第3話 小説家(3)
時計の音がカチカチと鳴り続けてる。真っ暗闇の中を俺はフワフワと漂っていた。所々で水が流れ落ちる音がするがその方向は分からない。まるで無重力空間のようで、すいすいと魚のように泳げる。しかし周りには光も見えず出口の見当も付かない。そして何か話そうとしてもパクパクと口が動くだけである。その空間では声は形にならないのであった。
「いっそこのままでずっといたいな。」
そんな感じで暢気に思っているとどこからか声がする。最初の方は気にもとめず無視していたが段々その声が大きくなってきた。
「、、、、、ん。、、、、ちゃん。」
声が大きくなるにつれ段々とイライラしてくる。俺はずっとこのままで静かにいたいのに。必死に俺を求める声がする。俺は暗闇の中でその声を聞かまいと頭を抱えてうずくまった。
うるさい。うるさい。
遂に聞こえる声が最大限になると俺は頭を上げて目を見開き力の限り声にならない叫びをあげた。
、、、、、、、、
「お兄ちゃん!お兄ちゃん!起きて!」
まぶしい光が視界に入ってくるとともにぬれた髪の毛を下げた女性が俺の肩を揺すぶっているのがぼんやりと見えた。俺はその女性に焦点を当てる。何度も見慣れた顔がそこにはあった。それが妹だと認識するまでにはそう時間はかからなかった。
「未玖、、、?」
「勉強しながら寝てるなんて、本当に勉強が好きなんだね。」
机のものを見る限りどうやら勉強している間に寝てしまっていたようだ。俺として事が。時刻を見ると九時をとおに過ぎていた。そして、俺は口が乾ききっているのを感じてふと下に目をやると俺のよだれで湖が出来ていた。
「げ、お兄ちゃん汚い!」
未玖が気味悪そうにこちらを見てくる。俺は慌てて自分の部屋着でよだれを拭く。よだれにぬれたノートはくしゃくしゃになっていた。
「お風呂から出たら、すっごい爆睡してたんだよ。で、起こそうと思って何度も声をかけても全然起きないんだから、もう!」
「ごめん、ごめん。急いでお風呂入ってくるよ。未玖は先に寝といていいからな。」
未玖をなだめようとすると、ぷ~っと口を膨らまして怒っていた。俺はぬれた髪の毛をバスタオルでふいてやるとすぐに落ち着いた。かわいいやつだ。
一通り拭いてやった後、風呂場へと直行する。親父が帰ってくる前に風呂に入っておかないと。部屋着を脱ぎそれらを洗濯かごに入れる。そして、風呂場のドアを開けてある程度体を流したあと思いっきり湯船につかった。
どっぱ~ん、と水しぶきをあげてたまっていた湯があふれ出す。排水溝へと流れていく水をみながらついさっき見た夢に思慮を巡らした。
何も聞こえない真っ暗な闇の中。そこに重力という概念は存在せず考えるだけでも不安と恐怖をそそるような空間である。しかし、何故か居心地が良かった感じがする。このまま目が覚めなくてもこの状況をそのまま受け入れることが出来たはずであった。夢とは何か自分が抱えている潜在的な心を映し出すと言うが今あの父親以外に特に悩みなどない。風呂から出た後に夢占いみたいなものを調べるか、そう思った。
全身の毛穴から汗が噴き出てきた。体が熱くなってきたのを確認すると髪を洗うために湯船から出る。ボトルからシャンプーを出すと良い匂いが風呂場内を満たす。目にしみたシャンプーを洗い流しながらコンディショナーで整える。最後に歯を丁寧に磨いて、再度湯船につかった。
すると突然、玄関先で未玖が声を上げた。すぐさま、俺はドアを開けて状況を尋ねる。ぬれた体に風が当たって寒気がして体がその場で震え上がった。
未玖は何年も使っているだろう古びた財布を片手に持ってこちらに走ってきた。
「お兄ちゃん、どうしよう。お父さんお財布忘れて行っちゃった。」
「え、まじかよ!?」
「本当!これって持っていったあげたほうが良いよね。」
「うん。てか、持って行かないと怒られるぞ。」
「そうだよね、、、。でもお兄ちゃんはお風呂まだだし私が行ってくるね!」
俺は行こうとした未玖の袖を瞬時に掴んだ。
「いや、だめだ。こんな夜に女子一人が出歩くのは危ないよ。」
「でも、、、」
「大丈夫。場所だけ教えてくれ。全力で走って行ってくるから。きっと間に合うさ。」
「分かった、、、」
俺はすぐに風呂から出て全身の水気を拭き取った。部屋着に着替えている一方で未玖はその間店の住所を調べてメモに書いていた。俺はメモを受け取ると靴を履いてガラッと玄関の扉を開ける。
しかし、なんと空は黒い雲で覆われており既にポツポツと雨粒が落ちてきていた。夜であり近くに電灯もないせいかいつもは見慣れた景色も真っ暗闇に染まってしまっていた。そして、その景色を見た途端、さっきの夢を思い出す。デジャブか何かを疑ったが今はそんなこと考えている暇はない。しかし、今度はこの暗闇を簡単には受け入れる覚悟はなさそうだ。
「雨降ってるよ。どうするの。」
「ちょうど良かった。財布ついでに父さんの分と傘2本持って行くよ。」
未玖の心配そうな顔を見て俺はそう強がってみせる。本当はこんな真っ暗闇を住所だけしか知らない場所へとつっぱっしていくのは高校生でも怖い。とはいえ、未玖に行かせるわけにも行かないし、かといって行かないという選択肢を採ることも出来ない。俺は静かに覚悟を決めた。
「行ってきます!」
