第4話 あの頃…… 

 女の言い様には嘲弄の色はなく、ただ、純粋な怒りがありました。

 わたしはその怒りが大島ユキヲではなく、“彼”に向けられたものの様な気がして、たじろぎます。

 大島ユキヲの着ぐるみを着る前の“彼”、つまり大昔のわたしに。

 

 “彼”が東京に出てきた頃、街にはまだ七〇年安保斗争の残り香がありました。

 御茶ノ水駅の前で、『沖縄返還協定粉砕斗争』へのカンパを、ゲバヘル冠った連中が募っていても、“彼”の視線はまるで饐えたものを見る様でした。


 繰り返しになりますが残り香はあったのです。

 例えば同じクラスには、ニチゲーつまり日大芸術学部を追い出されたという四つほど年上の、ニチゲー斗争で右翼を半殺しにした事が自慢の男がいました。


 その男は『成田・東峰十字路斗争に於ける勝利』なる題名の人形を使ったオブジェを仕上げ、これが俺の斗争手段だなどとうそぶいていました。

 それは有刺鉄線が巻かれた杭に機動隊の服と装備を着けた、身体中傷だらけのキューピー人形が逆さ串刺しにされているという作品で、人形の顔は半笑いを浮かべてたものに変えられていました。


 それを見た講師の一人は、人形と同じ様な半笑いを浮かべながら作者の男に“キミはセクトが違うだろう”と揶揄う様な口調で言っていました。


 何故そんなくだらない事を覚えているかといえば、実はその時、作者の男と講師の会話に割って入った同じクラスの女性がいたのです。

 彼女はいつも床を引きずる様なロングのマキシスカートとペルシャ風のヘッドスカーフ、そして黄色いレイバンという出で立ちで、何故かクラスの連中からレズビアンだと思われ、実際、フェムの女子達は“あの、ダイク”と陰口を叩き、嫌っていました。


『アイディアは悪く無いけど、お人形さんの表情が残念ね』

『イイだよこれで。パロディなんだから』

 男は憮然として、そんな様な事を言っていましたが、女性はとても冷たい声で、

『美しくないのよ。せっかくの死が。三島の『憂国』、観た? あれよ。あれでなきゃ』

 

 彼女はそう言い残し、呆気に取られた男たちを残し、悠々と教室を出てゆきました。

 数週間後、“彼”がその女性のセックスフレンドになった頃でした。


『アンタにだけは見せてやりたくて必死に仕上げたのよ』

 そう言う彼女にアパートで見せられたのは、柘榴色に染まった何処かの平原で、満身創痍、半裸の従軍看護婦が軍刀仕立てのサーベルで切腹をしている八号サイズの油絵でした。

 初見でした。

 キャンバスから立ち昇るテレビン油の香りが、仕上がって間もないものであることを語っていました。彼女は誰の目にも触れぬ様、一人で密かに仕上げていたのです。

『他の奴には見せないのかい?』

 そんな問いに彼女は黙ったまま、暫く自分の作品を見つめていました。そして何かが高まって弾けたのか“彼”を激しく引き寄せ、貪る様なキスを始めました。

 二人が互いに剥ぎ取る様に服を脱いだ時、既に彼女はとても濡れていました。

 それは、珍しいことでした。

『どう、レオナールには負けるけど。三島には勝ったかも』

 行為が終わった後、彼女はそう言いました。油絵の事でした。

 レオナールが藤田嗣治の事だとややしてから気づきましが、いったい三島の何に、どう勝ったのかは分かりませんでした。

『女だって切腹できるのよ。むしろ女の方が美しく出来るのよ』

 “彼”は三島の『憂国』をその時はまだ観ていませんでしたので、彼女の作品と比べる事は出来ませでしたが、その大きく切開された腹部とそこからはみ出た腹わたのグロテスクと、ほんの僅かその唇の端に苦悶を浮かべながらも凛として清正しいとも感じる表情のコントラスが見事な傑作だと感じていました。


