編集済
興味深いものを読ませて頂きました。ありがとうございます。
芸術論に繋がりそうな話題になりますね。以前、「蒼風」様のなろうを話題とした論説があったのですが、あの方は、明らかに質が低い作品が巷に溢れていることが問題と指摘されていました。半沢直樹も、ある種なろう系ではないか、という僕の質問に対しては、あれはまだ作品として完成されているが、なろう系には明らかに文章が破綻した劣悪品がある、と返答なさりました。
あとは、なろう系による国家の破滅をテーマにした小説では、なろう系は一発逆転を狙って、人間は不断の努力をすべきであるという真理に逆らおうとしている、しかしその努力するべきと主張する人間は、既得権益構造による格差は許容できるもの、と社会的な格差に目を向けようとしなかった。という対立を風刺していました。
自分としては、なろう系がオープンで大衆的なことは構わないでしょう。『盾の勇者の成り上がり』を小中の頃よく読んでいたのですが、まあちょうどいいものかな、と。ざまぁ系の一種になりますが、一連のざまぁが終わったあとも好きで読んでました。女事を書かないのがいいんですよね。
なんというか、なろう系を語る時に、未知の異世界を見て想像力を膨らませること、原始世界には存在しない現代のテクノロジーを改めて解説すること、僕はなろう系のそこが好きなのですが、そこがいつも話題にならないことが少し残念です(あじさい様だけに向けた訳ではないですよ!)
あと、僕は男なので、いかがわしい漫画を定期的に読むのですが、あれも一つのフィクションとしてありかなぁ、と思ったりするんですよね。(売名行為ですが、その葛藤は『漫画について』で語っています)その絵一つ一つの美を(なんか違う気もしますが)愉悦をもって鑑賞することは結構正しい美術鑑賞の一つなのではないか、とも思うわけです。こういうのはいかがわしい、こういうのはいかがわしくなくてつまらない、質が悪いと目を鍛える訳です。自分の無いものを空虚に求めることもありますが、時にその成り上がりのストーリー(常に成り上がりとも限らないですし)じゃなく、一枚の絵がいかに美しいかを見ているわけでして、むしろあんないかがわしいものを見ている時の方が真面目な芸術鑑賞をしているような気がします。
また、純文学を読むことも、「オタクどもの遊び」ではないか、という反論は十分通用しますね。なろう系が自己嫌悪を起こしてまあ、あることないこと認めてしまったのではないか、とも思います。
あと百年したら、なろう系という自分が今名付けるなら「新自然主義」文学はもしかしたらロシア文学よりも高尚な存在である、と言われる可能性もあるでしょう(知りませんが)。巷になろう系が溢れているから、歳をとって落ち着いた人々は、その流行を非難している可能性があります。そして、なろう系の読者が齢を積んだとき、ロシア文学がそこら中で流行したならば、「なんで今時の若者は意味の分からない本を読むんだ」と言うことだってあるかもしれない。
僕は、無頼派くらいならば読めますし、好きですからある程度感受性を磨くことはできますが、『檸檬』は無理です。稚拙な感情を見せられて混乱したとしか言えません。あれは真の文学と言われているようですが、よく分かりません。
詩をある程度見たので、感じたことなのですが、理解の世界を突破しようとする者も、真理のような美を分かりやすく語りかける人もいます。しかし、それのうちどちらかが正しいとは僕には言えません。
芸術は、理解できるものの方が基本的に評価が集まりやすいですし、経済的価値も持ちますが、互いにのさばらせる、蔓延らせる、そうした他を拒まない多様性が大切なのかなと思います。
作者からの返信
コメントを下さり、ありがとうございます。
そうですね、2人の対話は「文芸とは何か」という問いの上で進んでいますし(というか、「文芸とは何か」について2人の立場が違うせいで噛み合っていない状況ですし)、口汚い方はあるべき創作活動について「芸術とも呼びうる」と述べているので、芸術論の側面もあるかもしれませんね。
