慈愛の灯火

慈愛の灯火


 陽が落ちて店じまいをした種火屋の入り口の年季の入った木戸を少し力を入れて開けると、夕食の美味しそうな匂いが漂ってきた。


 おかえりなさい。あら、1人増えたわね。


 最後に木戸をくぐった愛美が軽く頭を下げた。

 

 こんばんは、千代子おばさん。


 愛美は千代子の親戚筋にあたり、尚且つ、親子のように仲がよい。ちなみにこの関係のお陰で七右衛門の一挙手一投足は常に筒抜けである。


 急にどうしたの?


 負堕落先生の様子を見てこいって言われたの。先生がヒトサライをしたって噂を課長が心配したのよ。


 ため息をつきながら呆れたように愛美が言った。


 人攫いとは酷いね。


 足元血まみれの失神した女性を担いで帰ってくれば、ヤラカシタと思うわよ。あ、先生の場合はツイニヤッタカだけど…。


 そこまでいう?でも、愛美に筒抜けになるにしても、君の課長には何も伝えてないはずだけどね…。


 私がきちんと脚色して報告しました。


 歌舞伎の見栄を切るような動作で、七右衛門がジロリと愛美を睨んだ。


 なるほど。三文芝居で焚き付けて、来る口実を作った訳なのか…。


 呆れたもんだと七右衛門がため息をつく。

 普段はメールでやりとりしているのだか、今朝方に 夕方行く と頭出しも尻締もない文面が届いて今に至っている。

 

 でも驚いたわ、人攫いされた方はこんな綺麗な人なんだもん。


 そう言って愛美はまじまじと麻衣奈を見た。

 若い愛美のような女性から見ても、人攫いをしてみたくなるほどに、今の麻衣奈は美しく柔らかな陽気を纏った女性であった。時折、年齢が垣間魅せる色香に思わずどきりとさえしてしまうほどだ。


 そんなことないですよ。私なんて…。


 恥ずかしそうに俯いた麻衣奈の仕草に、尚のこと愛美は好感を覚えた。そして、その慎ましやかな仕草が自然体であったことにも安堵を感じていた。正直、話を聞いた時は、どんなめんどうくさい女を連れ込んで、ややこしい事態になるかと心配していたが、どうして、どうして、それは杞憂であったようだ。


 あ、挨拶が遅れてすみません。私は桑田愛美と申します。負堕落先生、もとい、七右衛門の絵を扱う画商で働いています。

 

 負堕落先生…自堕落ではなく?


 麻衣奈は思わず嘴ってしまった。


 それもそれで酷いね…。


 今度は見栄を切らず、ひょっとこの様な顔をして七右衛門は拗ねた。だが実際、負堕落とは聞きなれない言葉であった。

 

 ああ、自堕落ならまだマシですよ。自分から堕落してるんですから。七右衛門さんは負けて堕落してるんです。あ、補陀落渡海ってご存知です?そこの和尚さんになった人は、暫くすると海へ出て極楽浄土を目指すっていうお話なんですけど?


 ええ、有名な小説にもなってますね。私も読みました。


 あ、知ってるなら良かった。まぁ、先生は新作と言う海に過去の傷から中々出ることができないのです。補陀落渡海のような崇高な儀式でもないですし、先生の場合は負けてしまっている上にそれに慣れきってしまったということで、私の上司から言わせれば、負けていて堕落している、ということで負堕落と言うわけです


負けた・・・でも、あれだけのことがあれば・・・


 そう言って麻衣奈は表情を曇らせると、それに気がついた七右衛門はそそくさと音もなく階段を上がって行ってしまった。


 数日前に日本画を調べようとネットで書籍を取り寄せると、三ツ葉事件なるものが記事で書かれていた。

 三ツ葉家は古くからの名家で、七右衛門は幼い頃から日本画を趣味で描いていた。それは中々の才能であって人気を博していたのだが、中学生に上がる頃、盗作騒動に巻き込まれた。

