明治21年目
井上みなと
第1話 明治21年があなたと過ごす初めての春
真琴が北星の家にやってきたのは明治20年、10歳の時である。
父に連れられ、北星の家にやってきて、そして、父が死んだ。
わかっていたことだったが、真琴にとっては辛い出来事で、塞ぎ込みがちだった。
正月が来て、梅が咲き、春の訪れを感じる季節になっても、真琴はあまり元気がなかった。
「どこか出かけてみるかい?」
北星がたびたび声をかけたが、真琴は小さい声でありがとうございます、とは言うものの、出かけようとはしなかった。
(あのくらいの年の子は、何を喜ぶのかな)
真琴の喜びそうなものとして、北星は釣りに誘ったり、花を見に行こうと提案したが、真琴の表情は明るくならなかった。
ある日。
食後に新聞を読んでいた北星が、新聞に視線を落としたまま呟いた。
「三越洋服店は賑わっているようだね」
「洋服店……ですか?」
真琴が小さな声で北星に尋ねる。
あまり食欲のない様子だった真琴だったが、声色はどこかそれまでと違い、明るかった。
「あ、ああ、うん。今年の1月に日本橋駿河町に『三越洋服店』って店が開業したんだ。真琴は『越後屋』というのを知っているかい?」
「あ、はい。有名な……お店屋さんですよね」
東京に出てきて間もない真琴には、それくらいの知識しかない。
真琴はただ地方にいたというだけでなく、放浪の身だったこともあって、世情に疎かった。
「うん。真琴の言う通り、有名なお店だ。越後屋は江戸時代から続く呉服店で、それが明治になって洋服部を作って洋服を売り出し、ついに洋服店を開業したんだ」
「洋服って呉服屋さんが、そんなすぐに作ることが出来るものなんですか」
これまでと違い、真琴が身を乗り出して話し出したことに驚きつつ、北星はそれを指摘しなかった。
指摘してしまえば、また、真琴が口を噤んでしまうかもしれないからだ。
北星は何気なく話を繋げた。
「すぐにはなかなか作れないね。越後屋では番頭さんを洋行させて、フランスから裁縫職工たちを連れて来たそうだよ」
「フランス……」
「ヨーロッパにある国でね。洋服の流行の先端を行く国だそうだ。きっと、そこの職人が作るものだから、綺麗な服がいっぱいあることだろう」
綺麗な服と聞き、真琴の目に光が入る。
それは今までにない反応だった。
「行ってみるかい?」
「はい」
小さな声だったが、確かな意思を感じ、北星は立ち上がった。
「それでは行ってみようか」
北星の桜春堂治療院から日本橋駿河町の三越までは歩いて15分くらいかかる。
三越まで歩いて向かったのだが、真琴は珍しそうに東京の街並みを見ていた。
「東京は……すごいですね」
「うん。日本橋の方はもっとすごいよ」
日本橋は三越だけでなく、大丸屋、白木屋といった有名呉服店が並び、居並ぶ人たちも上等な着物で歩いていた。
「綺麗……」
目を輝かすと同時に、真琴は急に自分の服装が恥ずかしくなった。
「うちにはおまえが持ってきた服しかないから、服が少ないな。小学校にも行くことだし、少し服や靴を揃えるか」
「は、はい! あの、いいんですか……?」
元気に答えてしまってから、真琴がおずおずと尋ねる。
「私は豪華な暮らしはしていないが、おまえに服や靴を揃えてやれるくらいのお金はあるよ。いいから頼りなさい。私はこれからおまえの親代わりなのだから」
「……はい!」
電気燈の立つ入り口を超え、三越洋服店の中に入る。
そこには真琴がこれまで見たこともない服や靴や鞄がたくさんあり、真琴にとって最高に楽しい東京体験となった。
明治21年目 井上みなと @inoueminato
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