ただ、口汚い方は「芸術とも呼びうる創作活動」、「苦悩するための文学」となろう(系)小説を比較して後者を否定しているわけですが、口汚くない方(擁護派)はなろう(系)小説を、芸術というよりエンタメと捉えており、内心「そんなところと比べられても……」と思っています。「芸術はエンタメより価値がある」という、必ずしも絶対的とは言い難い考え方を、擁護派が(アリバイ作り程度にしか)批判しない点では、この作品の議論はアンフェアに見えるかもしれません。ですが、擁護派がこの議論に深入りしないのは、「文芸とは何か」を考えたとき、口汚い方が提示する文芸論を擁護派も否定したくはないと思っているからです。
本編にも書いた口汚い方の持論を引用しますと、
「小説にしてもドキュメンタリーにしても、まともな文章を書くという行為には、自分なりに世界を切り取って、文章という形で再構成するという側面が付きまとう。自分の中の葛藤あるいはもやもやを文章に落とし込むことは、自分という人間、その人生、そして価値観に、正面から向き合うことだ。それは自分と世界に対して真摯に向き合う中でたどり着く創作活動だ。文章を書くことは、本来、そういう誠実な活動であるべきなんだ」
いくら擁護派でもこの考え方は否定できませんし、否定したいとも思いません。なぜなら、文章を書くことが自分や世界と向き合うことだという指摘は、純文学に限らず全ての文芸にどうしても付きまとう事実(の少なくとも一側面)であり、これを否定してしまうと、なろう(系)小説が「エンタメとして仕上げられた作品」ではなく「テキトーに書かれた、世間的な評価に値しない駄文」だと自ら認めることになるからです。
蒼風さんの議論のことは存じ上げませんが、おそらくこの点について思うところがあって、それを象徴する問題として「なろう系には明らかに文章が破綻した劣悪品がある」とおっしゃったのだろうと思います。作品が「自分と世界に対して真摯に向き合う中で」生まれたものなら、文章の破綻のような初歩的なミスが商品化の段階まで残るはずがない、という含意があるのではないでしょうか。単なる憶測ですが。
なろう(系)小説が好きな人と嫌いな人ではそもそも文芸の見方が違うという点にも関連しますが、着目点として文芸のどの要素に価値を見出すかという点にも違いがあるというのは全くその通りです。ただ、この対話篇でなろう系異世界の設定の面白さや、異世界と現代日本のテクノロジーの差といった面白要素に言及しないのは、擁護派に突っかかっている口汚い方が、なろう(系)小説の問題点を指摘するという目的のためにこの話を広げているからです。別の言い方をすれば、口汚い方は「剣と魔法の異世界」を描くこと自体の面白さを否定しているわけではなくて、そういった内容に踏み込む以前の段階、作品全体に通底する世界観や作者たちの人間観などが浅はかだという点を批判しているわけですね。ですから、異世界という設定がもたらすワクワクのような話がこの対話篇に登場しないことについては、そもそもそこは論点になって(肯定も否定もされて)いません。
口汚い方としては、文芸はフィクションであるからこそ「人間とは何か」「社会とは何か」「世界とはどのようなものか」を真摯に考えた上で書かれるべきであって、そのためには作者が自分自身や自分の人生観・世界観などと向き合って書く必要があるわけですが、なろう(系)小説や官能小説の類はそれを放棄して書かれた文章であり、そんなものを前にしたところで、想像力を刺激されることなんてない(作品の完成度の低さ、文章の不備などにしか思えない)し、作中の出来事にもドラマとしての見応えを感じない、という具合です。
もちろん、これは極端というか偏狭な見方で、「楽しめる人がいるんだからそれでいいんじゃん」と反論することは可能ですし、なろう(系)小説擁護派も口汚い方の言い分に違和感を覚えてはいるのですが、彼自身「価値観と趣味は個々人のものだ」という理由でなろう(系)小説を擁護しているので、ここでもまた深入りすることができません。そう、「価値観と趣味は個々人のものだ」と言ってしまうと、なろう(系)小説を擁護することができる一方で、批判に反論することもできなくなるんですね。一種のネタバレかもしれませんが、こういう、一見理性的で中立的に見える立場が、実は安易な思考停止としての側面を持っており、それが広まることで文化的な退廃を招くのではないか(あるいは既に招いているのではないか)という意識が、この議論の裏にあったりします。
