第2話 哀願
「どこまで図々しいんだ。アンタはさぁ」
なおも溢れ出ようとする可笑しみ何とか収めながら女に向かい言いましたら、女はその僅かに膨らんだ胸を張り、わたしの目を見つめながらこう言ったのです。
「ハルカです。私の名前はハルカ。そう呼んで下さいいね、先生」
笑うということは気持ちをとても高揚させる事だからかもしれませんが、その時、わたしは自分でも驚くような言葉を吐き出したのです。
「わかった。ご馳走しよう。コーヒーくらいなら。アンタにね」
わたしは、ぱっと明るくなった女の顔から慌てて視線を外し、残りのコーヒーの入ったサーバーを持ち、キッチンへ向かおうとしました。
「どちらへ、先生」
「キッチンだよ。コーヒーを温めなおすんだ」
女は、すぅーっと、わたしに近づきいてきました。
「冷めたままでいいんです。わたし、苦手なんです。熱いもの」
そう言いながらカップを、わたしの前に差し出しました。
わたしはすっかり冷めてしまったコーヒーを注ぎましたのに、女はとても熱いものに触れたような表情を浮かべ、恐る恐るカップの液体を啜ります。
「美味しいわ。先生」
女はわたしをじっと見つめながら言いました。
その視線から逃れたくもあって作業台に向かいます。
作業台の椅子に掛けていたブランケットを手に取り女に渡そうと振り返りました。
“えっ”
女は、わたしの直ぐ後ろに立っていました。
その腕にブランケットを押し付け、目線で“使えよ”と合図を送りました。
女は少しはにかんだ表情を浮かべブランケットを受け取り、その細い肩に羽織りました。
千分の一秒、女がブランケットに頬ずりしたのをわたしは見逃しませんでした。
「お優しいんですね。本当は」
「なんとも寒々しくて、見ているわたしの方が不快になるからだ」
「不快なのはこのワンピを着た私が寒々しいからですか」
「いま、そう、言ったろ」
「このワンピが、フェイのワンピとそっくりだから、じゃないんですか」
わたしは答えず、女の言葉を待ちました。
「先生と、奥様が、愛した、フェイ」
聞こえない素振りをわたしは続けます。
「あらッ、残念だな。『なんという事だ、ハルカ、キミ、なんでフェイの事を知ってるんだ!』とか言って驚くと思ったのに。書いてありましたよ。先生の、フェイスブック。もう何年も更新されていない、先生のフェイスブックに」
わたしは心底、そのうすっぺらな種明かしに酷く失望しました。
「あらっ、がっかりなされたの? 先生。でも書いてあったわよ。千回も読み返したわ。『……透き通る様な白い肌にブルネットの髪、凛と冬空に浮かぶ三日月の様な切れ長の目。逆に真紅のルージュであやどられた唇はとても肉感的だ……』確かにそう、書いてありましたよ」
なんと安っぽい、陳腐な表現でしょうか。
「生憎、あの手のものは嫌いでね。全部、妻がやってたのさ」
「じゃ、あれは奥様の言葉?」
わたしは曖昧な呻き声をあげました。
心底、どうでも良い、鬱陶しいことです。
「そう……そうなの。でもきっと奥様はフェイに嫉妬していたでしょうね」
嫉妬? ……無意識にわたしは片眉を上げたのでしょう。
女は小さく肩をすくめ、真っ赤な舌を一瞬のぞかせました。
「見ましたよ。先生の愛人、フェィ。でもフェイはアナタ達の愛娘でもある。若かりし先生と奥様が四ツ谷の骨董屋で見つけた東欧から来た陶器のお人形のフェイ」
まさか写真まで載せたのか。つくづく馬鹿なやつだ。
「そうですよ。若い頃の先生と一緒に写っていましたよ。色褪せた古い写真」
わたしはハルカをジッと見つめてしまった様です。
「嬉しいです」
女の声にわたしは我に帰りました。
「初めてちゃんと見てくれましたね、先生。私を」
女は立ち上がるとワンピースの裾を軽く持ち上げ、まるで踊り子の様にターンしたのです。
「あちこち探して見つけたんですよ。このワンピ。フェイのにそっくりでしょう」
「違う」
「何が? 何が違うんですかぁ」
わざと揶揄いのいろを声に滲ませ答えを返します。
「アンタは、フェイじゃ、無い。フェイとは、似ても、似つかない」
女は身体をくねらすのをやめ、拗ねた素振りで“酷いな”とつぶやきました。
「わたし、傷つきましたよ。先生……また」
女の声はなぜか遠くから聞こえてきた気がしました。
「だったらそろそろマトモな話をしようか。ハルカさん、アンタ、何者だよ」
「そうですね……きっと……」
女は口角を上げ無理に笑顔を作ろうとしましたが、惜しむらくその目の色はどんどんと冷ややかになっていきます。
苛立ちを覚えたわたしは、顎を突き出し、女に続く言葉を早く吐き出せと促しした。
女の顔から無理に作ろうとした笑みが吹き飛びました。
「私は先生に幸運を運んで来た天使です。……あ、笑いましたね。笑われたって平気です」
「じゃ、羽はどうしたんだよ? 天使のハルカさん」
「来る途中で無くしてしまいました。預けていた荷物と、一緒に」
「天使なら飛行機には乗らんだろう」
「なら、なおしてください。作り直して、私の羽を。そして戦士の魂をヴァルハラに送り届けるワルキューレの様な天使に戻して下さい」
なんとチープなセリフでしょうか。
それでも、わたしの気分はまだ高揚していたので、この安っぽいオペラに付き合うことにしたのです。
