猫は十日

尾八原ジュージ

猫は十日

 メイさんは、ピロートークに亡くなった旦那さんの話をする、僕の大好きな人だ。


 彼女に出会った当時、僕は新卒入社二年目の下っ端で、メイさんは僕の上司だった。話し方が心地よくて、所作がきれいな人だというのが第一印象だった。

 十個年上で美人で仕事のできる彼女は、僕にとっては高嶺の花だった。が、その年の忘年会の帰り、ベロベロに酔っぱらった僕が同乗したタクシーの中でつい「芝崎さんのことが好きなんですよぉぉ」と泣きながら白状し、ドン引きされるかと思ったら耳元で、

「私も星野くんのこと、結構好き」

 と囁かれた。その瞬間、僕はいっぺんに恋のどん底まで落ちた。気が付いたらタクシーはラブホテルの前に停まっていて、それで僕たちはそういうことになった。

 メイさんは三年前に旦那さんと死別していた。

「でも、一番好きなのは旦那なの」

 僕の前で臆面もなくそう宣言しておいてから、ベッドの中で長い髪を裸の肩に流して、彼女は僕に旦那さんのことを語り始めた。

「私と旦那ね、大学の同級生だったの。学科のオリエンテーションで初めて会ったんだけど、そのときに『この人と結婚するだろうな』ってピンと来たの」

「ほんとにそういうこと言う人、初めて見ました」

「だってほんとなんだもの」

 メイさんは裸のまま、延々と旦那さんの話を続ける。おかげで僕の頭の中には会ったこともない男性の姿がどんどんイメージされていった。

 旦那さんは「ケイさん」という。製薬会社の営業マンで、いつもスーツを着て出勤する。週末だけ作ってくれる料理はメイさんのものより美味しい。中華料理が好物といいながら、辛いものは全然ダメ。アクション満載の娯楽映画が好きで、観に行く映画はいわゆるB級映画が多い。

 ふたりの幸せな結婚生活が三年目に差しかかった頃、ケイさんが交通事故に遭った。病院に運び込まれたものの、彼はメイさんの目の前で息を引き取った。とても悲しい出来事だったはずなのに、メイさんはどこか淡々とした様子で、ケイさんの葬儀の話をする。僕はそれを、美しい詩の朗読を鑑賞するように聞いていた。


 その日から、僕とメイさんはほとんど毎週末、どこかのホテルに引きこもるようになった。

 メイさんは僕のアパートに来ようとはしなかったし、僕を自分の家に呼ぼうともしなかった。僕は何しろ恋のどん底に叩き落されていたものだから、たとえ「ケイさん以下」と明言されていたとしても、他の予定をなげうって彼女に会いにいった。

 メイさんが僕らの関係を内緒にしたがったので、僕もそれに倣った。会社では今まで通り上司と部下として振舞い、知り合いに会う危険性の少なそうな場所で落ち合って、ホテル以外の場所には行かなかった。セックスした後に出前をとって食事をし、時にはDVDを持ち込んで、家のものより大きなテレビで映画鑑賞した。


 そうやって週末をメイさんと恋人同士のように過ごしながら、僕はずっとメイさんに捨てられる不安を抱えて怯えていた。僕はあくまで僕であって、ケイさんではない。ケイさんではない以上、いつか用済みになるのではないか。そう思うと胸が苦しくなった。メイさんがすっかり立ち直って、僕の利用価値がなくなることを考えると怖かった。

 その不安がある程度の大きさに達したある夜、僕はラブホテルの大きなベッドの上で、タイルみたいな模様のついた天井を見上げながら「いいのかなぁ」と呟いた。メイさんが「何のこと?」みたいに聞き返してくれることを期待していた。