口汚い方はオ〇ニーや官能小説をそれがまるで悪いものかのように引き合いに出していますが、ご指摘の通りここも難しいところです。ただ、ここでは「オ〇ニーのような読書ばかりしていてはいけない」、「オ〇ニー用品という目的に徹して文学性を捨てた官能小説のようなものを『優れた文芸』だと言っているようではいけない」という意識があるものと思ってください。当然ながら大抵の人間には性的欲求があるのでそういうコンテンツを楽しみたいときもあるのですが、口汚い方は向上心が強いので、擁護派の読書のスタンスに(上から目線で)口を出しますし、そのせいでなろう(系)小説というジャンル自体をここまで長々と貶すわけですね。迷惑なヤツと言ってしまえばそれまでですが、「なろう小説好きがなろう小説しか読まないわけじゃないぞ。ちゃんと他の文学作品も読んで、その上でなろう小説を評価してる人も少なくないんだ」という擁護派の反論が果たしてどこまで現実に即しているのか、僕個人としては少々疑いを持っています(一盃口さんがそうだという話ではなく、ネット上で見かけるなろう(系)小説擁護派の人たちはどうなんでしょうね、という話です)。
いわゆるアダルト向けコンテンツの、エロティックな要素に芸術性を見出せるという議論は、芸術が歴史的にエロティシズムと結びついてきたらしいということを考えると、分からなくはない気もします。ただ、一盃口さんも純文学が「オタクどもの遊び」である可能性を指摘していらっしゃるように、芸術というものは「その時代ごとの権威と権力を持つ人間が文化の歴史を参照しながらそうだと認めてきたもの」という側面があるので、エ〇漫画が芸術と世間的に認められる時代は、来るとしてもまだ先だろうとも思います。また、『ある筋の漫画について』を拝読したところでは一盃口さんもお気付きだと思いますが、アダルト男性向けコンテンツには女性蔑視や女性差別を望ましいもの、許されてほしいものとする描写が多分に含まれるようなので、そういった観点から言ってもジャンル全体が芸術に昇格する未来は想像しづらいというか、あまり想像したくないです。
100年後の文壇がどうなっているかは分かりませんが、日本の行方次第ではないかと思っています。主語の大きな話にはなるのですが、ひとつの言語圏で形成される文化を考えるとき、その言語圏の政治・社会・経済(およびその他)からの影響は無視できないと思います。ケータイ小説やネット小説が流行するのもスマホが普及したから(誰もがスマホを持つ時代に入ったから)で、これは今後も揺るがないと思いますが、たとえば日本が今後、男尊女卑の現状を改善してジェンダーレスに多様性を尊重していく方向になるのか、それとも他の先進諸国・新興国に追い抜かされて貧しい国に没落していく中で、「日本を取り戻せ」的な衝動に走って、今の潮流とは逆にジェンダーごと、所得ごと、世代ごと、民族ごとの溝が深まったり憎悪が高まったりするのかによって、文芸のあり方も変わってくると思います。もしプロがなろう(系)の精神性を取り入れて完成度の高い作品を仕上げる(そしてそれが国際的にも評価を得る)未来が来れば、今のなろう系がより高い評価を得るかもしれませんが、おそらく、その社会は今よりも現実逃避したがる疲れた大人が増えていると思います。まあ、これも僕個人の根拠なき想像ですが。
そうそう、僕も『檸檬』は苦手で、『カクヨムを始めました。』というエッセイの「文学理論の入門書。」という回でそのことを書いています。この対話篇の口汚い方も読むべき文学としてパレスチナ文学やアフリカ文学を挙げていますが、僕個人も(そもそもあまり詳しくないですが)日本文学とそれらを絶賛する風潮には抵抗感を持っていて、その意味で、文学であれば何でも優れているという立場はとっていないということはここで明言させていただきます。
芸術について、お互いの存在を尊重し(不必要に)拒まない姿勢が大切というのは僕もそう思いますし、既に述べた理由でこの対話篇の2人もそのことには同意すると思います。ですが、おそらく口汚い方の立場としては、認めるのはお互いに存在して世間に公表されるということまでで、一度世間に公表されたからにはお互いに批判することも必要になってくる、ということになるでしょう。自分や世界と真摯に向き合うならそういう姿勢が当然出てくるはずですし、そうでないと文芸は意味ある形で展開していくこともないのではないか、と。逆に言えば、口汚い方がなろう(系)小説を嫌って、擁護派にしつこく突っかかる理由は、そういう「考え方は人それぞれだからいいんじゃないの」という話で(彼が思う)文芸の劣化・官能小説化が見逃されることが気に喰わないからでしょうね。
