茜雪
千羽稲穂
茜雪
春、彼女は二十回目の死を遂げた。
彼女の舌に柔らかな牙があてがわれ、ゆるやかに舌は貫かれる。血管がはじけ飛び血液が舌を覆うと、ぼとりと彼女の口から血だまりが落下する。鈍く光る赤いヘドロを僕は両手ですくい上げた。彼女の舌はりんご飴の表面のようにコーティングされ輝きを見せていた。まだ温かく、生を感じさせる。息づく彼女の舌を大切に包み込み、口からだらりと血を伝わせる彼女を仰ぎ見た。彼女はしばらくのあいだ、僕の前でたたずみ、死の淵まで黒々しい瞳で世界を瞳の奥へ押し込んだ。
河川敷には僕と彼女しかいない。足下の草花は茶色く冬の木のように生気がなかった。彼女の口からこぼれ落ちる血液でぱきっと折れてしまうほどに、乾燥している。口の中が水を欲しているのに、眼前にある川は血液のへどろが凝り固まったように鉄くさい。川底も見えず、流れているのかすら定かではない。
彼女の黒い髪の毛が舞っている。一本一本、世界に輪郭をつける。その先端さえ、輝きを極限に押さえ込まれ、どこにも光の行き場がなかった。
そこでぽつ、と僕の頬に冷たい何かが触れた。頬が反射して、鳥肌がたつ。冷気を吐き出すと、一気に目の前が赤冷める。頬が紅潮し、胸のあたりを燃やす。炎を胸にでも飼っているのかとも一瞬思った。痛いほどに身を焦がす炎が僕に宿っている。僕は、彼女のことをどうしたいのだろうか。炎は心の奥底で僕を観察していた。
目の前に白い花びらが散っていた。目で追うと、それは冷気をはらんでいる。地面に落ちると、草花を覆う銀世界を生みだす。まっさらなキャンパスの上に、彼女は崩れ落ちた。黒く長い髪が白い地面を汚す。彼女の血だまりが白ににじむ。彼女の息は次第に小さくなる。呼吸を合わせると、彼女の口元が震えているのが分かった。じわじわと彼女の唇が青白くなっていく。唇に塗られた茜は、すーっと白い地面に吸い取られていく。
こうして、彼女は、二十回目の死を遂げた。
──茜雪
彼女は息を吸うように死ぬ。
零歳、彼女は母親から出てくる時にへその緒を首に巻き付けて出てきた。彼女は息ができなくて泣けなかった。赤子に息を通すはずの管は塞がれ、この世にでてまもなく息絶えた。
一歳、彼女は赤ちゃんベッドからひとりのりだし、階段まではいはいで進み、頭から落下した。頭蓋骨にひびが入り、脳内に血を溢れださせて、彼女は昏倒し、この世から身を引いた。
二歳、彼女は洗濯機を見ていた。洗濯機に入ったらどうなるのだろうか、と自然と思い、中に入り、扉を閉めた。真空になったそこで、彼女は呼吸ができずに眠るようにあの世へと旅だった。
ひと一倍死への匂いに敏感で、すぐに飛び込み、彼女は知らぬ間に死んでいく。誰も知らずに死んでいく彼女に、誰も近づかず、気づいたときには死んでいる。彼女の死はこの世の必然とでもいうように、淡々と進んでいき生が果てる。僕はそれを見ていて、隣で「死なないで」と言おうが彼女は死ぬ。なにがなんでも死ぬのだ。
彼女は屋上の先端で、天を仰ぐ。誰に向かってか分からないが手を組み祈る。目を閉じて、瞼の裏側から白い滴が頬をなぞる。
「死ぬのが怖くないの」僕の体の震えは止まらない。
「おかしいこというなぁ、なんで怖いの」
彼女の足が、片っぽだけ宙に浮いていた。
「万物に死は等しく訪れるのに、なんで怖いの。むしろ死を願わない人の方がおかしいよ。生きている方がおかしい。誰一人として、死なない人はいないように、私が死を迎えいれることは何一つとしておかしくはないよ」
十歳、彼女は屋上から飛び降りた。まだ未成熟な体から女性の血液が散っていくのが鼻先をかすめ、僕の体が死を拒絶した。屋上から身を投げ出し、ひしゃげた血の塊になった彼女を愛おしく見下げた。即死だった。
僕が誰だかはどうでもいい。彼女が生きてさえいればいい。僕がそう願い、祈る。すると世界の隅っこでひびが入る。それもどうだっていい。どこどこでだれだれがどう死のうと、どれだけの人が死のうと、彼女が蘇ることを最優先事項としてあげられるこの世に感謝した。
十一歳、彼女が部屋の穴という穴を目張りして、ネットで注文した練炭を炊いて、眠った。美しいピンク色の肌をして、いつもと変わらない彼女のままで、死体となり果てた彼女に対し、僕は祈った。北半球が干上がり砂漠になろうと、南極大陸の氷が全て溶けようと、川に水が流れなかろうとどうでもいい。彼女を生かしてください。すると、彼女は練炭自殺をした次の日にはころっと学校に姿を現す。
十二歳、彼女は寝れないと偽り睡眠薬を手に入れ、何ヶ月もの間睡眠薬をためにためて一気に喉に流し込んだ。くらくらする視界の中、床に座り込み、次第にぼんやりとした意識の中で虚ろに身をやつした。とろんとまどろみながら、彼女は幸せそうに逝った。だが僕は、再び願った。南半球が食糧難になり、水の奪い合いが起ころうとどうでもいい。彼女を生き返らせてください。すると、やはり彼女の意識はたちどころに蘇り、明確に形をとりつくろい、世界に存在し続けた。
