囲炉裏の迎火

 泣き止んだ愛美はぐずぐずと鼻をいわせながら、腫れぼったい目をして、囲炉裏の前に座って他の人が集まるのを待っている。

 板の間に長方形に誂えられている囲炉裏では、千代子によって手入れされた灰が、まるで細かい白砂が敷き詰められているかのように見える。中央の五徳の下では備長炭が数個ほど、時折、茜色の身体から火を立ち上らせていた。


 今日は囲炉裏で食べましょうかね。


 あの後、千代子がそう言って調理場へと戻って行った。


 囲炉裏部屋は、千代子が人をあまり招かない唯一の部屋と言ってもよい。3年前に亡くなった孫七さんと夫婦水入らずで過ごした愛しみ深い部屋なのだ。愛美も生前に数度ほど入ったが、熟年というより往年の夫婦とはこういうものなのだと肌身で感じ取れる空間であった。

 孫七は家長の席である横座に、千代子は横座を正面に見て左側の地元ではタナモトと呼ばれる席に座り、茶飲み話をしたり、読書をしたりと思い思いの時間を過ごしていた。

 可笑しかったのは、一度、喧嘩をしているときに上がり込んだ際は、喧嘩中にも関わらず同じように過ごしていたことだろう。

そんな2人を思い出してクスッと笑ってしまった。


 さっきは、みっともなかったなぁ。


 先程まで泣き崩れていた姿を思い出してため息をつくが、別の意味では満足だった。

 七右衛門の絵をまた拝むことができたのだ。もう、あの頃の作品を書くことはないかもしれないと何度も周囲は諦めかけたが、愛美はその都度、周囲を否定して鼓舞した。


 なにより、愛美自身が諦めたくなかった。


 何故なら絵の力を一番に信じているから。


 中学生からしばらく引きこもりの不登校になった愛美を、その淵から救い上げてくれたのは七右衛門の絵であった。しばらく出ていない部屋で、インターネットのニュースに掲載されたその作品を見たとき、愛美の感情は全てモノクロに染まった。頭の中にある全てが一瞬で色褪せたのだ。大慌てで部屋を飛び出すとリビングへと走った。


 とにかく、人肌が恋しかった。


 リビングに現れた娘に母親は驚いていたが、愛美が抱きつくと優しく抱きしめてくれた。それに安心した愛美は激しく嗚咽して泣きじゃくった。

 全てが色褪せたことで純粋な涙を呼び覚まし、また、それが恐ろしかったのだった。今は思春期の曖昧な悩みを消し去る天雷の一撃と考えている。

 そして落ち着いた愛美は両親にこの絵を直に見たいと無理を言った。親戚で今勤めている会社の社長がどうにか絵を手に入れてくれ、それを目にした時の感動は愛美の心に峡谷のように深く刻まれた。

 あの日を境に全てが変わったのだった。

 

 大学を出て、親戚の会社に入社してしばらくした頃にある噂が流れた。

 あの、七右衛門が馬籠に逗留しているらしい。

 事件の話を聞いてはいたが、居ても立っても居られず愛美は馬籠に通い詰めて、ようやく七右衛門に出会えたがそれは最低の出会いとなった。

 馬籠を上り切ったところに恵那の山々や遠くは中津川までを見渡すことができる展望台があり、日中は観光客で騒がしく忙しいが、夕暮れ時には散歩がてらに近所の人が歩く以外は閑散としたベンチに、七右衛門は景色を見るわけでも、ほかのことをするわけでもなく、ただ緩やかな風に吹かれて座っていた。

 覇気はなく、能面のように表情もなく、ひたすら蘊蓄をたれては上手く逃げ回り、誰とも真面目に向き合って話をしようとしない。


 そこに画家、七右衛門は居なかった。


 この、ろくでなし!


 愛美は悔し涙を浮かべて怒鳴った。

 新しい世界を魅せてくれたのはこんな奴ではない、とばかりに七右衛門の言うことを散々否定し続ける。

 言い訳など聞きたくなかった。

 辺りは宵闇から闇夜に変わり、小さな街頭と遠くに見える中津川の夜景の光があるだけとなってもなお、2人は静かなる言い争いを続けていた。


 君は粘るね。


 能面から少しだけ感情のある表情を溢した七右衛門に、仁王立ちをした愛美がしっかりと目を見て告げた。


 私は先生のファンです。でも、優しくはありません。貴方が作品を取り戻すまでファンを辞めます。貴方が辞めさせたんです。


 ほう。


 七右衛門の目に淡い光が灯ったのを愛美は見逃さなかった。


 貴方が悪いんです。貴方は画家なんかじゃない。


 じゃあ、なんだと言うのさ?


 そう言って淡い光は消え、能面の顔が表れてくる。


 貴方の作品に恋焦がれ、待ち焦がれる人がいるのにも関わらず、気がつかないふりをする、ろくでなしです!


 平手打ちの音が静寂に響く。


 もぅ…いやだぁ…。


 その場に崩れ落ちた愛美の姿に、今まで動こうともしなかった七右衛門は腰を上げた。


 君は本当に豊かだね。


 そう言うと愛美の側に寄って背中を優しく摩った。


 触らない…で…ください…。こ…の…ろくでなし…。


 嗚咽で上手く喋れない、これ以上、のらりくらりとされてしまったら二度と関わりたくないとさえ思えた。


 うん。僕はろくでなしだ。


 感情の籠った声がした。


 え…ぅ?


 振り向くと、目に光の宿る真面目な顔をした七右衛門がいた。


 名前をなんて言ったっけ?


 く、くわった、あいっみです。

 

 泣き過ぎてしゃっくりが発音を詰まらせる。その目はしっかりと愛美を見据えている。


 桑田愛美さんかな?


 はっいっ…。


 君をファンに戻せるように頑張るよ。暫くかかるかもしれないけど、見捨てられる前には、ね。


 先ほどまでとは違い、力強く、重みのある声で七右衛門は言い切ったのだった。


それ以来、ぼろくそに言いながら、心から待ち侘び続け、そして今先程、約束はきちんと果たされた。

 桑田愛美は口先だけでない、心底からのファンへと戻ることができたのだ。

 それは何ものにも変えがたい喜びであった。


 神さま、先生のファンに戻れました。本当にありがとうございます。


 囲炉裏の火を見ながら小声で感謝を呟く。


 任せろ、神は喜んでいるぞ。


 いきなり背中側の襖から男の声がしたので、慌てて立ち上がり襖を開くと、七右衛門が神妙な顔で笑っていた。


 このろくでなし!


 叩こうと手を振り上げたところで、七右衛門が深々とこうべを垂れた。


 愛美、本当にありがとう。


 優しく力強い、ただ一言のお礼。その一言に愛美の涙腺は再び緩んで涙が頬をつたい流れてゆく。


 先生、次はありませんからね。次は許しませんからね。


 涙していても笑みが溢れる。私を救った先生はやはり立派な先生だった。


 ああ、分かってる。


 力強い返事だ。もう、これなら間違いなく大丈夫だ。


 先生、ファンとして、担当者として、最上の一枚を心待ちにしています。

 

 愛美も深々と頭を下げる。

 しばらくして頭を上げると、そこに、尊敬すべき画家、いや、尊敬すべき絵師が素敵な笑みで立っていた。

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