蛇足かもしれませんが、僕個人としては、たしかになろう(系)小説の一部の流行は早く終わってほしいと思っていますが、そういう作品がこの世から消え去ってほしいとは思っていないんです。口汚い方が対話篇の最後に「物事は白と黒ばかりじゃない。いくら白く見えることでも、あるいは黒く見えることでも、実は白あるいは黒に近いだけの灰色なんじゃないかと、人間は疑い続けないといけない」と述べていますが、まさに、口汚い方が全面的に正しいわけではなく極端な考えを振りかざしているのと同様に、擁護派の考え方も万能なわけではなく、なろう(系)小説には評価に値する点もあれば批判されるべき点もあるということを、我々はきちんと意識しておく必要があると思うのです。完璧で非の打ち所がない文芸作品なんてこの世には存在しないかもしれませんが、その問題点を意識しながら向き合うのと、全く見ないことに決めて向き合うのとでは雲泥の差があるわけで、その意味で我々は単なるオ〇ニーアイテムにしがみつくような真似をしてはいけないように思います。それは差別や差別意識の肯定につながり、同じ時代あるいは未来の誰かを苦しめることになるかもしれませんから。
以上の文章が、頂いたコメントへのお返事として、せめて体裁だけでも整ったものになっていれば幸いです。
なろう(系)小説についての僕の考えは、エッセイ『カクヨムを始めました。』の「テンプレ小説談義」や『隙あらば自分語り』にも書いていますので、もし気が向いたらご一読くださると嬉しいです。とはいえ、この返信もそうですが、僕はどうにも話し始めると長くなってしまうので、無理に読んでもらう必要はありません。
それから、この対話篇に対するコメントを作品として投稿してくださったんですね、ありがとうございます。コメントを書くのに45分もかけていただいたとのことで、大変光栄に思います。
ただ、厚かましいお願いをもしお許しいただけるなら、せっかくですので、一盃口さんのページにこの対話篇のリンクを貼っていただけないかと思っています。
一盃口さんの投稿を見た読者の方々にこの対話篇のことを知ってほしいという気持ちがあるのもそうですが、時間が経って、もし一盃口さんがこの対話篇のタイトルをお忘れになったとしても、リンクがあればどういう流れでその話が出てきたのか振り返ることができるはずです。僕もなるべくなら自分の文章が誰かの記憶に残ってほしいと思っているので、ご検討いただけますと幸いです。
長文失礼しました。
『俺はこんなに悩んでいるんだ! 苦しんでいるんだ!』
『なら、キミに最適なバーチャルとドラッグを与えよう』
……「苦悩するための文学」と「苦悩から目を逸らすための文芸」の関係は、おおよそこんなところでしょうか。無論、前者にも個人的な表出に甘んじる作品はゴロゴロあるわけですし、「苦悩する自分」という価値観やアイデンティティにしがみつくケースも枚挙に暇がありません。自己都合でリアルの世界を読み換える詐欺よりも、自己都合で虚構のセカイに引きこもる営みの方が、まだ良心的とも言えます。
現実に向き合い反社会的になるか、現実に背を向け脱社会的になるか。前者はカルスタ、後者は批判理論に連なる系譜ですが、共にアンチ近代の思考でもあります。本作がメタ的に題材とした表出合戦を議論に成長させるためには、両者が同じ原点に──灰色の領域に回帰する必要があるでしょう。
現存する世界最古級の小説『サテュリコン』(古代ローマ、紀元後1世紀成立)の一節「トリマルキオの饗宴」は、「奴隷の成り上がり」というWeb小説さながらの題材で、上流の虚飾と底辺の卑しさを同時に皮肉る作品。
思い返せば、ギリシア神話の英雄たちも、旧約・新約聖書の預言者たちも、源氏物語の光源氏も「苦悩するチート」を以て「世界の理」や「世の無常」を示した作品たち。
世界が映った内面ではなく、内面に映る世界を書く。
世界に対する苦悩ではなく、苦悩を貫く世界を読む。
表出を表現に、情報を体験に昇華させるファクターは、かような態度によってのみ駆動すると言えましょう。
作者からの返信
コメントを下さり、ありがとうございます。
興味深く読ませていただきました。
