


 「そういう可能性も無論あるでしょう。しかしせっかく傘を持っているのに体の左半分をほとんど隠していないのはどう考えても不自然です。それで思ったんですよ。とね」


 「あ、洗い流すって、な、何を」


 「血痕ですよ。おそらく着ていた上着には簡単に落とせないほど大量に血が付いてしまったんでしょう。返り血ですね?さすがにそれを着て外に出るわけにはいかなかった」


 男はもう何も言い返さず、幽霊を見るような目で彼を呆然と見つめていた。


 「あなたは予期せず筒井先生を殺害してしまった。最初から計画していたなら代わりの服を用意するなりなんなりしてこれほど慌てふためく必要はなかったでしょうからね」


 世間話をしているように彼は言葉を紡ぐ。


 「あなたの差していた傘、先生のエッセイで読んだことがあるんですよ。薄紫色で水玉模様。先生のお気に入りの傘だったそうですね」


 はっとして男が自分の置いた傘を見る。


 「そんな特徴的な傘を持って来るなんてよほど焦っていたんですね。雨が降っているのに気付いて咄嗟に近くにあったものを手に取ったんでしょう。小雨ならまだしもこれほどのひどい雨では濡れてしまいますからね。大事な原稿が」


 反射的に男が封筒を手で押さえる。


 「筒木先生の原稿でしょう?それ。編集者にとっては命より大事な物でしょうからね。だからわざわざ濡れないように傘を持った側の脇に挟んでいたんでしょう」


 男の目に涙が光る。


 「筒木先生の所にはあなたの後にも誰かが訪ねてくる予定だったのではありませんか?血の付いた上着を放置して逃げるわけにもいかず、かといって死体や上着を処分する時間もない。そこであなたは証拠隠滅とあわよくば先生の死を火事による焼死に見せかけられないかと考え、血の付いた上着に火を付け、家に放火した。ですが何分慌てていたのでどこかで足をくじいてしまった、とそんなところでしょうか」


 「で、出鱈目だ。何の証拠があって……」


 息も絶え絶えに男は最後の反抗を試みる。


 「証拠ですか。さっきあなたにお貸ししたハンカチですがね。あれにはあなたのシャツを拭いた跡があります。血痕というのは水で流したくらいでは完全に消せないものなんですよ。調べれば筒木先生の血が見つかるんじゃありませんかね?……ああ、無駄なことはおよしなさい。逃げても無駄です。さっき知り合いの刑事さんに電話しましてね。もうすぐここに来るはずです」


 「君は……一体何者なんだ」


 「ただのプータローですよ。少し偏屈なのは自覚していますがね。素直に自首すれば情状酌量の余地もあるかもしれませんよ?」


 彼は穏やかにそう言って、すっかり冷たくなったエスプレッソの残りを喉に流し込んだ。




 「結局、筒木先生はその編集者、只野という名前だったが、その男にご執心だったらしいんだな。しかし只野には妻子があり、元来生真面目な性格だったこともあって筒木先生のアプローチに困り果てていた。当時先生はもう只野より年上だったしね」


 彼は昔を懐かしむようにコーヒーの入ったマグカップを持ったままで言った。よくそんなことまで覚えているものだと、私は半ば呆れ、半ば感心した。


 「只野にとって筒木先生は大事な作家。会社の飯の種だ。そこそこ人気のある作家だったしね。だから彼女のことを無下にも出来ず、ノイローゼ気味だったようだ。先生のアプローチはどんどん過激になり、今で言うストーカーのようになっていった。それで原稿をもらいに行ったあの日、とうとう彼女が妻と別れろと迫って来たらしいんだ。包丁まで取り出してね」


 「そこまでされたなら担当を外してもらえばよかったじゃないか」


 「担当を変えたら只野の会社には二度と書かないと言っていたらしい。上司が成績重視の堅物だったらしくて、只野の担当替えの要望は適わなかったそうだ」


 「そりゃまあ気の毒だな」


 「只野も子供が出来たばかりで会社を辞めるわけにもいかず、本当に困っていたらしい。それであの日包丁を振り回す先生を制止しようとして……」


 「誤って先生を刺してしまった、か」


 「冷静に考えれば例え火事で死体が焼けても他殺であることは簡単に分かるんだが、とにかくパニックになった只野は自分の返り血の付いたシャツの処分もあって火を付けてしまった。愚かだよね。先生を刺しただけなら上手くすれば正当防衛が認められたかもしれないのに」


 「それでもしっかり原稿は持ち出したのか。編集者の性だな」


 「妻と別れなければライバル社に渡すと言ったらしい。そのライバル社の編集を呼んであるともね」


 「だから焦って処分する必要があったのか」


 「そういうことだ。それからどうなったのかは知らないが、生まれたばかりの子供を抱えた奥さんが不憫だね」


 彼はマグカップを置き、大きく伸びをした。眠そうな顔をこちらに向け、少しだけ唇を歪ませる。


 「話はこんなところだ。役に立ったかね?」


 「ああ。勿論。しかしよくそんな細かいことまで覚えているな。もう二十年以上前の事件なんだろう?」


 「うん。大学を出てぶらぶらしていた時期だね。すでに何回か事件には遭遇していたが」


 私の奇妙な友人、西門寺侑作さいもんじゆうさくはそう言って目をこすった。私立探偵などという絶滅危惧種のような商売をしているこの男は住居を兼ねたこの狭い事務所で一人暮らしをしている。作家志望の私、黒木秋人くろきあきとは時折こうして彼が過去に関わった事件の話を聞き、それを小説として出版社に持ち込むということをしていた。


 「いつも助かるよ」


 「何、こう依頼がなくちゃここの家賃も払えないからね。原稿料の一部を貰ってるこっちが礼を言う立場さ」


 彼は机の天板をコンコンと叩き、もじゃもじゃの頭を掻きながら大きな欠伸をした。


 


 

 


 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

雨の喫茶店にて 黒木屋 @arurupa

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る