21回目の卒業式

藤光

21回目の卒業式

 きょうはわたしが勤務する高校の卒業式だった。

 2000年に教員採用されたわたしにとって、21回目の卒業式である。さきほどまで、卒業生たちが学校や同級生たちとの別れを惜しむ様子があちこちで見られたのもようやく落ち着き、職員室には赤みを帯びた日の光が差し込みはじめていた。

 さいごの卒業式だった。


 校長に辞表を提出した。


「どうしたんですか、先生」


 引継ぎ書類が山と積まれた机と格闘していた校長は目を丸くした。急にこんなことになって迷惑な教員だと思う。校長には申し訳ないことをしたと感じているし、そのことについては謝りたい。いや、じっさい何度も頭を下げたのだけれど。


 理由をきかれて困ってしまった。

 向いていないから――としか言いようがない。ただ、そうわかっていながら20年も教員を続けてきたのは、生徒に対しても、同僚に対しても、なんだかとても悪いことのように思われ、校長にそう告げることはできなかった。


 とりあえずこれは預かります――。校長にそう言ってもらってほっとした。肩の荷を下ろしたとでも表現すればいいだろうか。わたしはじぶんの机を整理しようと、影が濃くなりはじめた廊下を職員室へ戻ってきたのだった。


 職員室に人影はなかった。この時間にしては珍しいけれど、きょうは卒業式だ。同僚は皆、早じまいしたのかもしれない。


 そう思っていたら、視界の隅で人影が動いた。


「やあ、先生も遅いですね」


 同僚の椎木しいのきだった。半ば白くなった短髪を掻きながら微笑んでいる。この春、定年を迎える椎木は、わたしと同じでじぶんの机を整理していたようだ。もっとも、定年まで勤め上げた彼とちがい、わたしは途中退職しようとしているのだけれど。


 わたしは椎木のことをよく知らない。おおぜいいる学校の教員の中で、まったく目立つことのない人だ。生徒からも、ほかの同僚からも、積極的な評判を聞いたことがない。平凡な人だった。


 わたしは生返事をして、じぶんの机の整理をはじめた。じつは彼のことは苦手である。平凡を絵に描いたような椎木を見ていると、じぶんの似姿のように思われて嫌になるのだ。彼だけに限らない、同じように目立たない同僚を見ていると、いたたまれなくなってくることがある。平凡な彼らのなかに、やはり平凡なじぶんをみつけてイライラしてしまうのだ。


「先生が辞めようとしてるんじゃないかって、噂があってね――」


 そう話しかけられてびっくりしてしまった。椎木とわたしは、プライベートにまで立ち入った話をするような間柄ではなかったからだ。途端、わたしはとても怖い目で彼を見てしまったかもしれない。


「こんな差し出口がぼくの柄じゃないのはわかってるんだけど。ぼくもほら、きょうが卒業式だし、心残りは作りたくないからね」


 椎木の机の上には大きな花束が置かれている。退職者への送別会もないコロナのご時世、おざなりに用意された花束だ。わたしは、にらんでしまった次の瞬間には、とても彼に悪いことをしてしまったのじゃないかという後悔に襲われた。


「ぼくもね、先生と同じ位の歳で一度辞めようとしたことがあるんですよ」


 彼は構わず話し出した。


☆☆☆


 ぼくが冴えないのは、むかしもいまと同じでね。

 同僚からは素っ気なくされるし、生徒たちからの人気もなかった。同い年の教員は次々と管理職へ出世してり、教育委員会へ転任したり、生き生きしてるように見えました。

 ぼくの場合、若い頃にはそれなりにあった教育への情熱もだんだんと冷えていって、惰性に置き換えられていく――そんな感じ、先生にも思い当たるんじゃないですか。


 当時、同僚に同じ歴史を教えている教員がいましてね、その彼はちがうわけ。歴史の研究に情熱があって、教職の傍ら論文を発表したり本を書いたり、年々評価を高めていた。生徒からも尊敬されていて、正直「羨ましいな」と思いましたよ。