本作でなろう小説に批判的な立場のキャラは、「ボク自身の価値観やアイデンティティのあり方を揺るがすような作品」のことを「苦悩するための文学」と言って評価しているわけですが、この場合の「苦悩」は書き手より読者の立場での苦悩を想定しています。
たとえば、
「自分が当たり前だと思ってきたことは本当に正しいのだろうか」
「差別はいけないと言いつつ、自分だって無意識のうちに散々差別に加担してきたのではないか」
「○○の問題でこんなにも苦しんでいる人がいるのにそんなこと考えもしなかったなんて、自分は物事の本質から目を背ける生き方をしているのではないか」
「自分の人生は、倫理観は、本当にこれでいいんだろうか」
といったことを考えさせるような文芸について、それが苦悩をもたらすことを認めつつ、そういう路線を追求する作品こそ自分が求める文学なんだ(それに比べてなろう小説ときたら……)というのがこのキャラクターの立場です。
自分で「過激な言い方をすれば」と言っていますが、これは実際に過激な思想です。世の中の文芸が「苦悩するための文学」と「苦悩から目を逸らすための文芸」の2種類に分けられるなんてことは、実際のところありません。どういう姿勢で文芸と向き合うかにもよりますが、知らなかったことを知ったり、今まで知っているつもりだったことを新たな視点で見つめ直したりすることを「楽しい」と思う人も当然いらっしゃるわけですから、価値観やアイデンティティが揺さぶられることについて「苦悩」というネガティブな表現を用いる必要は、本来ありません。それでもこのキャラクターが「苦悩するための文学」こそが文芸の存在意義だとまで言い切るのは、「苦悩から目を逸らすための文芸」であるなろう小説の対比を際立たせ、なろう小説擁護派の方のキャラクターに「そんな自堕落な精神に基づくものは文芸と呼ぶに値しない」と主張するためです。
七海さんが指摘するように、「苦悩するための文学(読者を苦悩させるための文学)」を装っておきながら、書き手が「俺はこんなに悩んでいるんだ! 苦しんでいるんだ!」と訴えることが優先され、視点が偏った「個人的な表出に甘んじる作品」もあることでしょう。社会や差別問題への問いかけを抜きにすれば、「『苦悩する自分』という価値観やアイデンティティに」にしがみつき、「高尚な悩み」を抱える自分に陶酔しているような作品もあるかもしれません。ただ、「苦悩するための文学」を求めるこのキャラクターは、「その可能性も頭に入れて考えながら作品を読み解いていくこと」を楽しもうとしており、だからこそ最後に「物事は白と黒ばかりじゃない」ことを考えてほしいと述べるのではないかと思います。この場合、このキャラクターが示している立場は、七海さんのおっしゃる「自己都合でリアルの世界を読み換える詐欺」に対して(完全に克服できるかはさておき)最後まで抗おうとするもののようにも思えるのですが、いかがでしょうか。
本作に登場する2人が「共にアンチ近代の思考」を持っていることは、まさに七海さんのおっしゃるとおりだと思います。2人はおそらく近代云々を意識していませんし、そこに話を絞るつもりもないと思いますが、少なくとも、文芸ではない現実世界に対してネガティブな感情を持っている点では共通しています。本作の口汚い方が問題にしているのはそこから逃げようとするか、立ち向かおうとするかで、口汚い方としては後者一択なわけですが、なろう小説を擁護する方のキャラは「人間そればっかりってわけにはいかないんだから、息抜きの場としてなろう小説があってもいいじゃないか」と思っていることでしょう。
本編でもそうなのですが、根本的な立場が違う上に両極端なこの2人は、七海さんがおっしゃるように、自分たちが言いたいことを言い合っているだけで、相手の土俵に立つことを拒否し続けているので、議論を噛み合わせることができないままでいます。
僕個人としては、世間一般のなろう系作品を擁護する立場も否定する立場も、実は本作の2人のように相手の土俵に立つことを拒否し続けており、だからこそなろう系作品の台頭が止まらない一方でバッシングも激しくなっているのではないかと思います。加えて、本作の内容から離れた話かもしれませんが、率直に申しますと、この両者は本当の意味で議論(価値観のすり合わせ)を求めているのかという点にも疑問が残ります。どちらの立場も最初から相手と議論をするつもりなどなく、七海さんの言葉を借りれば「表出合戦」の次元に留まることに満足しているのではないかという気がするわけです。大胆に単純化して言えば、近年のなろう系作品界隈は、PVと印税が稼げればオ〇ニー用のゴミを生産しても構わないという立場と、誰が見てもゴミだと明らかなものを叩いて作者やファンを見下しマウントをとって気持ち良くなっている立場との「表出合戦」に陥っているのかもしれません。自分で言っておいてなんですが、そうだとしたらなかなか憂鬱な話です。
