119話 彼女だってわかっている




「さて、行きましょうか。用意はいいですか?」


 車椅子に腰を下ろした彼女が、フットレストの具合を調整している。


「はい。でも、いんですか? 私だけのために……」


「僕にはJD女子大生の彼女がいるんだですから、松本さんの車椅子を押していても何も言われません」


「もぉ……」


 わざと教室の言葉で話してやると、少しすねたように上目遣いに頬を膨らます。そんな表情も昔と変わらず可愛らしい。もちろん花菜も分かっていて周囲に誰もいないからこその反応だ。


「仕方ないだろ。『実は昨日から夫婦になってます』なんて言えないしさ。誰が見てるか分からないから、そこだけは我慢してくれ」


 他の先生達の姿が見えなくなってから、姿勢を変えずに小さい声で弁解する。


「それはそうなんですけどね。わかってます……」


 車椅子を押しながら園内を歩いていく。4月頭の、横浜ではまだ桜が散って、菜の花が咲き始めた頃だ。長崎ではもうチューリップが満開に咲いていた。


「寒くないですか?」


「はい、平気です」


 そんな花一面の庭園に向けて車いすを進めていく。


「先生、なんで私の行きたい方向が分かるんですか?」


「単なる勘です。松本さんならこちらだと思いましたから。違っていたら教えてくださいね」


「そっか……、私って単純なんですよねぇ……」


 そんなことはない。花菜はこのクラスの中でも本当によく気の利く、同時に非常に繊細な心の持ち主だ。


 公私をストイックなくらい分ける子だから、あの母親の葬儀の後や、珠実園に入園したり、前日の夜遅くまで起きていても、それを理由に授業中に寝てしまったりという話は俺の授業時間だけでなく他の先生からも聞いたことがない。


 あの中1の半泣き顔を見せて、一度距離が離れてからどんな経験をしてきたのだろう。


 職員室での情報を整理する限り、確かに高校1年までは2年頭の自己紹介のとおり、目立たないおとなしい生徒という認識だったそうだ。


 ところが、半年前の文化祭で初めて発揮された企画力と行動力は、他の先生たちが羨ましがるほどに変わった。その評価は間違いなく全校を見回してもトップクラスだ。校長だけでなく教頭も彼女のことは一目置いている。


 だから、俺が松本花菜を『みる』という話をしたとき、「彼女なら」ということで納得してくれたんだ。


 なにより、新米教師の俺が持ち上がりで高校3年生を受け持つことに、不思議と誰からも文句は出なかったことがその証拠だ。


 あの文化祭で企画主の松本花菜と教師として自由にバックアップした俺、そして一体感の出ていた2年5組をセットにして見ていた周囲の先生たちから、せっかくの信頼感を壊すのはもったいないと言われるようになっていたからだ。


 裏を返せば、彼女や5組の生徒たちがいなければまだ自分は半人前なのを忘れちゃいけない。彼らがいなくても認められるように自分も成長しなければ。どちらにしてもあと1年で卒業してしまうのだから。


「そんなことはありません。松本さんは僕の自慢の生徒ですよ。今日、こうして二人での行動を許してもらえたのも、松本さんが常日頃から頑張ってくれているのを、他の先生方も知っているからです」


「先生に迷惑をかけていなくてよかったです……。こんな私でも、少しはこの1年で変わることができたでしょうか……」


 車椅子のまま乗船できる船に乗って、運河を回る船から外を見ていながら、彼女は自信なさげにつぶやいた。



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