この女は傑作です。既に大傑作です。この女を治す必要などありません。
「俺には羽は作れない。此処には戦士の魂はない。他を探せ」
「先生がいます。戦士です。先生は、戦士です」
「彷徨う戦士の魂を拾いに来たのか」
「違います。もう一度、剣を握って欲しいんです。先生に」
「握ってどうする? 誰と戦えっていうんだよ」
「先生自身と」
「戦ってどうなる」
「新たなシスターが生まれるわ」
「それが望みか」
「先生はまだ戦える。新しいシスターを生み出せるわ」
「そりゃスゴイね。泣けるね話だよ」
「お願い。茶化さないで」
わたしはハルカと名乗る夏物のワンピースを着た魔女に向かって両手を突き出しました。
「この手はもう剣を持てない……ひどく痺れるのさ。しょっちゅうな。俺はもう、戦士にはなれねーんだよ」
熱を帯びていた女の眼は徐々に冷ややかなものになっていきます。
「知ってますよ。ギラン・バレー症候群。そうでしたよね。先生のご病気」
やはり彼女は間違い無く魔女だとわたしは確信しました。
何故ならばわたしの病気の事は死んだ妻以外は、市立病院のわたしの主治医しか知らない事だったからです。
妻が第三者にこの秘密を教えるはずがありません。
何故なら妻はわたしの病気が他人に知られることを酷く恐れていましたからです。
もしうっかり、妻がベッドで愛人にこの事を漏らしたとしても、さして問題は無いでしょう。その愛人はほかならぬ市立病院のわたしの主治医なのですから、
そして医者には守秘義務というものがあるそうですから。
妻は現実的な浪費家でもありましたから恐れたのです。
わたしの病気が世に知られる事で失われるものを。
つまり日々必要なパンとワインとコーヒーと水と電気とプロパンガスと灯油を買う為の金、当時は偶にはありましたパーティなどに妻が持っていくロエベの新作バッグを買う為の金を得る為の手段である『この、わたし』が失われる事を。
「その痛み、癒せるかもしれませんよ。私なら」
わたしは魔女の囁きに抗します。
「馬鹿らしい……この病には特効薬などないんだよ。血漿交換もグロブリンも全てやったさ。おかげで蓄えは使い果たした」
「実はね、これだけは旅行バッグには入れずに肌身離さず持っていたんですよ」
そう言いながら魔女は胸元から何やらの液体が入った小瓶を取り出し作業台の上に置いたのです。
「手を取り戻したいでしょ。若い頃の、手を」
その小瓶には飴色の液体が入っていました。
「言ったでしょ? 私、天使なんですよ、羽は無くしたけど。そうね、きっと、ファイの代わりに先生のもとに天が遣わされたもの。そう考えたらいかが? だってフェイって『天使』って意味ななんでしょ」
この魔女は知らないのでしょうかそれとも知らないふりをしているのでしょうか
『フェイ』とは天使では無く、正しくは妖精の名前です。
それもいたずらっコの……。
そして……。
「なるほどね。なあ、天使さん。こいつを飲んだら、ひと思いに死ねるのか」
「私が何で先生を殺すの。なんで、この、私が」
「天がフェイの代わりに遣わしたのなら、それは復讐の為だ。俺がフェイを殺そうとしたからだよ。床に叩きつけたのさ。この手で」
「そう……でも、なぜ」
フェイの目が、なぜかあの眼だけが、脳裏にありありと浮かび上がります。
あの、冷ややかな眼は静かなる叫びをあげます。
『アナタの作り出すものは全部わたしの出来損ないのリメイクね』
……そう、叫び続けるのです。静かに。
わたしの答えを待たずに女は机の上の小瓶を取り上げますと中身をカップの中に垂らしました。
小瓶の液体はまるで熔炉から注ぎ落ちる溶けた重金属の様な重みが有って、熱と光すら感じました。
落ちてゆく液体を見つめる女はとても満足気です。
液体を注いだカップを持って女はゆっくりとした動作でわたしの側に立ちます。
そしてその左手でわたしの右手をしっかりと握りました。
「シスター達を産んだのね。この手が。そして……フェイを殺したの? この手が」
女は自らカップの中身を一気に煽ります。
けど……その喉が何かを通過した様子は無く、液体は口中に留まっている様でしたから何を企んでいるのかと思考したその瞬間、女はわたしに抱きつきその唇を重ね口中の液体を、わたしの中に、注ぎ込んだのです。
吐き出そうともがきましたが、重ねられた唇は離れません。
わたしの目は屠殺場の豚の目の様に恐怖し見開かれているでしょう。
魔女の目は囁きます“手を取り戻したいでしょ。本当の、アナタの、手を”と。
わたしの喉は操られたかの様に“ゴクッ”と動いて液体を体内に迎え入れました。
長い時間わたしは惚けた顔で作業台の椅子に座っていたと思います。
アトリエの窓を叩く風が徐々に高まり硝子が割れんばかりの勢いになり、遠くで雷鳴まで聞こえ始めたときわたしは我に帰りましたので視線をあげるとそこにはわたしを見下ろす魔女の顔がありました。
「休憩時間は終わりよ。先生」
魔女は命じました。
わたしは頷き、作業台に向かいました。
わたしはいつの間にか作業台に置かれた粘土をこね始めました。背後に魔女が立ち耳元で囁きます。
「先生なら出来るわ。きっと素敵なシスターが生まれる。さあ、頑張りましょうね」
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