文芸の存在意義や、文芸はかくあるべしという考え方については、月並みな言い方にはなりますが、人がそれぞれに見出すべきものであって、その意味では本作の2人のような両極端な立場に縛られる必要はありません。
ただ、やはり重要なのは真面目さと言いますか真摯さと言いますか、書くにせよ読むにせよ、また、作品がエンタメであるにせよ文学であるにせよ、本気で書く、あるいは誠実に向き合って読むという「態度」があってほしいと思います。なろう(系)小説を書く皆さんには(僕もその端くれなわけですが)、他の書き手や読者たちのそういう態度に恥じない作品を書くよう心掛けてほしいですね。
森緒 源です。
大変興味深く拝読しました。
私は、たぶん自分の年齢のせいでもあると思うんだけど、異世界転生とか魔法だとかの話が全くダメなんですよ。
読む気にならないんですね。
正直、私の心中をまるで代弁してくれたような、胸のすくような会話劇でしたね。
いや~、面白い。
文章作品にはやはり作者の世界観や倫理観がうかがえるところ (いわゆるセンスというやつ) が面白いと思いますね。
逆に言えばそれが伺えないものは、作品としてつまらないし、技術的に問題を感じるものが多い気がします。
私としてはそんなことを意識して作品を書いているつもりなんだけど、異世界転生ものの方が世間一般的に面白いのかなぁ…?
まぁ私は私なりに好きにやりますよ。
では。
作者からの返信
コメントを下さり、ありがとうございます。
異世界転生や魔法が出てくる物語は、日本の一般常識に照らして考えると非現実を極めたようなジャンルなので、慣れないと幼稚に見えるというか、世間一般の常識的な大人たちは「そんなもの」について熱く語ったり自分で書いたりしようとは考えないんじゃないかという気がします。
ただ、僕としては、魔法や超能力が登場するファンタジー作品のすべてが幼稚な空想だとは思っていません。たとえば、アニメ化もされたマンガ『モブサイコ100』は超能力者が登場する作品ですが、この作品における超能力は物理的暴力(ケンカの強さ)のメタファーや特別な才能の象徴のような描かれ方をしています。主人公は念動力や除霊などの超能力を使えますが、だからといって好きな女の子に意識してもらえる訳ではありませんし、コミュ障な性格を改善できる訳でもありません。他の超能力者たちも「超能力を使える自分は特別な存在だ」とか「超能力者で結託して世界征服しよう」とか考えますが、精神的に未熟なことを主人公やその仲間たちに見抜かれてしまいます。この作品では、「持って生まれた才能がいくら優れていても、苦手を克服しようと努力したり、思い通りにならない他者に向き合ったりすることから逃げていては、孤独や劣等感などの精神的な脆さを抱え続けることになる(=人は他者との関りなしには自分の人生や生活を肯定できない)」ということが克明に描き出されています。魔法や超能力を創作物の中でこういうふうに落とし込むのは上手いと思います。
翻って、なろう(系)小説の場合だと、異世界転生も魔法も、単に現実逃避の手段に使われていることが多いように感じられます。「現実では無力だったけど転生した異世界では最強」、「(人間的な成長はしないけど)最強の魔法が使えるから、周りの人たちから尊敬されて、美少女たちにはモテモテ」、そんな麻薬のような物語に対する違和感と嫌悪感が、本作『なろう(系)小説談義:対話篇』という形になりました。書き手や読者を傷つけかねない下品で乱暴な言葉遣いはしたくないという気持ちもある一方、冷静に理路整然と苦言を呈するだけでは満足できない自分もいて、さらに別のところには「他人の趣味や嗜好に安易に口出しすべきではない」という思いもあり、投稿を躊躇していましたが、結局、投稿せずに一人で悶々としているよりは他の皆さんの意見を頂戴する機会を得た方が良いだろうという結論になりました。こうしてコメントを頂けて、本当に嬉しいです。
