第9話 仕事環境の改善を求む

「子供向けの絵本です。町の教会に行く者に借りて来てもらいました」


 開かれたそこには色鮮やかとまではいかないが、色が付けられた絵と少ない文字が描かれていた。

 暇つぶしに見てもいいよという事だろうか? そう思って顔を上げると、ヨルンさんは文字を指さしながら、ゆっくりとそれを読み上げてくれた。

 絵があるので何となくのストーリーはわかる。塔に囚われたお姫様を助け出す英雄のお話だ。どこかで聞いたような内容だから一度聞けば覚えられたのだが……


「文字が気になっているようでしたから」


 あ。なるほど。練習用なのか。わざわざ借りて来てくれるとは……

 なんて親切なのだろうとジーンとしていると、不意にヨルンさんは仕事モードに似た真面目な顔になった。


「一つ話していませんでしたが、我々魔導士は基本的に動物に好かれません。ですから、あなたが人懐っこく我々に近づくと珍しさから箍を外す者もいます。その指輪をしていれば酷い事はされないでしょうが、気を付けてください」


 ヨルンさん……それ、もうちょっと早く聞きたかったな……あぁでも言われても実感なかったから同じだったかもしれないけど……

 とりあえずヨルンさんにはコクリと頷いておく。

 だが、ヨルンさんは真面目な顔のままじっと私を見て動かない。えと……なんだろ? 本を見るのを待ってるとか?

 わからなくて首を傾げると、ヨルンさんは少しだけ暗い顔、というかどことなく悲しそうな顔になった。


「ノヴァクには随分懐いたそうですね」


 ノヴァク? って、誰?


「今朝、修練場にいた魔導士の一人ですよ。赤い髪の」


 あぁ、あの童顔な人。ノヴァクっていうのか。あれは懐いたっていうか、別にそういうわけではないと思うのだが……いや、はたから見るとそうなのかな?


「………」


 なんだろうこの間は……何故か浮気が奥さんにバレた旦那の心境になってくるのだが……こう、ヨルンさんから無言の圧が……

 おずおずと私はヨルンさんに近づいてすりっと手に頭をこすりつけて見る。だがヨルンさんの表情は変わらない。なんかちょっと諦めたようなくらーい顔をしている。仕方がないのでそろーりと頭を上げて浮き上がり、すべすべそうなほっぺにつん、と鼻先でキスをしてみる。と、ヨルンさんの顔が崩壊した。

 あ、なんか顔を赤らめてほっぺ押さえている姿とかなんかヤバイのですが……えー……襲ったの私になるのでしょうか? ちゅーとも言えないちゅーなんですけど……なんなんだろうこの状況……


「……っ、いえ、あなたは優しいですからね、求められただけでしょう」


 あぁうん。それはそうなんだけど、なんかヨルンさん、すごい可愛い人になってしまっているんですけど……そんな嬉しさを必死にこらえている姿とかヤバイのではないでしょうか……神秘的な感じの美人さんが顔を赤らめてちょっと狼狽えている姿とかお嬢さん方には涎ものでは? あの仕事モードは一体どこへ? そして浮気をキスで誤魔化したみたいな変な罪悪感があるのは何故だろう……なんかヨルンさん、手のひらでコロコロされちゃいそうで心配です……


「でも本当に気をつけるのですよ。特に魔力が高いものは飢えていますからね」


 それ、ヨルンさんも含まれるという事でしょうか……?

 なんか微妙な気持ちになりながらコクリと頷いて、絵本に視線を落とす。これ以上ヨルンさんと視線を合わせていたら何を要求されるかわからないからな。うん。

 しばらく視線を感じていたが、絵本に集中している振りをしていたら仕事に戻ってくれた。ほっとした。

 いやー……ヨルンさんも動物に飢えていたんだなぁ……なんか生い立ちも大変そうだったから、この程度のスキンシップなら別に構わないんだけど……というかこの程度のスキンシップでああなるって、魔導士ってちょっと可哀想な気も……

 どうせ短い間だしスキンシップは……いや、まて。ちょっとまて。私、魔法教えてもらいたい。このまま放り出されて母様呼んで回収してもらっても、全然姿を変える術を覚えられる気がしないのだ。この機会を有効に使いたい!