 聞けば元々は文学少女だった彼女は、とある文芸雑誌の編集者の紹介で『奇譚クラブ』という一風変わった雑誌でイラストを描くアルバイトをしていたそうです。

 それは、彼女が“彼”の妻になってからも続けられ、二人の生活の糧になったのです。

 ちなみに従軍看護婦の油絵が世にでる事はありませんでした。


 数日後、彼女の部屋に行くと、あの油絵は激しく切り裂かれた状態でイーゼルに置かれていました。ご丁重にもイーゼルには切り裂くのに使ったらしきペティナイフが突き刺してありました。

 ナイフの腹には柘榴色の絵の具がねっとりと付いていました。

 彼女が絵を切り裂いた理由? わかりません。

 まあ兎にも角にも、三人目の馬鹿、つまり、わたしだけがあの作品を見ることが出来たのです。


「なあ、お嬢さん聞かせてくれよ。若かりし頃の俺のこと、フェイスブックには何て書いてあった」

「そうね、確か『実作を作る為の紙粘土は自分には高価だったから、日がな一日中、デッサンを描いてた。来る日も来る日も』とかだったわね」

 そんな“彼”に何故、若き日の妻は興味を持ってくれたのでしょうか。セックスフレンドから昇格させたのでしょうか。

「……『どこの芸大にも入れず、しょうがなく入った学校で、自分には才能のかけらも無いことを思い知らされた私は、田舎に帰って親父の漬物工場で人生を終えることへの恐怖からデッサンに明け暮れた』とは書いてなかったか」

「いいえ。『クラスメートは皆、俺の才能に嫉妬していた』って書いてあった」

 どうりで連中からはクリスマス・カード一枚来なかったわけです。

 そしてカードを寄越さなかった連中は、人形作家としてある程度名を成した後にすり寄って来ては褒めそやした連中と一緒になって、事件の後であれやこれやのメディアで口を極めて大島ユキヲの作品、その人間性までも全否定していました。

 しかし、それは大島ユキヲのもので、わたしのものではありません。何故なら連中は誰一人、本当のわたしを知らないのですから。


「あのね先生、本当のところどう思ったの?」

 女の黒い瞳の中に蠢めくものが鈍光を放っています。 

「何の話だよ」

「あの事件の後、ネットで『大島ユキヲてサァいかにもってカンジのロリコンの変態ぽくネ?』とか『あんなキモジジィが作るキモドールにあんな大枚払うアホがなんでいるわけ?』なんとか散々書かれてたわよね。それよ」

「言っただろう。俺はあの手のものには近づかない。見ていないないから、そんな事を書かれたことも知らなかったよ。そもそも連中はめくら以下だ。はなっから自分の目を持たない。あの連中は強烈なインプレッションを受けた時、ひと回りしてイージーな答えを望むんだよ。自分でもわかるレベルの、実に低俗な答えを」

「……奥様は違った?」

「……妻の話をしたいのか」

「先生……。」

 女の声は、恐ろしく冷たいものに変わりました。

「何で、奥様は、フェイを殺したの」

「……殺した?」

「床に叩きつけたでしょ」

「手を滑らせて落としただけだ」

「違う。わざとやったのよ」

「だとしても、更に美しい姿にした。わたしのこの手で」

「美しく? フェイの顔は歪んでしまったのよ」

「そうじゃない。違う。本物の美は、本当に美しいものが傷つく事で生まれるんだ」

「だったら、なんでフェイを奥様の棺の中に入れて焼いてしまったの。まるで魔女を焼き殺すみたいに。本当に美しいものなら何故、焼いてしまったの」

「リメイクされたあのコの美しさを真に理解出来るのは妻だったからさ。フェイを生き返らせたわたしよりも」


 女は静かに笑い出しました。

 最初緩やかに。やがて激しく、そして狂った様に。

 そしてまた長い沈黙が続いたその後、女の身体からアーミージャケットが滑り落ちました。


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