異世界転生ものが世間の一般的な日本人に受容されつつあるのか僕には分かりませんが、少なくともヲタク界隈ではそれなりの勢力ではあるのだと思います。本がそれなりに売れるのでなければ、出版社がそういう系統を書籍化し続けることはないでしょうから。ただ、ここだけの話ですが、仮に現実逃避的な作品を書籍化まで持っていったところで、それは「作家」や「小説家」だと胸を張って言える状態なのかな、と言う気がしないでもないです。
その意味では、異世界転生ものや追放(ざまぁ)ものといった流行のことは一旦脇に置いて、自分が良いと思う作品を書き、読者たちの意見を得ながら技術を向上させて、仮にどうしても書籍化を目指したいなら作品を出版社に持ち込んだり文芸誌に応募したりする方が、よほど前向きだと思います。自分で小説を書こうという人の大半は、信念や美学を捨てて粗悪なオ〇ニーアイテムを書くくらいなら、仮に読まれなくても自分が良いと思える作品を書くと思うくらいのプライドを持っている、と僕は信じています。
長文失礼しました。
編集済
こんにちは。
僕は、「純文学」と「なろう系」の差はジャンルの差でしかない、と認識しています。
たとえば言葉尻を局所的に切り抜いてみるにしても、好意を示す表現としては「月が綺麗ですね」が有名です。
けど、これはあまりに抽象度が高すぎて、正直これが現実で通用することがあるとは思えません。
具体的に直截的に「好きです」と言ったほうが、いい結果が得られるでしょう。
ただし、文芸としては大変面白いですし、否定されるべきものでもないでしょう。
問題は、「純文学」で多用される「ある表現自体では語っていない別の何かを意味させる」という表現技法が、実はそれほど認知されていないのでは、というところです。
表現個々でなく、作品全体を通じてものを言わせている場合でも同じです。
身も蓋もない話をすれば、記述をそのままなぞるだけの捉え方をして、読み終えた全体としてどうかという総括を、あまりしない傾向にある人が大勢います。
実際の例として、「悪者という意味のレッテル」をタイトルに冠した作品で、「悪者と勘違いされた場の流れで、自分は詐欺師だとハッタリかました善良市民の主人公が、その最期で本当の悪者への反抗のために一世一代の大詐欺を働く」という内容にもかかわらず、主人公が本物の悪者でなければタイトルに反するのでは、などという感想が寄せられていました。
「なろう系」では書き手側も、つまり「小説」とはそういうもの、「書き手が思った通りに事象を書き並べた作り話」と考えて、あるいはそういう考えの読者を迎合して、今ある形の文章を紡いでいるのかもしれません。
ただし、それが勘違いかというとそうでもなくて、ただ事象を並べ立てた創話を「物語」と言います。
この「物語」とは、「説」のひとつです。
ちなみに「私人による説」を「小説」、「公人や著名人による説」を「大説」と呼びます。
一方で「純文学」も、「物語という形式を借りた思想論」ないし「高度に抽象化した表現技法論」というひとつの「論文」であって、やっぱり「説」のひとつです。
結局「純文学」も「なろう系」も「説のなかのいちジャンル」なんですね。
というわけで、この手の論争はどちらかと言えば「純文学」寄りの人が、その狭い一分野での話を勝手に「小説」というくくりに汎化させてしまって、無用に喧嘩を吹っ掛けてるだけなんじゃないかなあ、と思います。
その「小説」って言葉はどういう意味で使ってるんですか、みたいな。
それと、「議論」は結論を得てよりよい選択をするためにするものなので、自分だけでなく相手の立場も部外者の視点も含めた、あらゆる観点に立てないと成り立ちません。
論によって相手をやっつける「討論」とは、別物です。
「自分の考えに合わないから駄目だ」と言いつける行為は、大抵の場合ただの放火で、そこから何も生み出されないだけでなく、品格もだだ下がりなので、やめておいたほうがいいかなと思います(あ、文中の論者のような人に対する意見です)。
ただ、いずれにしてもこの投稿自体は、書き手に対して物を書くということについて、読み手に対して物を読むということについて、深く考えさせる、いいきっかけになるのではないかと思います。
作者からの返信
コメントを下さり、ありがとうございます。
まさにおっしゃる通りです。