「どうして死なせてくれないの」
彼女のあきれたような声音が僕を射すくめる。彼女の瞳には光はおろか、誰の姿も映し出されていない。波風たてない黒い沼に陥っている。沼にたたずむ僕は、ううん、と頭をふるしかなかった。
茜色の光が神々しく世界に降り注いでいた。焼け付くように熱い日が何日も続いていた。彼女は熱い日照りの中をマフラーを巻いて、コートを羽織り、立ち続ける。寒いのか何枚も肌着を着重ねていた。
「死体に服を着飾るほど滑稽なことってないよね」
と、言って、カーテンレールに縄をくくりつける。わっかに首を通して、足下の椅子を蹴り飛ばした。
十八歳、彼女は首を吊って、宙を泳ぐ。着重ねた服は重しになり、首に全体重がのしかかった。苦しみながらも、彼女の瞳には何も映っていない。僕すらも。電気もつかない。あたりは静寂。放課後のような空気を吸って、僕は思いを連ねた。彼女をどうか。彼女をどうか、生かしてください。願いは通り、彼女は再び長い眠りから覚める。冷めた頬に手を添えて体温が伝うピンクへと移り変わる。
ちりちりと、部屋の窓の向こうで白い何かが降っていた。茜が差し込み、彼女の部屋を真っ赤に染める。部屋の窓から差し込むひざしで、白い何かの影をつくる。ぽつぽつと、降り積もる影に僕は彼女を連れ出した。
僕は何者でもいい。きっと彼女が生まれた時に、僕は僕の存在を世界にあけわたしたのだ。僕の存在が消えてもいい。彼女を生かしてください。彼女にとっての何なのかは分からないが、差し込む茜を綺麗と思えるくらいで僕はちょうどいい。
十九歳、彼女は外で眠りこける。もう既に疲れて果てていた。世界も、彼女も。地面の草はとっくに枯れていて、色があせていた。川の音色も聞こえない。どっしりとした濁った空気が周囲を覆っていた。空気がキンッと冷えていて、肌を突き刺す。昨日まで暑かったのに、一気に氷点下に落ち込み、かつて人だったものがミイラとなって転がっている。白雪が降りつもり、ミイラすらも覆い隠す。ぼろぼろと、ミイラだったものも、崩れ去る。空気が冷たいのに、吹きすさぶ風は温かい。僕たちをやわらかく包み込む。
何もなくて、河川敷に流れる川も赤くて、目をつぶっても雪が積もる音しか聞こえない。
二十歳、彼女の成人、誕生日。彼女は静かに、ゆるやかに、やわらかな舌をかみくだし、犬歯を突き立てて、かみ切った。白い水面に浮かぶ彼女に胸を痛めた。炎が心を燃やしている。もう何も彼女の命の対価としてあけわたすものがなかった。成人してから、そこからが彼女の新たな門出であるはずなのに。それを願って、ここまで僕は祈ってきたはずなのに。落ちた舌をすくい上げると、りんご飴みたいにきらめいていた。
茜色の雪が、視界にちらつく。ちろちろ、と蛇が舌をだすように、雪は増えていく。そうしていつしか視界を埋め尽くす。彼女の死体が傍にある。冷たい雪が世界をまるごと飲み込んでいた。茜差す彼女の冷気をともなった体の傍によりそって、黒々しい頭をなでてあげる。ふぅ、と吐き出すと茜色の雪が踊る。そして僕たちを隠す。視界一色に茜色。僕は再び、願った。
二十一回目がくるかは分からない。もう世界はなにもあけわたしはしないだろう。人間もいない。動物は死に絶えた。生物の息の音は途絶えている。それでも、僕は願わずにはいられない。僕がいなかろうと、彼女に触れられなかろうと、僕は彼女に生きてほしい。目の前の美しい景色に涙を流し、一瞬一瞬に思いを馳せて、感じて、伝えて、存在する。ただそれだけで僕は良かった。
二十一歳、僕は願った。彼女がその年になることを。その年までせめて生きてほしいと。そのために、僕は目の前の景色を目に焼きつける。やわらかな茜雪は僕たちに降り積もっていき、世界もろとも赤く染め上げる。
「きみは、死体なんかじゃない」
僕の声はきっと世界に聞こえない。
春、彼女は二十一回目の生を身に受ける。死という穏やかなものから、生という過酷な現実に起きたとき、彼女は視界の端に白い欠片を見つけた。小さな花びらを指でつまみあげて、顔を上げると、桜の木々が咲き誇っていた。白い花びらが、はらり、はらり、と落ちていって、どこかで鳥のさえずりが音を揺らす。あれほどまでにあった静寂は鳥の音色に彩られる。ただ、ただ、彼女も僕も哀しかった。世界がたちどころに生を受けて、やわこい空気をはらんでいる。僕たちの瞳にあった茜色の世界は、どこにもなく、懐かしさに飢えることしかできなかった。
二十一歳、彼女はその場で蹲り、声を上げて泣き叫ぶ。
茜雪 千羽稲穂 @inaho_rice
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