湯気の幸せ

 どれくらい魅入っていたのだろうと考えながら、麻衣奈は目元を布団で拭った。すでに室内に千代子の姿はなく彼女一人であった。

 枕元にスマホが置かれていたので、カメラアプリて景色の写真を撮る。撮影した写真を見ようして、どうやらボタンを押し間違えたらしく、カメラが麻衣奈の顔を映し出した。


 酷い顔…。


 そう呟いてアプリを閉じる。いくつかのメッセンジャーアプリとメールが何十件と通知を表示しているが、それを全て無視してスリープモードにした。

 20年近く身を粉にして働いた仕事はもうない、自宅すら引き払って、東京を後にした身としては、もう、失うものはなにもない。


 結衣島さん。


 襖を隔てて七右衛門の声がした。


 は、はい。


 朝ご飯ができたそうです。持ってこようとも思ったのですが、よければ肩を貸しますので食堂で食べませんか?

 

 できればこの景色を見ながら部屋で食べたいという気持ちもあったが、七右衛門の声を聞くとそれはもうどうでも良くなってしまった。


 すみません、身支度を整えますので少し待って頂けますか?


 ええ、ゆっくりで大丈夫ですよ。


 左足を気遣いながらゆっくりと出て立ち上がる。あれほどの痛みがあったのに今はさほど気にならなかった。


 大丈夫そう…かな…。


 それに少し安堵しながらスーツケースへとゆっくり足を進めた。


 ごめんね。


 スーツケースに何気なくひとこと謝ると、横にしてロックを外す。ボン!っと爆発したように勢い良く弾けるように両側へと開いた。

 自宅を引き払った際に断捨離をして必要なものだけを整理して詰めたが、今、中身を見ながら考えてみると、やはり出鱈目に詰め込んでいたことは容易に想像できた。

 服は全くと言っていいほど入っておらず、雑多なもので中は溢れている。隅にぐちゃぐちゃと詰められていた下着の束から気なれたものを身につけ、浴衣と髪の乱れを軽く整えた。

 化粧をしようとは思わない、もう、そのままで良いと諦めて、近くに置かれていた種火屋の羽織を着て襖へを開けた。


 お待たせしました。


 部屋の前はしっかり磨かれた廊下で突き当たりに階段があった。寝かして頂いていたこの部屋は角部屋にあたり部屋名に木蓮の間と小さく書かれている。

 誘ってきた当の本人は階段近くで壁に背を預けて待っていたが、麻衣奈の声を聞いて背を離した。


 無理をさせてすみません。


 そういいながらこちらへと迫ってくる。

 歩幅が大きいこともあってか、向かってくるというよりは迫ってくるような印象に、麻衣奈は室内へ少し身を引いてしまった。


 ゆっくりでしたら歩けますから、大丈夫です。


 七右衛門が麻衣奈の前に立つ。頭2つ分背の高い彼を見上げるが不思議と怖いとは思わなかった。にこやかに笑みを浮かべる彼に彼女も笑みを浮かべた。


 部屋で一人で食べるよりは、一緒にどうかなと思いましてね。


 そんな気遣いも嬉しく頷いて肯定する。

 一歩を踏み出そうとして、途端にふらついてバランスを崩した。


 危ない!


 言葉と共に目の前の巨体が素早く動く。彼の両手に両肩を掴まれて引き寄せられると、あれよあれよと言う間に横抱きに抱き抱えらた。いわゆるお姫様抱っこである。


 どこもぶつけてないですか?痛いところはないですか?


 は、はい…。


 驚きと恥ずかしさで顔を赤く染めながら、麻衣奈は頷いて答えた。


 七右衛門さんは大丈夫ですか?


 私は大丈夫ですよ。ついでにこのまま抱えて行きましょう。


 いえ!それは…。


 言い終わらぬ内にそのまま部屋から連れ出される。七右衛門は慣れたように片足で襖を閉めるとスタスタと廊下を進み、あっという間に古い旅館特有の少し急な階段を降りてしまった。


 七右衛門さん!なにをしているの!?


降りた先でお膳を運んでいる千代子に見つかった。また、目を見開いて驚いた顔をしている。


 転びそうになったので、抱えてきたのです。


 本当に?


