第16話 貧しい人々

 帰り道を歩いていると、教会が其処此処に見つかる。大抵はカトリック系の教会だが、注意して見ていると、東方正教会の教会が混じっている。或いはまた、飾り気のないプロテスタント系の教会も。

 こう云う処にも移民の街の片鱗が見てとれる。

 日本からも仏教の僧侶が来ているほか、日本では新興宗教と呼ばれる各派も一定の信者を得ているらしい。


 教会の前で施しを受ける人々を見かけるのもお馴染みの様子だ。人の集まる場には必ず貧しい人々、身体に障碍を持つ人々、路上で暮らす人々などがいて、前を通る善男善女からの施しを待っている。



 それとはまた別のグループとして、交差点の信号で止まった車の前で藝を披露する大道藝人も多い。

 見事な藝で楽しませてくれる者も在れば、まだまだ拙い者も在る。サッカーボール、それよりやや小ぶりのボール、刀剣、その他諸々を宙に投げてジャグリングしたり傘の上で回転させたり、わざと失敗して見せて笑わせたり。

 信号が変わる直前に藝を切り上げて、車列を廻る。ドライバーが気に入ればお金をれる仕組みだ。



 或いは、ガムやスナックの類を売って廻る者。赤信号で止まった車のサイドミラーにお菓子を引っ掛けておくと、気に入ったドライバーはそれを車中に取り込み、後で戻ってきた売人にお金を渡す。気に入らなければ放って置けばよい。やはり戻ってきた売人がお菓子を回収していく。


 たいして欲しくもないお菓子を売りつける訳だが、悪くはない仕組みだと、クリスティナさんは言った。

 一歩の違いで物乞いの悲哀を免れているのだ、と。売る側には労働意識が芽生え、買う側は押しつけがましさなしにお金を渡せ、製菓屋は黙っていれば発生しなかったであろう消費が世に発生し、三者がそれぞれ益を得る。

 同じことは歩行者を相手にも行われている。こちらは総じて子連れか、障碍を持つ者や老人等々、車道に出るには体力が許さない者たちだ。



 夜、夕食のため再び外に出たところでまさにそんな子連れの路上販売者に行き逢った。推定母子の三人連れだ。

 年齢不詳のご婦人は、路上で胸を出して赤児に乳を含ませていた。赤児とは云ったものの、その実もううに乳離れをしてもい年頃と見受ける。だが演出としては効果的だろう。その隣にはもう少し育った男児が立っている。彼に二ヘアイス札を渡して小さな飴を受け取った。

 彼らが本当の家族なのか、商売の演出の為にその辺から借りて来た子供たちなのかは判らないし、知る必要もない。


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