 思った通り、彼女は枕の上に頬杖をつきながら、「何のこと?」と尋ねてくれた。

「メイさんのことですよ。旦那さんのことがそんなに好きなのに、僕とこんなとこに来たりしてていいんですか」

 僕がずっと用意していた質問をすると、メイさんは朗らかに笑った。

「だって、ケイくんの体はもうなくなっちゃったんだもん」

 体がなかったらこういうことできないでしょ、と言ってメイさんは突然僕に抱きついてきた。いい匂いのする髪が、僕の頬をなでてサラサラと流れた。クールに見えて突然子供みたいな行動をとる彼女が、僕は大好きだった。嬉しくて走り出しそうな気持ちを抑えながら、僕は「そういうものなんですか?」と続けた。

「そうよ。でも、魂はまだその辺にいるけどね」

 メイさんは細い指で、ベッドの横あたりをくるくると指さした。

 僕はつられてそちらを見た。半透明の男性が立って恨めしそうにこちらを見ている……なんてことはなく、作り物の観葉植物の鉢が置かれているだけだった。

「そんなとこにいるんですか? 今も?」

「いるよぉ」

 メイさんは僕の首の付け根に鼻先を押しつけながら「星野くんのこと見てるよ」と囁いた。

 その途端、僕はなんだか背筋がぞっとして、灯りがしっかりと届かない天井の隅の薄暗がりに何かが潜んでいるような気がしてきた。そんな気持ちを知ってか知らずか、彼女はいっそ無邪気なくらいの笑顔になって、

「ねぇ、ちょっと怖いかもしれない話、していい?」

 と僕に尋ねた。

 こんなタイミングでやめてほしいな、と思いつつ、ニヤニヤするメイさんは僕にとっては世界で一番かわいいし、結局そんないたずらっぽいところも好きなのだ。なので僕は「いいですよ」と答えてしまう。

 メイさんはニコッと笑うと、顔を少し傾けたまま話し始めた。

「ケイくんが亡くなった時に、こう、なんとも言えない形のぼんやりしたものが、体からスゥッと出てきてさ。それ以来私の傍をそれがウロウロしてるの。きっとこれはケイくんなんだなぁと思って過ごしてたんだけど」

 わかる? とメイさんは無邪気な顔で僕を見た。正直(なんだそりゃ)と思ったが、僕は黙ってうなずいた。彼女が話しているということ自体にまず価値があるのだから、無粋なツッコミなど不要だ。

 メイさんは安心したように微笑んで、話を続けた。

「ある時、散歩をしてたら公園の植え込みから猫のしっぽが出てるのを見つけたのね。あっ猫がいるなぁと思って見に行ったら、植え込みの陰にこのくらいの白黒ぶちが倒れてて」

 メイさんは枕に肘をついたまま、このくらい、と両手で幅を作る。

「てっきり寝てるのかと思ったら、死んでたの。外傷はなかったけど、車にぶつかったりしたのかなぁ。そしたら私の近くでふわふわしてたケイくんが、スーッとその猫の死体に入っちゃったの。そしたら死んでたはずの猫が急に、フッて頭を上げてね」