本作は「なろう系作品が好きな人間と嫌いな人間が議論をしたらどんな具合になるだろうか」というシミュレーションなわけですが、それと同時に、「(本作内でも現実でも)両者の議論は噛み合っていないのではないか」と示唆することも狙っています。両者の立場が(こう言って構わないなら)「思想」的に中途半端だと対話が持続せず、議論も深まらないので、作者の権能を振りかざして極端なことを言わせていますが、現実に生きる我々がどちらかの意見に100%共感することはないと思います。
口汚い方がなろう(系)小説の対比としてパレスチナ文学やアフリカ文学を取り上げているのは、なろう系作品に対する批判は突き詰めるとそっちの方向に行かざるを得ないのではないかという思いがあるからです。なろう系作品は様々な批判を浴びており、それはたとえば設定や台詞の整合性、主人公の人間性、ヒロインの描き方、作品内の出来事の因果関係(流れ)、伏線の張り方と回収の仕方、登場人物たちの感情の揺れ動きと関係性の変化(ドラマ性)、作品全体のテーマなどがあります。なろう系を「叩く」人たち(ある意味では僕もその一人ですが)はそれらの問題点が解消されることを願っているわけですが、そうやって完成度の高い文芸、深く考えながら読む読者の期待に応える文芸を追求していくとなると、いわゆるエンタメ小説や大衆文学を通り越して、純文学的な方面に行かざるを得ないように思います。ただ、たてごとさんが指摘してくださったように、何をもって「純文学」だの「真の芸術」だのとするかは、分厚い専門書を何冊も読んだところで万人を納得させられる答えなんて出るものではありません。それに、ある意味で芸術とはそういう固定観念を破っていく営みでしょうから、「純文学とは○○のようにあるべきであって、××なんて……」という、本作の口汚い方が振りかざしている論法はやっぱり独りよがりでしかありません。言い換えると、なろう系作品の批判というのは、「エンタメや文学はかくあるべし」と言って「高い」理想を掲げることで、エンタメや純文学などの懐の広さを自ら狭めているわけで、「お前なんかがエンタメや純文学を知った気になるな」とか「実際になろう系作品は売れているんだからわざわざムキになって批判する方がおかしい」と言われてしまえばそれまでなんですね。
ただ、これもたてごとさんが読み取ってくださった通りですが、それでもなお、僕が本作をカクヨムに投稿したのは、極端な2人の対話を通してカクヨム・ユーザーの皆さんに何かを感じ取ってほしかったからです。なろう系を批判する立場の方々には「その批判は結局自分の価値観を相手に押し付けるような側面が残るんだよ」ということを覚えておいてもらいたいですし、これからなろう系と言われる系統の作品を書こうという方々には「ただなろう系の流行を追えばいいという話ではなくて、こういう批判を浴びることも想定しないといけない」という意識を持ってもらいたいと思っています。フィクションでしかない物語をわざわざ自分の手で書くという営みは、やっぱりそういう、自分自身について立ち止まって考えるような意識が(ないと成立しないとは言いませんが)あった方が良いんじゃないかと、僕なんか思ってしまいますね。
それに、文芸や創作活動には、文字にすると過激にはなりますが、「自分の考えに合わないからこれはダメだ」という意味合いがどうしても付きまとうような気もしています。ブルデューがどうのだのと難しいことは言えませんが、何かを評価するからには、「この水準に達していない○○はダメだ」とか「他の創作者たちもこういう水準を目指すべきだ(今のままじゃダメだ)」といったニュアンスが付きまとってくるでしょうし、そういう問題意識がないと文芸や創作活動は過去の作品を模倣するだけになって停滞するのではないか、と。もちろん、特定の誰かの価値観や趣味が権威を持つとか、そういった問題意識の正当性が多数決で決まるということはない(決まるべきでもない)ので、人がそれぞれに思うというか、執筆する側の人がそういう議論を踏まえた上で物を書ければそれで良いというだけの話ではあるのですが、その意味では、そういう意味での「否定」や「批判」の意識は将来的に何かを生み出すのではないかと……いえ、何でもないです。どういった「高い」志があったとしても、マナー違反や誹謗中傷を許していい理由にはなりませんね。仮に激しく憤ったとしても、感情に任せて突っ走らない品位が、おっしゃる通り大切だと思います。