 じとっとした疑いの目が向けられる。

 七右衛門はそこまで危ない人間なのかと麻衣奈は不安になったが、助けてもらい、頼んではいないが運んでもらった手前、否定ぐらいはしてあげるべきだろうとも思った。


 ほ、本当です。私がバランスを崩したので…。


その言葉に千代子の目元が和らぐ。


 なら良いのですけど…。でも、麻衣奈さん、嫌なら嫌とはっきり言わないと、その唐変木は気がつきませんよ。


心配そうに千代子がアドバイスめいたことを言ったので、確かにその通りかもしれないと思った。


全く酷い言われようだ。


そう言いながらも下ろす素振りは見せず、ため息を吐きながら千代子の後ろを2人はついて行く。中は右側に帳場があって土産物が綺麗に並べられて売られていて、左側には間仕切りで仕切られた広い4人卓が5つほどあった。

 その一番入り口に近い席に怪我した足を当てぬよう、そっと七右衛門は麻衣奈を座らせた。


 あ、ありがとうございます。


 いえいえ、怖い思いをさせてすみません。


 対する席に腰掛けた七右衛門がにこやかに笑いながら詫びる。その笑顔にふと、心底にあった得体の知れない不安が、いつの間にか安らいでいたことに麻衣奈は気付いた。


 さぁ、できましたよ!


 千代子によって麻衣奈の前にお膳が置かれた。

 献立は、湯気の立つ栗こわ飯に、色良いおみおつけ、緑鮮やかな野沢菜と梅干しに紅鮭の焼物が食材の色を引き立てる器に豪勢に盛り付けられていた。


 遠慮なく食べてね。


 ありがとうございます。凄く美味しそう。


 ええ、美味しいですよ。私の手作りなんですからね。


 言いながらケラケラと笑った千代子は、お茶まで用意し終えると、さっと店の帳場奥にある厨房へと戻っていった。


 千代子さんのご飯はとでも美味しいですよ。


 同じ料理が据えられている七右衛門が、箸を取りながら言う。


 はい、いただきます。


 料理を見ているだけでも、幾分か気持ちが前向きになってきた。食べるではなく、食べたいと言う気持ちが湧いてきて箸へと手を伸ばす。麻衣奈にとって久しぶりのまともな食事であった。ここ数ヶ月はほとんどドリンク剤かゼリー、クッキー型の健康補助食品で過ごす日々だった。


ゆっくりとおみおつけのお椀を持つと、数回、冷ますように息を吹いてからゆっくりと口に運ぶ。

 

 美味しい…。


 口の中に昆布出汁と味噌の程よい味が広がる。幼い頃、亡くなった祖母がよく作ってくれた味噌汁と似た懐かしい味わいを感じた。自慢の栗こわ飯も、その他料理もどれもこれも絶品と呼ぶに相応しいものばかりで、一口一口をしっかりと味わいながら、普段であれば残してしまう量であったのに、気づいてみれば全て残さずに完食していた。


 ごちそうさまでした。


両手を合わせて感謝を伝えてホッと一息つく。


 しっかり食べることができてなによりです。


 凄く美味しくて…。


 でしょう。私も千代子さんの料理を気に入っているんですよ。


 そう言って彼は緑茶を一口飲んでから、姿勢を正して麻衣奈へと向いた。


 私の自己紹介がまだでしたね。私は三ツ葉七右衛門 ミツバシチエモン といいます。芸名とかではなく、本名です。仕事は日本画を描いています。


 画家さん?


 ええ、そうです。美人画を書いています。まあ、昨日は気晴らしに中津川へ出かけていたのですが、そうしたら麻衣奈さんに出会ったわけです。


 そう…ですか…。


 麻衣奈の顔が曇った。次は私のことを聞いてくるのだろうと考えると、心臓のあたりが締め付けられるように苦しくなる。


 少し伺いたいのですが、行き先は決まっていますか?


 いません。


 帰るとこはありますか?


 ないです。


 あるわけ無いのだ、すべてを捨ててきたのだから。


 行くべきところもないですか?


 ないです。


 ある訳がない。死ぬために歩いていたのだから。


 声がどんどんとか細くなり、心臓が締め付けられ目の前がふわふわと揺れ始めてきた。


 なるほど。それは好都合!


 バシっと良い音を響かせ七右衛門は自分の太ももを叩いた。


 麻衣奈さん。貴女、私のモデルになって欲しい!


 身を乗り出して真剣な面持ちで七右衛門が言う。


 はい!?


 貴女のような方を待っていたんです!

 

 さらに顔が近づき、思わず麻衣奈は右足に力を込めて椅子を後ろに引き後退った。


 是非とも引き受けて欲しい!今の貴女はとても美しく綺麗で可憐だ!


 子供のような目をして更に顔を近づけてくる。


 お願いします!


 更なる大声が店内に響く。


 は、はい!


 肯定の返事を思わずつられるように言ってしまった。


 ありがとう!宜しくお願いします!


 立ち上がってガッツポーズを決めた七右衛門を見て、もう、どうにでもしてくれ。と思いながらも、顔を真っ赤にして麻衣奈は俯く。


 うるさいよ!七右衛門さん!!


 厨房から血相を変えて飛び出してきた千代子が大声で怒鳴った。

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