 そう言いながら、メイさんはほっそりした体をすっと起こした。間接照明の下で、彼女の姿はどこか人間離れして見えた。

「星野くん、信じてないでしょう」

「そんなことないですよ」

 メイさんはふふっと声に出して笑った。僕は内心を見抜かれたようで気まずくなり、「で、その猫はどうしたんですか?」と尋ねてごまかした。

「十日くらいでケイくんが出てきちゃって、死体に戻っちゃった。猫だからしゃべったりできなかったけど、動かなくなったら寂しかったな」

「ファンタジーですね」

 こういうことを真面目っぽく話すあたり、やっぱりメイさんはかわいいなと思った。

「あっ! やっぱり星野くん、信じてないでしょう」

 メイさんは僕の頬を、軽く叩くような手つきで二回撫でた。

「これ、ケイくんがよくやってくれたの。猫になっても前肢でちゃんと同じことをやってたんだから」

 だからあれはケイくんだったの、と言って、メイさんはいきなり僕の脇腹を抓った。


 メイさんはだんだん、おかしな干渉をしてくるようになった。それは実際ほんのちょっとしたことで、たとえば僕がコーヒーに砂糖を入れるのを嫌がったりするのだ。

「ほら、ブラックで飲んだ方が、コーヒーの味がわかるじゃない? かっこいいし」

 とかなんとか誤魔化すように言って僕の手を抓るのは、やっぱりケイさんのことを考えているせいだとすぐにわかった。惚れた弱みで、僕はメイさんの話す内容をよく覚えていた。コーヒーをブラックで飲むのが好きなのは、僕ではなくてケイさんの特徴だ。彼女は僕に、ケイさんのようにふるまってほしいのだ。

「シャツの腕まくり、似合わないからやめてほしいな」

「アートっぽい映画の話、星野くんがすると何だか変だね」

 自分でもよくないことだと思っているのか、ついそういうことを言ってしまってから、メイさんはちょっと「しまった」という顔をする。僕は、彼女はやっぱり自分を見ていないのだと改めて悟る。やっぱり彼女はケイさんのことばかり考えていて、あわよくば僕が彼だったら、なんて望んでいるに違いないのだ。

 それでも僕はメイさんのことが好きだった。大好きだった。いまだに亡くなった旦那さんの話ばっかりして、僕のことなど眼中にない彼女のことが、その遠さゆえに余計に美しく見えた。彼女の前では僕の自尊心など無価値なものだ。

 僕はいっそケイさんそのものになってしまいたかった。いつだったかメイさんが語った、彼女の周りをふわふわと漂っているぼんやりしたものでもいいと思った。

 そして僕はとうとうやけっぱちになった。


 ある日、僕はメイさんとの待ち合わせに、普段着ない服――無地のワイシャツにチノパンを履いて向かった。シャツはくすんだオレンジみたいな色で、普段だったら絶対に買わないやつだった。癖で袖を捲りたくなるのをこらえて、僕はメイさんを待った。

 メイさんは僕を見て、驚いたような顔をした。「似合います?」と聞くと、一拍置いて「うん、すごくいいね」と答えたが、声には明らかに動揺が含まれていた。その様子を見て手ごたえを感じた僕は、作戦を続けることにした。

 ホテルに入った途端、僕はプレイヤーに持参したアクション映画のDVDを入れ、「一緒に見ません?」とメイさんを誘った。およそ落ち着いたデートとは無縁の、エイリアンとの銃撃戦が始まった。昼食時、僕は出前のメニューから絶対に辛くなさそうな昔ながらの醤油ラーメンを頼み、コーヒーを我慢してブラックで飲んだ。

 メイさんはミネラルウォーターのペットボトルを口元につけた姿勢のまま、僕がコーヒーを飲むのを見ていた。と、突然ぽろぽろと涙をこぼしはじめた。

「えっ、何? どうかしました?」

 それはまったく予期していなかった、ということでもなかったはずなのに、僕はひどく焦ってしまった。メイさんはテーブルにドンと音を立ててペットボトルを置き、近くにあったバッグからハンカチを取り出すと目元を抑えた。

「星野くん、ごめんね」

 メイさんが言った。

「星野くん、ケイちゃんの若い頃にあんまり似てるから……ごめんね」

 泣かれてみて初めて、僕はかえって残酷なことをしたのかもしれない、という実感が湧いてきた。

「すみません、わざとやりました」

「うん」

「差し出がましいかもしれないけど、メイさんがいつかその必要がないと思えるまで、僕をケイさんの代わりにしてくれたらいいと思って」

「うん」

 うなずいて涙を拭くメイさんがいとおしかった。彼女の、一見クールに見えて感情を出すときは子供みたいになるところが、僕は大好きだった。

 メイさんはテーブル越しに僕の手を握って、「ありがとう」と言ってくれた。

「本当にありがとう。すごく嬉しいの。ケイくんも喜んでる」

 そう言いながらちらっと横を見たその先には、もちろん誰もいなかった。

 そのときふと、厭な感じがした。でもその次に彼女が発した言葉で、それはどこかに飛んでいってしまった。

「ねぇ星野くん、私の家に来ない?」

 僕は一も二もなく飛びついた。


 メイさんの家に行くのはもちろん初めてだ。ドキドキしながら訪れたのは小さめの二階建ての一軒家で、一人暮らしにしては広すぎるけれど、結婚したばかりの夫婦が子供ができることを想定して購入したと言われたら、納得しそうな物件だった。

