エンジェル :re メイク

@のぼ

第1話 来訪者

 アール・デコ調の居室も兼ねたこの部屋の中央には、この部屋には似合わない醜く武骨な作業台があります。

 太い鉄製の脚。

 分厚い黒檀の天板。

 そしてその天板には無数の傷があります。


 愛おしいその傷たちは、エンジェルたちが生まれ落ちた時につけられたものです。

 傷と傷は重なり合って光を放っています。


 鈍色の光を。


            *   *   *


『どう、仕上がってる?』

 それは美術学校に通っていた遠い昔、クラスの仲間とよく交わした挨拶です。

 なんと素敵な挨拶でしょうか。

 もし、昔のクラス仲間の誰かに今こう尋ねられたら、

『実はね、かなりイイ感じに仕上がってるのがあるのさ』

 そう答えるでしょう。


 嘘ではありません。

 出来上がりつつはあるのです。

 わたしのカラダは腐れてしまいましたが、思考は素晴らしく冴えていてアタマの中デザイン画は細部に到るまでしっかり出来上がっているのです。

 だからこうしてまた作業台の前に立ち、使い込んだカップに注がれたでコーヒーを啜りながら天板の光を見つめます。

 

 声が聞こえます。 

 どうしても手放せずに手元に残し、今は壁に並んでいる四人のエンジェルたちの囁きが。

「おはよう、エンジェルたち」

 そう声をかけるとエンジェルたちは

『おはよう、先生』

 と返事をしてくれます。

 あのコたちは始まりの前にいつも必ず挨拶をくれるのです。


 実は、私は気付いているのです。

 この数ヶ月、あるいは数年、もしくは数百年、あのコたちの声に沈んだ気配があるのを。

 あのコたちが思っている事はわかっています。

 だからわたしは言い聞かせます。優しく。

「わかっているよ。君たちは早く妹が欲しいんだろう。そうだね、しばらく君たちのシスターは生まれていないからね」


 エンジェルの一人が囁きました。

『我慢しなきゃ。先生はご病気なの』

 他のエンジェルが声をあげます。

『そうよ、待とうよ』

『でも、いつまで』

『大丈夫よ。その日はきっと来るから』


 わたしのエンジェルたちはみな思いやりのあるコばかりですから、こうやって私を気遣ってくれるのです。

 いつも。

          

            *   *   *


 またこうして幸福な時が始まろうとした時、誰かが居間の片隅の、外へと続く玄関の戸を叩いたのです。わたしは身構えます。


「先生っ! 大島ユキヲ先生っ」


 それは若い女の声でした。


 あまりの不意打ちに手からコーヒーカップが滑り落ちて床に叩きつけられ“ぐぇ”という様な哀れな鈍音をたてましたからわたしは“あ、あ、あーッ”多分そんな、なんとも情けない悲鳴をあげたと思います。


 ドアが開かれました。

 凍える風が音を立てて吹き込んできました。

 風とともに何かが飛び込んできました。

 わたしは慄きました。

  

 それは今の季節と不釣り合いな薄手のワンピースを着た若い女でしたから。


「誰だオマエッ」


 誰? いいえ、わたしには分かっていました。

 今のわたしを“先生”などと呼ぶ連中はあの手の連中です。

 決まっています。

 最近は来ないと思っていたら!

 わたしはその季節外れのワンピースを着たイかれた女をドアの向こうに放り出そうと、急ぎ近づきました。

 女はすがる様な目でわたしを見ながら首を左右に激しく振りながら哀願しましたのにわたしはかまわずその腕を掴みずいずいと玄関ドアの方に引きずって行きました。

 女は尻もちをついてしまいましたのに、その華奢な臀部をつつむ薄いワンピースはめくりあがってしまいましたのに、わたしはかまうこともなく”帰れ!帰れ!帰れ!さあ帰れ!”とまるできふれものように叫び、ありだけの力で引きずったのです……が……。


 急にわたしの腕から先は例のごとく一切の感覚を失いゴムで出来た義手のようになってしまい、わたしの手は女を、離してしまいました。


 女を掴んでいた自分の右手を抱きかかえながら、わたしは呻き声を上げていたと思います。  

 きっと女には泣き声のようにも聞こえたでしょう。

 床に蹲りましたのは痛みの為では無く恥辱による苦しみの為でした。

 女は立ち上がるでもなく、まるで仰向けになって腹見せた蜘蛛の様な姿勢で床に尻着けたままでその身体を滑らせながら、わたしに近づいて来ます。

 伸ばした女の手が、その指先が、わたしの額にそっと触れますした。

 そのゾッとするほどに冷たい指先にわたしはまた、慄きました。


「思い通りにならないのね。手が。先生の大切な手が。可哀想な……先生」

 

