最終話 :re……:re……:re……

女はジャケットの下に何も着ていません、そのために下腹部の大きな傷が露わになりました。それは臍を中心として十字状につけられた赤痣状のものでした。

 永遠とも思える一瞬が過ぎてようやくハルカの美しい唇が動き出しました。

「ねえ先生、あの男、覚えてる?」

 わたしの視線はその赤痣に吸い込まれて行きました。 

「判るわよね、誰の事を言ってるか」

 わたしは目を背けられませんでした。あまりにもその傷が美しかったからです。

「イイわよ先生。気のすむまで私を見つめながら思い出しなさい。年端もいかない女の子を殺め、自分の部屋に飾ったあの男のことを」

 さぞや今、わたしは惚けた顔なのでしょう。

「あの男が取り調べでなんて言ったか知ってるでしょう? 『あの子は僕の作品です』そう言ったのよ。あなたのサイトには、あの才能の欠片もない惨めな美大生の、あなたの作品への賞賛と、羨望と、嫉妬が山の様に書き込まれていたわ。あー、それも知らなかったのか」

 わたしは目を閉じます。脳裏にその美しいものを焼き付けるために。

「ねえ、あなたは言ったわよね“人形屋の俺は本当の俺じゃ無い”て言ったわよね。でも本当にそうかしら? あなたの本質は十分に病的だわ。資料の為と言いながら、奥様にネットで奇形や奇病に侵された人の画像、果ては事件や事故で亡くなった人の画像を集めさせた。あ、そうか。判ったわ先生。きっとこの部屋の腐った匂い、きっとその画像が残したものなのよ。それとも何処かに大切にしまってあるのかな。だってあなたは、自分より惨めなものしか愛せないのよね……」

 女の声に悲しみの色が漂い始めました。わたしは少し驚いて目を開きました。

「でもそれは愛じゃない。単に自分の好奇を満たしただけ。なんて醜い人なの、あなたは」

 女がゆっくりとわたしに近づいてきます。

 その左手がわたしの両目を覆います。

 そのままわたしは女の前に跪きました。

「……私に、触れて先生」 

 女は右手でわたしの右手を導き、指先が自分の身体を這うのを許します。

「……続けて。先生」

「……想像していたとおりだ」

「……ねえ、どんな感じがするの私って」

「とても儚い……とても柔らかい……どこか優しい春の雪の様だ……。」

「……大切な事を忘れているわ」

「何をだね」

「あのコの、これから生まれようとしているシスターに名前をつけなきゃ。だって特別なコなんだもの」

「名前なら、最初から決めてあったよ」

「そうだったの」

「最初にアンタを見た時から決めていた」

「フェイね」

「ああ」

「いたずらっ子の妖精、フェイ」

「でもね『アーサー王の死』に出てくるモーガンという名のフェイは魔女でもあるんだ」

「ねえ、フェイって名前。ユキヲにとってどんな意味を持つの」

「意味?」

「だからね、あの陶器のお人形になぜフェイと名付けたの? 『アーサー王の死』から? そうじゃ無いでしょ」

 わたしの脳裏を古い8ミリ・ムーヴィ・フィルムの様なコマ落ち映像が流れて行きました。その画像には出逢った頃の妻が写し出されます。

「記憶を辿っているのね」

「なぜわかる」

「思い出させてあげる。全部」 

 遠い記憶の中で、わたしは先程までハルカと名乗る女が着ていたジャケットを着ています。

 まださして古びていないアーミージャケットを。

 不思議なことにそのアングルはわたしの視線ではありませんでした。そして、時折映る若かりし頃の妻の冷めた表情、悲し気な表情、酷く苛立った様な表情はどれもあの頃に見た憶えの無いものばかりでした。

「話して、さぁ、先生」

 次に浮かんで来たのはは古びた小さな映画館の外観です。 

 飯田橋駅に近く、外堀通り沿いに在った、いわゆる名画座と呼ばれる映画館ものでした。

「妻と付き合いだして数年が過ぎた頃、ある映画を見たんだ……あれはファッションモデルの話だったよ……そのモデルを演じていたのがフェイという名の女優だったよ。題名は……忘れた」

