五線譜に綴るラブレター

 ポツンと佇み、緑に囲まれている一軒家。その家からはよく、ピアノの音色が聴こえていた。

 その音色はとても優しく、ただ何だかいつも寂しそうだった。


 ピアノの旋律は二階の部屋から奏でられていた。その部屋には窓が一つあり、視界を遮るように大きな木が植えられていた。

 この大きな木からはよく、がさがさと葉が揺れる音がした。ちなみに風は吹いていない。


佐伯さえきさん……またですか」


「あ、バレた」


 えへへ、と照れ臭そうに葉を掻き分け、一人の女性が顔を覗かせた。

 小さな体で、木の上であることも感じさせないような身軽な動きを見せる。


 完全に姿が露わになった彼女は、彼のいる窓際まで近づいた。


香坂こうさかくん、また弾いて!」


「また、ですか」


「うん、お願い!」


「しょうがないですね……」


 不満を口にしながらも、彼はピアノが置かれている場所へと足を向ける。

 広い部屋の中に、それ専用の部屋だとでも言うように一台だけ置かれているピアノは、すでに鍵盤蓋は開いていて、譜面台には楽譜も置かれていた。


 彼はその楽譜に見向きもせず、椅子に腰掛ける。それに合わせて、彼女もへと腰を下ろした。


 鍵盤に指を置き、深呼吸をする。

 その少しの緊張感から、彼の横顔が纏う空気が変わる。


 細くて長い指が鍵盤を押し、音色を奏で始める。叙情的な雰囲気を伴って始まった曲は、すぐに一音一音が静かなメロディへと変わって鼓膜を揺らす。

 曲が始まってすぐ、彼が奏でるメロディだけを取り入れるように、彼女は目を閉じた。


 曲は4分ほどで終わる。

 半分を超えたところで、人が変わったかのように、あの細い指が力強いメロディを奏でる。そうかと思えば、再び優しさを帯びた音色に変わる。

 そして、最後の1分。この1分はまるで音色に包みこれているような錯覚に陥る。優しく、そして温かいものに守られているような、そんな気持ちを与えて終息する。

 その余韻に浸りたい気持ちを抑えつつ、彼女はゆっくりと目を開けた。


「やっぱり香坂くんが弾いてくれるこの曲、すごく好きだなぁ」


 椅子に座ったまま、上半身だけを彼女の方へと向けようとしていた彼に、食い気味に言葉を紡ぐ。


「前にね、同じ曲をどこかで聴いたんだけど。何か違ってて……って言っても、私素人だし、全く専門的なことはわかんないんだけど。香坂くんが弾いてくれるこの曲が一番好きだなぁって」


「……」


「って、あれ? 私、おかしなこと言ってる?」


 反応がないことを不安に思ったのか、さらに言葉を重ねる。

 彼からすると、間抜けに見える表情に、彼は一つため息をついた。


「無自覚っていうのは厄介ですね」


「?」


 その言葉に彼女は首を傾げた。問い詰めようにも、が邪魔をする。

 窓の内側にいる彼と、その外側の彼女。届きそうで、届かない。

 それが、彼らの距離。



 ***



 天気がいい日は仕事が捗る。

 庭師をしている衣菜えなにとって、天気はいろんな影響を及ぼす。雨よりは晴れている方が作業がやりやすい。もちろん、雨の日であっても————いや、むしろ雨の日の方が、時にはが必要な場合もあるが、それでも新緑がきれいに映える晴れの日の植物が好きだった。

