第3話 再生

笑いがこみ上げます。

 それは次から次へと溢れ出て押し留める事など出来ません。 

 今度の笑いは先の笑いとは違います。何故ならわたしの手からあの忌々しい痛みが消え去っていたからです。わたしが帰って来たのです。

 この世で唯一存在価値のある、わたしが。

 わたしは夢中で粘土を捏ねましす。

 わたしはスパチュラで彫り上げます。

 わたしは軽く焼き込んでまた、リューターで削ります。

 “違う!違う!違ーう”と叫び、その出来損無いのを、を床に叩きつけ、また粘土を捏ねてスパチュラで彫り上げます。


窓の外の色が浅葱色に徐々に至極色にやがて藍色に変わります。


「先生」


〈今は黎明なのでしょうか、薄暮なのでしょうか。そうでね。そんな事はもうどうでもいい事ですね〉


「先生っ」


 わたしの手が動くのですそしてわたしの手を動かすエネジーがわたしの中から次々と溢れ出るのです。

 先程までの怒りや恐怖は全て別の姿のエネジーに変わっていました。

 世の中の大多数のクソみたいな音楽では浸ることなど出来ない最高のグルーブの中でわたしはくる夜もくる夜も泳ぎ続けました。

 その時のわたしの顔には般若の面ともつかないものが張り付いていたでしょうが心は溢れ出す生暖かい恍惚に浸っていました。

 ずっと忘れていた恍惚に。


「ねえ。先生っ」


 ハルカに揺り起こされわたしは目覚めました。

 ハルカは手に持っていたトレーから妻が死ぬまでわたしが使っていた、ずっと使っていなかったコーヒーカップを作業台の端に置きました。


「今日からまた、こちらのカップを使いましょうね。先生」

 

 わたしは心底ウンザリしながらでコーヒーを啜りましたのは、コーヒーが不味かったからでは無く彼女が着ていた古びたアーミージャケットの為です。


「……どこで見つけた」

「なんです?」

「そのジャケットだよ」

「クローゼットの奥に有りましたよ。ごめんなさいね先生、勝手にお借りしてしまいました」

「何だってそのジャケットなんだ」

「すてきだったから。先生のかおりが染み込んでいて」

「服なら他にもあっただろう、妻のやつとか」

「嫌ッ!。そんな服」

 ハルカは眼を剝きそう叫びました。

「こっちの方が、ずっとすてきよ」

 この部屋に来て初めて見せる表情でした。

 そのジャケットはどこかの軍隊の払い下げでわたしが美術学校の学生だった遠い昔に缶バッジなどを付けて着ていたものです。東南アジアではまだ戦争が続いていました。

「……ねぇ先生、当ててみましょうか」

 わたしは黙ったまま彼女の言葉を待ちます。

「このジャケットは思い出の品なんでしょう?多分、甘酸っぱーい思い出が籠ってる。そしてそれはきっと、奥様との……アッ、先生、お顔が赤くなりましたよ。“ピンポーン”て音が聞こえましたよ」

 そう、わたしはこみ上げる怒りを抑えるのに必死でした。さぞやわたしの顔は赤みを帯びていたでしょう。


〈でも何故あんなにもわたしは怒ったのでしょうか〉


「なあ、アンタ」

「何でしょうか」

「いつまでここに居座る気だ」

「先生が、私を、必要とする間、です」

「俺が?俺がアンタを?」

「ええ。そうです」

「なあ、アンタ。アンタのイメージならこの脳裏に全て焼き付けた。アンタが此処にいなくたって何も問題は無いのさ」

「そーかなぁー。本当に、そーかなぁー」


 ハルカはまるでハミングする様に楽しげに言いました。


「何が言いたい」

「私には分かっているのよ。先生のご病気の正体がね」

「俺の病気の何がー」

 ハルカはわたしの言葉を遮る様に大声で叫びました。

「先生の病気がギランバレー症候群だとするなら、それは詐病よ」

「……なんだと」。

「さ、びょ、う。つまり嘘よ」

 わたしは思わず立ち上がり怒気をたぎらせ“もう一度言ってみろ”とハルカに躙り寄りましたが彼女は怖がるどころかむしろ楽しそうです。

「言ったでしょう、私なら先生のビョーキ、癒せるかもしれない。ってね」

 戯け声で、そう言いました。

「もうたくさんだ!調子に乗りやがって!出てけ!」

「私は先生の病気の正体を知ってる。先生の本当の病名は、スランプ」

 ハルカの顔から笑みが吹き飛びました。

「そしてなぜスランプになったかも」

 わたしはハルカに手を伸ばしながら掴みかかろうとしたのですが足がもつれて床にそれはそれは無様にうつ伏せに倒れました。

 上体を起こそうと顔を上げると、そこにはか細いハルカの足があります。

「……最初に言ったでしょう。私は、アナタの、ファンなの。でもね、少しアプローチを変えることにした。ねえ先生、私は魚座なの。だから突然変わるの。用心しなきゃ駄目よ」

 頭上からこれまで聞こえたその声は、とても冷ややかなものでした。

 それでも哀れに思ったのでしょうか。目の前に右手を差し出しました。 

 わたしは左手でそのか細く白い指先を掴み怒りに任せて握りしめました。

「酷いことなさるのね、先生。痛いですよ」

「聞かせてもらおうか?お嬢ちゃん。俺のスランプの原因とやらを」

「この腐った揺り籠よ」

「何だと?」

「だからこの腐りきった生温い揺り籠があなたのスランプの原因なのよ。このアトリエは先生に日々のパンを与え、コーヒーを淹れ、様々なネットツールを使いアナタのイメージを創り上げた。退廃的、不健全、病的。アナタの作り出すシスター達を世の中はそう評した。大衆って不思議ねよ。そんな哀れなあのコたちを愛でる熱狂的なファンが生まれ、アナタを神と崇めた」

「そうさ、勝手にな、俺にはいい迷惑だった」

「アナタは本当に気づきもしなかったの?だとしたら、哀れすぎる」

「どうゆう意味だ」

「だってそうじゃない。人形作家大島ユキヲのイメージを創り上げ、ゲスな連中に大枚を叩く様に導いたのは奥様なんだもの。奥様がアトリエという名の歪んだ子宮を創造しあなたはその中でシスターたちを次々と産んでいった。身体中傷だらけの人間の形をした哀れなクリーチャーたちを。でも大衆は気まぐれ。だってゲス連中だもん。連中はもっともっと醜い汚れきったブッ壊れたモノを求めた。大島ユキヲ先生、あんたはそれについていけなかった。本当はたった一人、創作の荒野で取り残されたのに、オメデタイ先生アナタはこのアトリエに引き籠って巨匠大島ユキヲであり続けようとした。本当は元巨匠なのに」

 わたしは叫びました。

「大島ユキヲと俺は違う。本当の俺じゃ無い」

「じゃぁあああぁ、誰、なんだよ、先生、オマエは」

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