 慰めをよそおうその声の奥底には可笑し味がありました。

 “アンタに関係無いだろうが”と言いかけて……。

 わたしは口を閉じました。

 目の前に女の白く細い足があったからです。尻もちをついたままの女は全く無防備でわたしの目の前で露わになった両足とその向こう側を隠そうともしませんでした。

 長い間ののち、女はようやくわたしの視線に気づいたふりをして、ゆっくりと足を閉じ、華奢な指先でワンピースの裾を直しました。


「関係、ありますよ。あるんです。だって、私は、先生の本当のファンですから」

 

 女はそう言いながらゆっくりと立ち上がりました。

 そしてわたしの向かって少しかがみこんでそっと手を伸ばしたのですが、わたしはその手を払いのけ、ありだけの冷たい声で言いました。

「なんでもいいから出て行ってくれ、今、すぐにだ」

 女の顔からすぅーと表情が消えました。

〈いいぞ。さあ、怒れよ。そしてさあ、出てゆけ〉

 しかし……その視線はゆっくりと、わたしから床のある一点に移動してゆきます。

 わたしの視線もまた、わたしの怒号などまるで聞こえない素振りの女の視線の行き着く先に向かいました。

 そこには、今しがたわたしが落としましたコーヒーカップがありました。

 

 わたしの視線が辿り着いたと同時に、女はコーヒーカップを持ち上げ、そして……愛おしそうに頬に寄せたのです。


「罅が入ってしまいましたね……大きな醜い罅が」


 わたしは無様な仕草を女に見られる事など気にもせず、手足をバタつかせながら立ち上がり“もういい。それを寄越せ”と手を伸ばしました。

 すると女はわたしに背を向けコーヒーカップを抱きしめたのです。

 まるでわたしから、わたしの手から、守るかの様に。


「私呪われますね」

 わたしは声を出すのも億劫な程に体がこわばっている事に気づきました。

 ついには呼吸が苦しくなり、どうにもならずにその場にへたりこみました。

「今、なんて、言った」

 女は黙ったままです。わたしは声を張り上げました。精一杯に。

「なあ、アンタ。今、なんて、言ったんだよ」

 女はわたしに背を向けたままコーヒーカップを抱いきながら、

「これには、誰かに長年愛された気配がある。それに醜い傷をつけた。私は」

 と言いながら、その体を揺らしています。まるで母親が赤子をあやす様にです。

 

 そのコーヒーカップは確かに長く人に愛さていました。

 妻に。

「感じるんです。この棚に並んだ先生の御作品から香り立つ様な気配と同じものを」

 わたしの視線は女の顔を初めて真正面から捉えました。

 そして気づいたのです。

 透き通る様な白い肌。鋭利なナイフで切り込んだような切れ長の目。少し悲しそうに結ばれた唇。その女はとても美しい女でした。そうです、わたしは彼女を自分の作品のモデルにしたいと思ったのです。


 もし、この手が、自由に、動くなら。


「もういい。カップのことはもういい。それより、なあ、アンタ」

 ふたたび上げた女の顔には一切の表情が無く、そしてその事が女の美しさを際立たせていました。

「なんでしょうか。先生」

 静かな声でした。

「その格好、何だよ」

「このワンピースのことでしょうか」

「そうだよ」

「似合ってませんか?私には」

「そんな事は言ってないだろ。この季節に着る服じゃないだろうと言ってるんだ」

「行方不明なんです。私の荷物、行方不明なんです。飛行機に預けた荷物が。全部、何もかも預け荷物の中なんです。凄く後悔してます」


女の眼の中に怒りはなく、むしろ悲しみがありました。


「遠くから来たのか、アンタ」

「ええ、ずっと、ずっと南の方から」

「それにしたって、その薄着はないだろう」

「ええ。酷く寒くなってきました。さっきまで、バカみたいに興奮して寒さも忘れていたんですね、私。ねえ先生ッコーヒーをいただけませんか。できればこのカップでいただけませんか」

 そう言いながら女はわたしに向かってかってカップを差し出しました。


 罅の入ったコーヒーカップを。


 わたしは笑い出しました。

 溢れ出る可笑しみを抑える事がどうにもできませんでした。

 なのでやや暫くの間を笑い声のようなものを放っていた様な気がします。

 何故なら、あのクソみたいな連中のヒトリが、こうして、このアトリエにいる事を許しているのですから。


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