 ちなみに今は、香坂家の専属として働いていた。この広い敷地面積いっぱいに植えられた樹木の維持管理を任されている。


いつき、ここ。ちょっと調子悪いかも?」


 しゃがみ込み、直に土を触りながら、そばにいた樹に声をかけた。

 来て、と言わんばかりに反対の手で手招きをする衣菜を一瞥すると、作業していた道具を丁寧に置き、衣菜の方へと足を向ける。そして、近くまで寄ると、隣に腰を下ろした。

 樹はしゃがむとすぐ、彼女が触れている部分の土を手に取り、指でその感触を確かめる。


「ちょっと酸性に寄ってるみたい」


「確かに。このにはまだ影響出てないみたいだけど、早めに対応しとくか」


「うん。肥料とか変えてみよう」


「そうだな」


 同意をもらえたことに笑顔を浮かべ、立ち上がる。それにつられるように樹も上体を起こすと、衣菜の後を追った。


「そういえば、お前まだ、ここの坊ちゃんのとこ通ってるのか?」


「坊ちゃん? あぁ、香坂くんのこと?」


 樹が頷いたのを確認すると、「通ってるんじゃなくて、ピアノ聴きに行ってるの」と訂正した。

 彼女の中で、そこは明確な違いがあるのだという主張だ。


「いつも同じ曲弾いてもらってるよな」


「聴こえてるの?」


 何を当たり前な、と思いながらも、樹は口には出さずに肥料の選別に入る。

 返事がないことに首を傾げつつ、衣菜もその隣で肥料を漁った。


「あの曲って、確かリストだよな」


「リスト?」


「作曲家の名前。フランツ・リスト。曲名は……」


 樹の手が止まった。そしてそのまま、視線を宙に投げる。

 衣菜はと言うと、樹と同じく視線は定まっていなかった。正直なことを言うと、“リスト” についてピンと来ていないのだった。


「そうだ、思い出した! あれだよ『愛の夢』」


「愛の夢?……というかあれだね。樹がそういうの詳しいなんて知らなかった」


が好きなんだよ」


 その言葉に、衣菜はなるほど納得といった様子で頷く。


「でも、その様子だとお前がリクエストしたってわけでもないのな。有名なのは第三番なのに、いつも弾いてるのは第二だし」


「あの曲はね、前にピアノの音が聴こえてきた時に、素敵な曲だなぁって声をかけたのがきっかけなの」


「声をかけた、ねぇ」


 ピアノが二階の部屋で弾かれていることは、樹も知っていた。

 なので、声をかけるという行為が、どのように行われていたのかについて想像するだけで、ため息が出た。

 しかし、彼女の行動はいつものことなので、怒られない程度にしろよ、と内心思う樹だった。


「課題曲とかなのかね? いや、それとも……」


 独り言のように呟きながら、しかめ面をした樹が衣菜を見下ろす。手元に集中し、違うことに思考を働かせている衣菜は、樹に見られていることにも気づかない。

 樹が自身の考えを一蹴すべく、首を横に振ったタイミングで、自分たちではない物音が二人の耳へと届いた。

 突然のことに肩を震わせる衣菜を一瞥し、樹がまずそのの方へと視線を走らせる。次いで、衣菜が樹を追うように顔を向けると、そこにいた姿に「あ」と声を出した。


「香坂くん!」


「すみません、邪魔するつもりは」


 遠慮がちに紡がれる言葉に、衣菜は首を傾げる。


「ん? 邪魔とかないよ?」


「むしろお邪魔虫は俺かな、と」


 樹が軽口を叩き、手首の外側で衣菜の肩を小突くと、そのまま肥料を担いで先ほどの作業場へと戻って行った。

 先ほどの樹の発言と行動に、あれはどういう意味なのかと顔に書いたままの衣菜が、彼の方へと振り返るが、彼は彼で何やら不機嫌そうに顔を顰めている。


「……仲、いいんですね」


 不機嫌は顔だけでなく、声にまで現れている。

 さすがの衣菜もいつもと様子が違うということまでは気づいているようだが、特に気にすることもなく問いかけに答える。


「樹のこと?」


「……」


「幼なじみなの。樹の奥さんとも仲良しでね」


「え……」


「ん?」


「あ、いえ……」


 そこで彼は口元を手で覆った。その部分を隠すことで、感情の全てを隠してしまいたいとでもいうように。

 彼の思惑通り、衣菜には彼が今考えていることは伝わっていなかった。それは、衣菜が鈍感であることに起因することなのかもしれないが……


「…そういえば、リストは課題曲じゃありませんよ」


「あ、聞こえてた? その課題曲? っていうのはよくわからないんだけど、色々弾いてるんだね」


 呑気な面持ちで「気分転換とか?」と訊ねる衣菜に、手を下ろした彼がまっすぐ彼女に向き合った。


「佐伯さんを想って弾いてたんです」


「? 私?」


「あの部屋で、あなたの姿が目に入って……そしたら、指が勝手に動いていたんです」


 フランツ・リスト作曲 『愛の夢 第二番』

 気づいた時にはもうすでに、メロディを奏でていた。自分の意思と無意識の狭間で、紡がれる音色が、自分の気持ちを表現する。

 自分でも少々安直な伝え方をしているとは感じていた。それでも、この伝え方しか知らない。まっすぐに伝える、自分なりの方法。


 けれど彼女はというと、何やら目を丸くし、やはり首を傾げている。


「それは……何だかすごいねぇ! 勝手に弾けちゃうんだ!」


「え、あの、佐伯さん……?」


「ねぇ、そしたらさ。また聴きに行ってもいい?」


「……はい」


 彼の返事に、衣菜は満面の笑みを浮かべた。

 今まで許可がなくても押しかけていたというのに。

 それでも、改めて本人から許しをもらえたことに、衣菜の表情が輝く。

 そんな彼女の笑顔を見せられると、彼はもう何も言えなくなるのだった。




 ***




「はぁ…一筋縄ではいかないな……」


 部屋に戻り、慣れたようにピアノが置かれているところまで向かうと、椅子に腰掛け、気持ちを落ち着かせるように、右手を鍵盤に乗せた。

 西日が窓から差し込む。彼女はすでに帰路についているだろう。そのことを知らせる温かい光が、今は何だか落ち着く要因の一つとなる。


 指が動く。無意識に奏でるメロディラインは、やはり『愛の夢』————


 ストレートに言っているつもりなのに、こんなに伝わらないものなのか。

 やはり自分には、ピアノコレしかないのだと、改めて思い知らされる。

 それでも、コレがを作ってくれたのだから、きっとまたコレで伝えられるはずだ。


 いつか届くといいな。

 あの日、いつも遠くから見ていた君が目の前に現れて、その近づいた距離に、この曲に込める気持ちが変わったこと。

 いつか君に話せる日が来るといいな。


 その時は、君の隣で————

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それはまるで陽だまりの… 小鳥遊 蒼 @sou532

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