 岩永と言う七右衛門の絵の先生が、私の書いたものを三ツ葉家に脅されて七右衛門の作品として発表させられていた。とマスコミに生々しく吹いたのだ。結果は当たり前の如く七右衛門が描いたもので相違なく、騒ぎは収まったのだが…。収まるまでの連日連夜の報道があったのも事実である。

 この件以降、七右衛門の絵は狂った。

 当たり前だろう、清流の川を引っ掻き回し汚すに汚して濁流するような行いが、幼い思春期の心に及ぼした影響は計り知れなかったのだ。

 末尾に作品が二つ掲載されていたが、一つは美しく並んだ山並みを4つに分けて四季が移ろいゆく素敵なものであったが、二つ目は暗い色ばかりでなにを書いているかも分からぬ沼淵のように見え、暗く淋しく澱んでいた。

 それから後の事は分からないが、色々と流離って馬籠宿の種火屋へと流れ着いたようであった。


 先生に起こったことをご存知なんですか?


 愛美は表情を落として冷静な声で聞いた。


 一応、絵の勉強をしていて…目に入ったので…。


 思わず責められているかの様に感じ、麻衣奈はお茶を濁すように答えた。


 あ、ごめんなさい。責めてはいないですよ。


 声色を戻して笑みを浮かべた愛美が手のひらを前で振る。


 それに。私はもう先生は充分に復帰していると思うのです。


どうして、そう思えるのです?


 担当者でもありますけど、私は先生の絵の大ファンなんです。そして、ここ数週間の先生は雰囲気が違うのです。


 雰囲気が違うのですか?


 ええ、まるで氷海に亀裂が入ったような、そんな何度も言い難い雰囲気があるのです。


 どこか嬉しそうにどこか寂しそうに愛美が言うと、ふと階段を降りてくる音が聞こえてきた。


 愛美、これを課長に渡してくれる?


 その手には紫の量販風呂敷に包まれた物を持っていた。


 真逆、先生!


 鶴の叫びのような声を上げ七右衛門の手から風呂敷を奪い取ると、お使い結びされた結び目をあっという間に解く。


 うそ…。うそ…。うそ…。


 そう呟きながら中から現れた段ボールでできた絵箱を取り出した。指の隙間から風呂敷がふわりと地面に落ちるが、愛美には全く気にならなかった。

 帳場のカウンターに箱を置いて、ゆっくりと蓋を取る愛美の顔はとても和かで春の微笑みのようであった。

 麻衣奈も気になったが、覗く様な野暮は辞めた。この場は譲るべきだと思い半歩後ろへと下がる。


 ああ…。


 感嘆とも嗚咽とも聞こえる様な声を愛美が上げると、その場で泣き崩れた。


 泣かないでよ…。


 七右衛門が駆け寄って、愛美の背中を優しく摩りながら語りかけた。


 う…うぅ…。


 声を押し殺し、涙を溢れさせ、愛美は更に泣き続けた。麻衣奈も側へと寄り添いながら同じように優しく背中を摩っていると愛美は麻衣奈へと抱きついた。


 麻衣奈さん、先生を救ってくれてありがとう。


 顔をくしゃくしゃにしてひたすら幼子のように泣く愛美を、母親の温もりのように麻衣奈は抱きしめた。


 なにを言われているかその時はよく分からなかったが、後からカウンターの絵を見てふっと麻衣奈自身もまた救われた。


 絵は麻衣奈が描かれていた。

 中心の布団で眠る麻衣奈は観音さまのような穏やかな微笑みを浮かべ、周りを温かな日の光で満たされている。頭から足先まで薄暗い色合いで楕円状に囲まれているものの、その色は中心にゆくに従って薄く晴れてゆき、まるで黒霧が晴れていくかのようであった。


 画題は 慈愛の灯火


 三ツ葉七右衛門の画家人生と、結衣島麻衣奈の人生を飾る、始まりの一枚であった。

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