「入って。散らかってるけど」

「いや、すごいきれいになってるじゃないですか」

 そう言いながら僕はつい顔をしかめていた。確かに玄関はすっきりと片付いていたが、臭いのだ。ドアを開けた瞬間から、不快な匂いが僕にまとわりついていた。

「こっちにどうぞ」

 促されて入った先はリビングだった。ベージュと黒で統一された洋室の隅に、大きなゴールデンレトリバーらしき犬が寝ていた。

「メイさん、ペット飼ってたんですね」

 キッチンに立った彼女に声をかけると「違うよ」と返事が返ってきた。

「よく見てごらん、死んでるから」

 ぎょっとして僕は立ちすくんだ。

「猫は十日、死にたての猫は一月、死にたての小型犬も一月。色々試して、死にたての大型犬が一番もったな。半年ももったの」

 横たわった犬の腹は、確かに少しも上下していない。もっとよく見ようと近づいたそのとき、後頭部に衝撃が走った。まともに立っていられず、僕は床に崩れ落ちた。

 うずくまっている僕の顔の前に、メイさんがやってきて座り込んだ。右手に警棒のようなものを持っていた。

「大好きだよケイくん。愛してる。ずっとずっと愛してる。死にたての人間だったらきっと犬より長持ちするよね。愛してるよ。愛してる」

 そう言いながらもう一度警棒を振り上げる。その顔はもういつものメイさんではなく、誰かまったく違う人間のようだった。


 気が付くと、警棒を握っていたのは僕の方だった。

 傍らにはメイさんが倒れていた。頭頂部が割れて血があふれ、豆腐のようなものが漏れ出していた。投げ出された手足が痙攣していた。

 僕がやったのだ。メイさんを攻撃した。自分の命を守るためにせよ、まさか自分が彼女にこんなことができるなんて、このときまで僕は思ってもみなかった。それをやらかしたのだ。殺されかかった恐怖より、彼女を殴った罪悪感より、こうすることでメイさんが僕だけのものになるのだという、どす黒い喜びが胸に立ち込めていた。

「メイさん」

 呼びかけても返事はなかった。ただ、彼女の命が消えかけていることは確かだった。

「メイさん、ごめんなさい。大好きです。メイさん。愛してる。愛してる。愛してる」

 僕は何度も呼びかけた。彼女の唇が小さく動き、何かしゃべったように見えた。

 その直後、ふーっという吐息が漏れると共に、何か陽炎のようなものが彼女の体の上に立ち上った。僕にはそれがメイさんだと、すぐにわかった。

 それからそのぼんやりしたものは、ずっと僕の傍にいて、僕の周りをふわふわしている。




 ねぇ、君。

 もうきっと察しがついていると思う。どうして僕が君を急に殴って拘束したのか、どうしてその上でこんな話を延々と聞かせてきたのか……。

 メイさんは言っていた。猫は十日、死にたての猫は一月、死にたての小型犬も一月、死にたての大型犬が半年。

 死んだばかりの人間なら、きっと大型犬よりはもつだろう。僕にはメイさんの魂を入れる器が、どうしても必要なんだ。僕に抱きついて顔を押しつけてくる、たまに尖った爪で僕を抓る、彼女のための肉体が。

 君と僕とは出会ったばかりだけど、君にはどこかメイさんに似たところがあるから、きっといい線いくと思う。そう、そういう顔が似てるよ。クールに見えて、感情を出すときには子供みたいに素直なところ。大好きだ。メイさん、愛してる。愛してる。大好き。

 それじゃあ。

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