 そうとなったらどうにかしてヨルンさんの仕事量を減らさないといけない。

 でもどうやって? この大量の書類をどうやって片付けさせる?

 ……いや、落ち着こう。今ここに丁度木炭と木の板があるのだ。文字を覚える事が出来れば筆談が可能になる。それでどうにか出来ないだろうか?

 千年会話出来ないままとか嫌すぎるので、私は本気になった。本気になって絵本を読み木の板に木炭でごりごりと文字を真似てみる。あぁ手で書きたい……口でやってたら全然捗らない……

 だが嘆くばかりではなかった。なんとヨルンさんがそれを見て別の絵本を取り寄せてくれたのだ。しかも何冊も。踊り舞ってしまったよ。

 その日から私はたまーに散歩に出て、どこから聞きつけたのかクッキーを持参している魔導士っぽい人から餌付けされ、ヨルンさんの部屋に戻ってきては文字の練習をするという事を繰り返した。

 そしてなんと私、数日でレベルアップしました。絵本から児童書に。

 すごくない? 私英語とか全然得意じゃなかったのに、するすると覚えられるのですよ。なんだか不思議な感覚なのだが、とにかくこれで幼児レベルではあるが筆談が可能となったのだ! ……ミミズがのたくったような文字だけど。ほら、口に木炭を咥えて書くからどうしても……

 そして私はついにヨルンさんに質問する事が出来た。

 一旦綺麗にしてもらった木の板に、えっちらおっちらと文字を書いていく。そして書きあがったそれをヨルンさんに見せた。


「………どうして、ひとりで、しごと、する?」


 ヨルンさんはしばらく解読するように眉を寄せていたが、なんとか理解してくれたようだ。


「どうして一人で仕事をするのか、ですか……」


 何故かヨルンさんは疲れたようにため息をついて虚空を見上げてしまった。私は木の板のところへと飛んでいき、また文字を書く。


「ひとり、たいへん。そうですね、一人では大変なんですけど……」


 私は紙の束のところへと行き、ぺしぺしと尻尾で叩いた。それから紙を破かないように手であっちこっちと仕訳けていく。

 文字が読めるようになってきてわかったのだが、ヨルンさんのところに来ている書類っていうのはその大部分が経理みたいな仕事なのだ。しかもてんでバラバラに書類を上げてくるからどの部署からどんなものが購入したいのかとか、何が壊れたり破損しただとか、そういう事が分かりづらい。

 とりあえず砦自体の維持に使われているらしいものと、鎧の人たちが上げてきているっぽいもの、マントの人たちが上げてきているっぽいものに分ける。

 それから木の板のところへと戻って、文字をかきかき。


「……同じ書き方を、しないのか。って、これ……もしかして内容がわかるのですか?」


 驚いた顔で私と仕訳けた書類とを見比べるヨルンさん。私は小さな手で腕を組み、ふんすと頷いて見せた。


「まさか……国境警備隊がフェザースネークにすら劣るとは……」


 何故か余計に項垂れるヨルンさん。いや、項垂れている場合ではないですよ! しっかり! こんな仕事環境ダメですから! ホワイトな環境にして私に魔法を教えてください!

 私は文字を書いて、つんつんと項垂れているヨルンさんをつつく。


「紙? 紙がほしいのですか?」


 うんうんと頷くと、棚から一枚紙を取り出してくれた。

 私は集中して、それに線を書いていく。いわゆるフォーマットという奴だ。

 その中に、いつ、だれが、何を、どんな理由で、いくらで購入したいのか。もし物品の交換で購入する場合は、交換後のものはどうするのかも合わせて記載できるように型を書いていく。ちょろまかしは良くない。

 そして出来上がったそれをヨルンさんに見せる。

 ヨルンさんは少々歪なそれを見ると、真剣な表情になりじっと見つめた。


「確かに……これなら情報不足で差し戻しになる事は無いでしょうが……これを理解出来るか……」


 そこまでか! ここの人間はそこまで書かないとだめなのか!

 ちょっとびっくりだよ。しょうがないので私は木の板に書き書きして、ぺいっと出す。


「みほん……見本。なるほど、見本を作るんですね」


 こうしてヨルンさんの仕事環境改造計画は始動したのだった。

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