「その映画の原題は『PUZZLE OF A DOWNFALL CHILD』よ。直訳すると『転落した子供のパズル』ね。哀れなファッションモデルのお話」

「二本立てだったのに、最初に見たその映画の途中で、妻は外に出たいと言い出してね……。」

「……続けて。その先を聞かせて」

「僕が何を話しかけても彼女はずっと押し黙ったままだった。そのまま法政大学の前の遊歩道を歩き、四谷駅を抜け、最後は迎賓館の辺りを歩き続けたよ。警備していた機動隊員にジロジロ見られながらね……ようやく学習院初等科横の公園のベンチに座っても、彼女ははずっと黙っていた」

「あなたは気づいたのね」

「ああ、俺は鈍い人間だけどね」

「奥様はその映画を途中で出た理由を、あなたに話したの」

「いや」

「その後もなの、一緒に暮らし始めてからも?」

「ああ、話すことはなかった」

「奥様はなぜ話さなかったのかな」

「きっと彼女は気づいたんだ。だから話さなかったのさ。最後まで」

「何を。何に気づいたの」

「彼女の傷を癒せないことを。俺では」

「哀れな人ね」

「哀れ? 誰が?」

「奥様よ。そう哀れな人。彼女は自分で自分の傷を癒すべきだったのよ。人に頼ろうとした。だから彼女は哀れなままで死んだのよ」

 女はその左手でわたしの右手を奥深い場所へと導きました。わたしは情けない悲鳴を上げながら目を見開きます。

「ずるい人よね」

 わたしの指先は更に引き込まれます。

「最初に倒れた時、見えたんでしょ? これが。触れたかったんでしょ? これに」

「違う。見えなかった」

「いいえ、あなたは見た。そして見えないフリをしたのよ。いいわ見せてあげる。見たいんでしょう。間近で。本当は見たいんでしょう?」

 女は立ち上がろうとするわたしを床に押し戻し、自らの下腹部にわたしの顔を押し付けます。

 無我夢中で女を突き飛ばすと、女は床に仰向けてで倒れました。

「いい加減にしろ。この野郎」

 わたしの怒号などまるで聞こえないそぶりの女でしたが、大の字に倒れたまま、ゆっくりと顔だけをこちらに向けました。

 女の表情からは何の感情も読めません。心は何処か遠くにある様でした。

「……ユキヲさん、あなたは結局中途半端だったのよ」

「……何を言ってる」

「美術学校の頃のあなたは、ただ漫然と成功したいだけだった。手先だけは昔から器用だったから、確かにそこそこのものは作れた。でもそれは才能とは違う。だから……奥様はあなたに……まあいいわ……そんな昔話をしてもしょうがないわよね。それよりあなたともっと大切な話をしなくちゃ……」

 女はゆっくりと立ち上がりました。

「……いちいち面倒くさい女だな。もったいぶるのも大概にー」

 彼女はわたしの言葉を遮り、言い放ちました、

「あなた、また腐った、哀れな、ゴミを作る気なの?」

 言いようの無い怒りが込み上げます。まともに握り締めることも出来ない拳に何故か血が通い出したのかわなわなと震え出しました。怒りのあまり声が出ません。

「ふざけるなよ、この、糞売女が偉そうに」

「貴方はその糞売女をモデルにしてるんでしょう? 違う?」

「ああ、そうだよ! そうだとも、お前は得体の知れない薄気味悪い奴だが……その雪の妖精の様な白い肌とその傷は……わたしが長年求めていたものだ……リメイクしたいんだ。もう少しなんだ」