靴のつま先を地面にトンと落とすと俺は暗闇の中へいきよいよく飛び出した。未玖は相変わらず心配そうな表情を浮かべていたがかまわず闇の中を突っ走る。近所のかすかな家の光を頼りにメモに書かれた住所へとただ走って行く。
何分も走り続けると所々出来た水たまりを踏んづけたせいで足は既にグチョグチョにぬれてしまっている。傘はさしているが勢いも強くほとんど顔や体に雨が当たってしまっていた。
それでも気にせず走っていると俺はぬれたアスファルトに足を取られて頭から転んでしまった。幸い、手をつくことは出来たが手からは血がドクドクと出ていた。傷口に追い打ちをかけるように雨水が降り注ぐ。俺は気にせず進もうとすると、今度は右足に鈍い痛みが走った。見てみるとかすかに赤く腫れ上がっているのが見える。どうやら、転んだときにくじいてしまったみたいだ。
俺は必死に痛みをこらえながら足をも引きずり進み続ける。今日の見た夢とはまるで大違いじゃないか。なにが、デジャブだ。なにが、心地よいだ。こんなの、あんまりじゃないか。そもそもなんで俺がこんな事をしなくちゃならないんだ。
むしゃくしゃした気持ちが俺の心を覆い被さる。そもそも財布を忘れた父親が悪いんだ。少しは金が払えなくてつらい思いをすれば良い。そんな色々な考えが頭によぎっては痛みによってすぐに消えていく。それを繰り返ししていると、遂に住所の近くへきた。あの角の信号機を曲がればつくはずだ。
だが俺は信号をよく見ずに渡ろうとした。すると、ブーーー!というクラクションの音と共にすぐ目の前にトラックがすぐそこに迫っていた。俺は慌てて路肩によけようして側にあった水たまりに尻餅をついたしまう。トラックも俺をよけようとして急ブレーキをかけた。
「おい、ガキ!赤信号だろうがばかやろう!死にてのーか!」
運転席の窓からいかにも教育を受けて居なさそうな男がこちらに向かって叫んでいた。俺はただその男を見つめるほか無かった。
トラックは去って行った後、俺は腹いせにそいつに向かって何か投げようと思い手に持っていたメモを投げようとした。しかし、既にぬれてしまっているメモは手に力なく張り付いてしまったまま飛びそうにもなかった。
俺はもはや全身が濡れすぎていて自分が涙を流しているのか分からなかった。もう何も考える事もなく足を進める。信号を曲がると、もう夜だというのに明々と電気が付いたネオン色の店が立ち並んでいた。中には太った男性と色気をまとった女性が腕を組みながら歩いているのとすれ違ったりした。彼らは俺のことをまるで薄汚いホームレスを見るかのような目で見てくる。俺がにらみ返すと彼らは目をそらした。
雨は段々と小雨になり何人かすれ違った後には既にやんでしまっていた。そして俺は最後の力を振り絞って遂にお目当ての看板の前へと着いた。
『~ギブミーラブ~ あなたの愛をください。』
看板は相当ふるいようで文字の電気も所々消えかかっていた。店の名前とこじゃれた台詞が絶妙にダサい。そんな看板が付けられている店に足を進めようとした瞬間店のドアがガチャリと開いた。そこには産まれたときから見てきた男と、手を繋ぐ一人の「少女」、いや女の姿が光に映し出される。男は俺を見るなり声を上げた。
「え、おい!なんでお前がここにいるんだよ!?」
「あの、父さん。財布、忘れていったよね、、、。」
「は?あ、いやいらねーよ!俺既に金払ってるんだぞ!」
「え?えっと、、お金はどうしたの、、、。」
「だから、お金はポケットに入れて出かけたんだよ!アホが!財布は置いてったの!てか、お前ずぶ濡れじゃねーか、気持ち悪い。」
「え、じゃあ、財布も傘もいらなかったってこと、、、、?」
「当たり前だろ!そもそもこういう店は前払いの店だから財布忘れてたら気づいて帰ってくるっつてんの!余計なことすんな、カスが!」
そう文句を付けると男は俺にペッと唾を吐きかけた。俺はそれを聞くと全身の力が抜けてその場にしゃがみ込んだ。
「そんなとこにすわんな!」
男は再度叱責して気が済んだのか、ただ呆然と成り行きを見つめていた女性に話しかける。
「ありがとう。葵ちゃん。フェラが上手くてびっくりしたよ。今日は本当に楽しかった。また、来るね。」
「私も楽しかったですよ。また、ここで待ってるね。」
女はそう言うと男のほおにキスをした。男が照れているのが見える。
「ありがとうな!」
男は座り込む俺に一瞥もくれず別れ際手を振り帰途についた。女は男が見えなくなるまでずっとにっこりと笑い手を振りかえしていた。
俺はずっとうつむいたままであった。男が言ったことがまだ脳に残っている。俺はなんで、何のためにぬれてきたのか。何のために足を痛めたのか。何のためにここまで来たのか。何のために、、、、、生きているのか。
すると、横でドアの音がした。きっとこんなやつにかまわず女が店に戻っていったのであろう。女の顔はよく見ていなかったがこんなところで働くような人間だ。どうせクソみたいな顔でクソみたいな生活を送っているのだろう。
そんな風に思っていると、再びドアの音がすると同時に俺の頭にラベンダーが香る何かが覆い被さってきた。取ってみるとバスタオルである。俺はゆっくりとその方向を目を向けた。
そこではどこか悲しげな目をした「少女」、いや女が俺のことを見つめていた。
その目からは俺は一体何を感じたのか、今となってはよく覚えていない。
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