 同時にそう考えてしまうじぶんが情けなくってね。


 ほかの同僚や生徒たちから「あいつはだめな教師だ」と嘲笑われているような気がしました。もちろん、ぼくの思い込みなんですけどね。


 そんなぼくが、思い切って辞表を胸ポケットに入れて出勤した朝のこと。つい、「辞めよう思っている」と話してしまったぼくに、彼はこう言ったんだ。


「きみがどう思っているのか知らないが、私を評価してくれる生徒は、ひと握りの優秀な生徒ばかりだ。大多数の生徒は私のことなどどうでもいいと思っているし、私は彼らのことか分からない。私は研究ばかりしてるから――。


「教員なのに、生徒の気持ちが分からないなんて情けない。教育者なら研究は二の次であっていいはずだ。だから、私はきみに辞めてもらいたくない。こう言っちゃなんだが、きみは平凡な教員だ。だけど大部分の生徒も平凡な生徒だろう?」


 失礼なやつだよね。

 でも、彼はいうんだ。平凡で目立つことのない生徒たちにも教員は必要だと。それはじぶんではなく、ぼくのような人であるべきだと。


 その日、ぼくはそのことに腹を立てて、辞表を出さずに帰っちゃったんだけど、ひと晩考えたあとに、その辞表は破って捨ててしまった。


 分かってたんですよ、ぼくも。分かっててだれかにそう背中を押してもらいたかった――ひと晩かけてそれを認めることができたんです。ぼくは冴えない教員なんだ、それがぼくなんだっていうことをね。


 それから、ぼくは平凡な教員として、平凡な生徒たちを理解してあげられればいいなと思ってやってきました。もどかしいやり方だし、ほんとに理解してあげられたのか分からないが、それ以来、ぼくが教員を辞めようと思ったことがないのは確かだね。


☆☆☆


 話が終わる頃には傾いていた夕日が落ち、職員室は暗い色調に染まりはじめていた。


「すみません、話しすぎてしまって。そんなつもりじゃなかったんだけど」


 頭を掻いて椎木は、恥ずかしそうに俯いた。

 普段聞かされたのなら、きっと、なんとも感じない思い出話のはずだった。でも、きょうのわたしは、じぶんでも驚くほど心を動かされてしまって、机の整理を再開した椎木から目が離せなくなってしまった。腰をかがめた白髪頭が、机の向こうに見え隠れしている。


「……辞表を出してしまいました」

「え」


 机の向こうから椎木が顔を見せた。


「辞めたくありません……。どうしたらいいんでしょう」


 わたしはこらえられずそう言っていた。

 辞めたいわけではなかった。これ以上、平凡なじぶんのことを嫌いになりたくないだけだったのだ。だからもし、平凡なじぶんのことを好きになれることができるのなら……。辞めたくはない。椎木がわたしのそばにやってきて、肩を遠慮気味にぽんぽんと叩いた。


「さっきぼくが話した失礼な同僚。優秀な彼は、あの後、どんどん出世していってね。このあと、彼とぼくとで二人だけの卒業式をする予定なんだ」


 椎木は、茶目っ気たっぷりに手でお酒を注ぐしぐさをしてみせた。


「机の整理をしなければならないからね。まだ校長室にいるよ。彼なら、『あなたが卒業するのはまだ早い』といってくれるはずさ」


 わたしは「あっ」と小さな声を上げて校長室へ駆け出していた。愉快そうな椎木の声が職員室から追ってきた。


 「辞表は取り返してくるんですよ」

 「あ、ありがとうございました」


 校長には謝らなければならない。

 ご迷惑をおかけしました。平凡なわたしには気づけませんでした、平凡なわたしを見ていてくれてありがとうございましたと。そして言おう、わたしに教員を続けさせてくださいと。


 22回目の入学式を、新たな気持ちで迎えさせてくださいと。

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21回目の卒業式 藤光 @gigan_280614

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