20000日目の太陽

清水らくは

20000日目の太陽

「俺が行くよ」

 理事の加賀八段は、スーツを整えながら立ち上がった。

「いやでも……」

 坂原三段は不安げな顔でそれを見つめていたが、加賀はにこりとほほ笑んだ。

「君は仮眠しておくんだ。俺が倒れたら、もう君しかいない」

「……はい」

 実際には、すでに一度仮眠はとっていた。起きてもまだ、対局が続いていたのである。

「さあて、18局目か」

 加賀は、阿波踊りのように手をひらひらと舞わせながら部屋を出ていった。



 朝四時、世永三冠対笹田七段の二人は駒を並べていた。

 蒼雷戦予選の一局。早指し棋戦で、持ち時間は40分である。普通ならば、昼過ぎには終わる。

 それが、日付を越えて、まだ続いている。異常中の異常だった。

 坂原は、もともとこの対局の記録係だった。しかし、4千日手を迎えたところで加賀の判断により記録係を交代させられた。午後二時を過ぎたころだった。

 将棋の対局自体は、深夜にまで及ぶことはしばしばである。最初からそういう予定ならば、記録係も覚悟のうえで何とか乗り切ることもできるだろう。しかし、昼頃終わる予定だった対局が、二時を越えても続いているとなれば集中力を保つのは難しい。加賀の判断は、坂原にとってもありがたかった。

 そして、千日手はさらに繰り返された。かつてない異常事態に、連盟もネットもざわつき始める。元々千日手の多い二人だったが、さすがに6回を越えると「面白がってやっているのではないか」と言われ始めた。しかし対局をする二人の表情は真剣そのものだった。

 延々と秒読みが続いている。他の対局の記録係を終えた奨励会員たちが、交代できるように待機することになった。しかし夜八時、9千日手を迎えたところで坂原以外は帰宅することになった。未成年だったからである。

 夜1時。本川五段が記録係を務めることになった。たまたま勉強に来ていた若手棋士である。16局目から18局目まで記録を取ったが、声はかすれ、目が充血していた。

 中断、延期という選択肢も勿論考えられた。その判断のために加賀も残っていたのである。しかし、対局者の二人の顔を見ると、どうしてもその決断ができなかった。二人はどうやら、真剣に指して、千日手を繰り返しているのである。棋譜はどれも素晴らしいもので、わざと千日手にするためのものには見えなかった。

 とことん見続けてやる。そのためには記録係だってやる。加賀は、そう覚悟したのである。



「いやあ、本当に終わらなかった」

 控室に戻ってきた本川は、笑いながらため息をついた。

「お疲れ様です」

「疲れるね。いい将棋だけにどっと疲れる」

「最新形でしたね」

「どうなってんだろうね。17局全部、違う形で。しかも研究の跡が見られる」

「……加賀さんと話してたんでけど、21局までやるんじゃないかって」

「まじで? というか、逆に終わりがあるの?」

「21番勝負、やり直してるんだと思うんです」

 坂原の言葉に、本川は両手を横に広げた。

「今日だけで?」

「今日だけで、です。……まあ、二日かかってますけど」

「天才の考えることはわからんね」

 そう言うと本川は、机に突っ伏した。

「22局目があったらもう一度記録係するわ」



 二年前、世永は当時も三冠だったが、そのうちの二つに挑戦が決まっていたのが笹田だった。さらに順位戦でも全勝、名人挑戦も見えていた。同世代の棋士による21番勝負が実現するのではないか、と盛り上がったのである。

 しかし、突如笹田は欠場を発表した。病気により長期入院を余儀なくされたのである。二人のタイトル戦は消滅した。

 世永は、今日まで一つもタイトルを失わなかった。そして復帰した笹田も徐々に調子を上げ、蒼雷戦で勝ち上がってきた。

 再び、ライバルのストーリーが幕を開けるかと注目の一局だったが、一局で終わることはなかった。

 坂原は何度か、世永の対局で棋譜を取っている。研究が行き届いているのが分かる、繊細な指しまわしが特徴的だった。ただこの一年半、タイトル戦以外では少し雑なところも感じていた。時間を余して負けたり、終盤うっかりから逆転負けすることもあった。それが、タイトル戦では鬼のように強かった。

 朝八時。21回目の千日手が成立した。本川は寝息を立てている。坂原は、対局室に向かった。



 激しい将棋だった。22時間戦い続けているとは思えないほどの内容だった。そして対局者の二人は、全く疲れた様子を見せていなかった。

 坂原は、全てを目に焼き付けようとした。22回目はないという確信があった。二人から、殺気のようなものを感じたのである。

 秒読みが続く。時折笹田が、低いうなり声のようなものを発した。膝を叩く。上唇をかむ。

 差が開いていた。そして、千日手に持ち込める筋もなさそうだった。坂原は、瞬きをやめた。

「負けました」

 朝八時五十分。ついに、勝負は決した。終わりはあったのである。

「体は大丈夫?」

 坂原は一気に瞬きを繰り返した後、世永を凝視した。

「駄目なんだ。でも、君と当たるまではと思って」

「そうか」

「もう一度休むよ。何年かかかるかもしれない」

「大丈夫、待っているから」

 二人は、笑っていた。坂原は泣きそうだった。もう一度、瞬きを繰り返した。

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20000日目の太陽 清水らくは @shimizurakuha

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