夕暮れの闇色

 あれから3週間ほどが過ぎて寒さが段々と厳しくなってきた。恵那山のあたりの山風はとても気分屋であって、吹き荒れてみたり、穏やかにしてみたりところころと風手を変えながら宿場町を吹き抜けていく。


 宿場町の長い坂道の下、観光客向けの駐車場の脇にある中西医院から、足の治療を終えた麻衣奈が出てきた。


 ありがとうございました。


 はーい。お大事に!あのエセ画伯になにかされたら直ぐに言うのよ。


 紅色の長袖スクラブとスラックス、白衣を羽織った、小狐顔の医者が待合室まで出てきて返事をした。この人物こそ、七右衛門にヤブ医者と言われた 中西幸子 先生である。実際は名医と呼ぶに相応しい医師で、素足で歩いた日にできた傷は化膿することなく治りも早かった。拾われて寝かされた日に千代子が往診を依頼して処置が早かったことも影響しているだろう。

 厳しくも優しい 中西先生は45歳で麻衣奈とも年齢が近いので何回かの診察ののちによく話すようになった。

 なんでも、父親の急死に伴い名古屋の大学病院から戻って跡目を継いだそうだ。父の真似事と言っているが、地域医療のため夜間診療や往診も積極的に行っている。一回り以上若く、寡黙な熊崎と言う男性看護師と二人三脚で医院を守っていた。

 たぶん。公私共に良いカップルなのだろう。


 着物姿の麻衣奈は道行衿の跳ねた裾を直して、夕暮れの陽を浴びた石畳の坂を登っていく。すでに観光客の姿はなく、木戸を閉めた店々の前をゆっくりと通り過ぎ、ふと郵便局前の姿見に映った姿に足を止めた。


 ここのところの療養のような生活によって、健康な身体を取り戻しつつあった。

 色の悪かった肌の色は、艶かし色合いと艶が戻り、頰が痩け目の窪んだ顔は、若い頃とはいかないまでも年齢を感じさせない若々しさがあふれていた。

 徐々に徐々に生気を取り戻して若返ってゆく姿を見てきた千代子は大層喜んでいる。


 また、千代子も七右衛門も麻衣奈に何があったのかを聞くことをしなかった。一度、話してしまおうとして止められた。


 心から話せる話ならお話しなさい。気にして話すのならおやめなさい。


 でも…。


 女は誰でも秘密を持っています。アタクシにも一つ二つはありますよ。それに話したところで本当の意味で楽になるなんてことはないのよ。いかに忘れるか、思い出しても直ぐに忘れれるようになれるかが大事なのよ。


 忘れるですか…?


 ええ、歳月が過ぎれば分かることです。いかに自分自身で噛み砕いて始末できるようになるかですよ。


 そう満遍の笑みを浮かべて言う千代子の強さに圧倒されて話は打ち切りとなってしまった。

 それ以来、虫がいい話しではあるが気にしないように過ごしている。


 着物にしても私服がほぼ無いことを聞いた千代子が、自室から数十点にも及ぶ着物を持ち出して部屋へとやってきたのであった。

 

 古いけど私の着物を着てくれないかい?


 2人とも痩せ型で背丈横幅も同じであったことが幸いし、全く仕立て直しも必要なくすんなりと着付けすることができた。なにより、麻衣奈の亡くなった母は着付けを生業としていたこともあって、帯の閉め方や着こなし方は手慣れたものであった。

 

 見惚れるほどだね。


 着付けて姿を見せると、そう言って目を細めて微笑んでいた。遠慮したところで千代子には届くはずもなく、古いながらモダンな作りをした木曽箪笥もどこからともなく、七右衛門の手によって引っ越してきて部屋に鎮座した。結果、少しの洋服と和装用下着を数点、ネット注文した以外は衣服の問題も片がついた。


 部屋についても七右衛門のモデルの仕事を受けたのだから、気にせず滞在すれば良いと言われ、雇用主の彼も呼びつけたらすぐに来て欲しいとのことで、同じように逗留することになった。

 しかし、未だにお呼びは掛かっていない。


 声がかからないからと言って、いつまでもお客様をしているわけにもいかない。気持ちが前向きになったこと、これだけの事をして頂いている恩もあり、千代子に仕事で手伝えることはないか相談したところ帳場を任された。

 最初は足を気遣って座りながらの勤めていたが、3日もすると体が慣れてきて接客などもする様になった。最初こそ覚束なかったが、2、3日も経るとまるで昔から居たような慣れた手付きとなって千代子を驚かせた。もちろん場当たり的な知識ではなく、店終わりに商品のことや、地域のこと、郷土の大切な文豪先生のこと、等々を夜鍋をするように資料を読み漁り学んだ成果でもあった。


 勾配のきつい石畳を少し上ると、営業を終えた観光案内所のあたりに見慣れた男が立っていた。


 七右衛門さん。どうしたの?


 ああ、麻衣奈さん。


  濃紺の着物に同色の羽織、いわゆるアンサンブルを着た彼がため息を吐いた。


 人を待っていたんですよ。怖い人を。

 

 怖い人ですか?


 ええ、とても怖い人です。私を苦しめに来るんですよ。


 この大男を苦しめに来るとはなかなかの人物ではなかろうか。と考えていると、彼の後ろから若い女性の声が割り込んできた。


 その人はろくでなしです。早く逃げないと酷い目に遭いますよ。


 えっ!?


 凍えるほどの冷たい声だった。

 辺りが一瞬にして凍てついたかと感じるほどの冷声で、麻衣奈はギョッと驚いて足が止まる。


 愛美か…。


 ため息をさらに吐いて、振り向いた七右衛門を、可愛らしい小顔をした明るい色のボブカットの髪に、鋭く印象的な三白眼の目をした女性だった。


 先生、作品はできあがりましたか?


 あがりません!


 七右衛門は両腕を組んで堂々と言い放つ。

 それはもう、木枯らしのように寒々しい声色でだ。


 情けない。死ぬ気で描けや、クソ野郎。


 さらに冷たい声で言葉が紡がれた。


 うまいね!


 パチパチと両手を叩いて七右衛門は誉める。ああ、この人はろくでなしであることは間違いなさそうだ。


 句にした訳ではないですよ?心からの想いです。いや、もはや筆を折ってやめてもらえません?


 冷たい声で張り付けた笑みで彼女は返事をした。最後の方は懇願とも命令とも受け取れる。

 

 それは酷いんじゃないの?


 ショックを受けた声色の返事に思わず、麻衣奈は吹き出して笑ってしまった。


 ご、ごめんなさいね。面白おかしくて…。


 クスクスと笑う麻衣奈の声にその場が溶けた。


 あ、そうそう。愛美、モデルは探さなくていい。


 真剣な声で七右衛門が言った。先程までの軽々しくない重みのある言い方である。


 どう言うことですか?


 いや、今日、紹介する予定であったのだけど、この結衣島麻衣奈さんにモデルをお願いして、良い返事を頂いてね。


 期待とも憐れみとも言い表せぬ表情で愛美は麻衣奈をみた。


 と…いうことは…。


 ゴクリと唾を飲む音が響く。


 近々、作品を描くよ。


 しっかりとした、いつにない真面目な声で七右衛門が言う。


 ああ…。


 歓喜に震える声が漏れたかと思ったが、次の言葉で麻衣奈はゾッとすることになる。


 被害者が増えちゃう…。


 そう言って愛美は地面に崩れ落ち、その絶望感を表すかのように闇色が辺りを包んでいった。

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