「肝心な事を忘れてるわね」

「何をだよ」

「あなたは、一人では、何も、生み出す事は、出来ないの」

「……」

「それを、心に刻んでね」

「……」

「ねえ、これから私たちで、新たなエンジェルを、この世に産み堕とすの。でもね……その為に、やらなければならない事があるよ。わかるわよね」

 遠くで雷鳴が聞こえました。

 それは徐々に近づいて来ました。

「ブッ壊わして」

 わたしは何か聞き間違いをしたのかと思いました。

「なに阿呆みたいな顔してるの。聞こえたでしょ。壊す、の」

 女の視線は壁に並んだシスターに向けられました。

「今、生まれようとしているコ、以外のここにいる全てのシスターを壊すの。傷をつけるんじゃ無いの、ぶっ壊すのよ、バラバラにすんのよ、木っ端微塵に」

 壁に並んだシスターたちが一斉に悲鳴を上げ動きだしました。床を、天井を。壁を這い回りながら次々と叫び声を張り上げました。

『ユキヲ、そいつは紛れもない魔女よ!』

『寒い……呪われている……』

『ユキヲ、その魔女を焼き殺して!』

『そうよ!地獄の業火で焼いてしまえ!』

 わたしは恐怖で目を見開いていたと思います。やっとの事で声を絞り出します。

「できるかそんな事、それなら俺を殺せ」

「あなたは、やるわ」

「ふざけるな」

「だって新しいフェイをこの世に堕としたいんでしょ? 命を与えたいんでしょ?」

「その為にこのコたちを犠牲になど出来ない」

「あなたには、わからないの? 」

「何を分かれというんだ!」

「このコたちを壊して新しいフェイを完成させなければ、終わらないの、全てが」

 シスターたちが動きを止めました。

 皆、わたし同様、無言で女を見つめています。

「あなたが、そうしてしまったの」

「いったい何がどうなってるんだ。あんたは何を言ってるんだ……わからない。いったいこれはどんな悪夢なんだよ」

 女はシスターのひとりひとりに視線を送りながら言葉を送ります。

「ねえ、あなたたち。あなたたちは分かるわよね。そうしなければあなた達、守護天使には成れないの。誰か異議のあるコはいる? 誰かいる!」

 哀れなあのコ達は互いに目配せしながら暫し呻き声を上げていましたが、やがて黙ってしまいました。

「みんな、えらいわ。ねえ先生、このコたちは理解した様よ」

「馬鹿野郎が」

「何か言った、先生。私に」

 わたしは立ち上がりながら、動かない両手を女に向かって突き出しました。

「馬鹿野郎が……この手で何が出来る」

 女はわたしの手を見ながら薄笑いを浮かべ言いました、

「エンジェルたちを持ち上げる事なら出来るでしょ。そのまま床に叩きつければいいのよ」

 女への恐怖と怒りはどす黒いアドレナリンとなってわたしの身体を駆け巡ります。

「わからねーのかよ、先生、お前が、あたしを、創ったんだよ。馬鹿野郎が」

「だったらお前を真っ先に壊してやる」

「その手で? お前のその惨めな手で? テメエで言っただろうが、今、言っただろうが、何が出来るって言っただろうが。あのな、あたしは、床に叩きつけたくらいじゃ壊れねーんだよ」

 わたしは女に飛びかかるとその背後に回り込み肘でその首を挟み込んで締め上げました。

「……馬鹿な……人ね……。」

 それが女の最後の言葉でした。

 そして、どこか遠くで“ガシャーン”と何かが床に落ちて砕け散る音が聞こました。

           

 『我慢しなきゃ。先生はご病気なの』

           『そうよ、待とうよ』

                 『でも、いつまで』

                    『大丈夫よ。その日はきっと来るから』

 

 囁きが聞こえます。

 笑い声も聞こえます。

 潮の満ち引きの様に近づいたり遠ざかったりしながら聞こえます。

 あるいは自分が発している笑い声なのかもしれません。

 わたしは天板の上に両手を乗せます。

 天板に乗せられた両の手を、じっと見つめます。

 今はまだ動かないこの手を。

 いつか力が蘇れば、よく切れるペティナイフでこの手を切り落とすでしょう。

 まずは、この不浄な右の手を左の手で。

 さあ、残された左の手を切り落とす時はいかがしましょうか。

 いづれにせよ、この作用台はそのために残されているのです。


〈ここは地獄なのですか?〉


 そうですね。違いますね。

 わたしはこんなにも幸福なのですから。

 この醜い作業台の天板には無数の傷があります。

 そこには傷が織り成した鈍色の光があります。

 なぜかその光は強まってゆくのです。

 いくら、消えて欲しいと、願っても。

 

                           (終)







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