悲劇のヒロイン

ノートルダム

誰か。私のことを聞いてください。


「おかあさん。私、〇〇高校行きたいの」

「どうして? 近所の■高の方がいいんじゃない?」

「でも」

「絵里花姉さんは由雄君と同じ高校に行きたいんだよねぇ」



 名古屋駅から徒歩数分のところにそのマンションはあった。

 華子と夫、聡、娘二人が住む部屋はマンションの七階にある。


 決して広くはないが、親子四人が住むには十分なスペースがあった。

 



 華子の地元も愛知県にあった。

 彼女の家は、地元ではかつて名主だったらしく、古く大きい家だった。


 華子はその家で次女として生まれた。

 上には兄が一人、姉が一人いた。


 七つ年上で家事手伝いだった姉は華子が高校生の時に、父の紹介で地元の建設会社の長男に嫁いでいった。

 華子も高校を出た後の進学は認められず、地元の信用金庫に一般職として就職した。


 バブルもとうの昔に崩壊し、就職氷河期と呼ばれた時代だった。それでも一部の極端に傾いた企業を抜かして、ほとんどの老舗企業は新卒採用を意地で継続している時代だった。


 華子の就職は、いってしまえば親のコネでの就職だった。

 この時代は裏口入学もそれなりに横行しており、いろいろなところで、いろいろと公平性に欠けた時代でもあったのだ。



 そこで、上司に紹介され今の夫、今井聡志と出会った。



「結婚したら家に入って欲しい」


 彼は、結婚の打ち合わせの際にそんなことを華子に提案していた。

 時代は平成の前半、まだ昭和の残滓が残っている時代であり、銀行などの金融系も一般職と総合職などは全く別物として扱われ、華子のような高卒は結婚したら職場を去るのが当たり前の時代だったのだ。


 就職して二年、やりがいも感じないうちに華子は会社を辞めた。

 その後に襲ってきたリ〇マンショックやプ〇イム積のバブル崩壊などを考えると、結局華子などのような中途半端な人間が職場に残れた保証は全くなかったといえばそれまでだが。。


 それから、結婚したもののなかなか妊娠できず義理の両親にはチクチクと嫌味を言われ続ける日々だった。

 嫌味に数年耐えた後に生まれたのは女の子だった。

 次こそはと願ったにも関わらず、一年後に生まれたのも、また女の子だった。


 その時の義理の母の顔を今でも華子は忘れていない。


 

 あの時、ようやっと授かった娘二人は今は中学生になっていた。

 姉の絵里花が中学三年生、妹の亜梨花は中学二年生だ。



 絵里花は父親に似たのか、外面はよいが結構クレバーな性格をしており、また少し自己中心的なところがあった。

 華子にはちょっととっつきにくい性格に思えた。


 亜梨花は逆に人懐っこく、人の懐に入ってくるのがうまい子だった。おねだりも得意でついつい甘やかしてしまう。

 あの義理の父母でさえ、亜梨花には激甘だった。もっとも成長とともに父親の聡志に表情も性格も似てきた絵里花はもっと気に入られているようだったが。



 絵里花の進路の話を聞いていたのは、夏休みの始まる前、絵里花の通う塾の夏期講習のパンフレットを見ながらの話しだった。今年高校受験ということもあり、夏休みはほぼ塾通いになりそうだ。


 〇〇高校は、同じ学区内にあるとはいえ自宅からは離れた場所にあり、電車も使って四十分ぐらいの通学が必要になる。

 ■高なら地元にあるため自転車や徒歩での通学範囲内になる。


「まあ、いいじゃない?でも大丈夫なの?」


 ○○高校は偏差値が■高より偏差値が高い。

 亜梨花の成績では些かギリギリだったと思う。


「がんばるよ」


 父親の聡志は、娘たちの進路には興味がない。

 娘たちのおかげで義理の両親の態度は軟化したが、男の子を生まなかったことで、聡志の子供への関心が一気に離れたのだと思う。

 生活費は家に入れてくれるが、明細などを華子に見せることもなく、華子は夫の収入を把握していなかった。


 学費に関しても、彼は「問題ないよ」ぐらいのことしか言わなかったので、取り合えず娘たちには公立に入るように伝えてはいた。


 華子はどうせ結婚するのだから女には学歴なんか必要ないという、華子の父の言葉を信じていた。



 聡志は絵里花とはたまに話しているようだが、その内容が華子に伝わることはなかった。



 華子は普通の幸せを手に入れたはずだった。

 




 



「精神科に通っているのか」

「はい」

「そんなに今の生活が嫌か」

「……」

「好きにしろ」


 最初は、ただの腹痛だと思っていた。

 医者に行くとその腹痛が精神的なことが原因で発生しているということが分かった。


 言ってしまえば、ストレスだ。



 華子はそれから、精神科でカウンセリングを受けるようになった。

 娘たちは心配してくれた。だからといって中学生の彼女たちにできることはほぼない。


 聡志が病院に付き添ってくれることはなかった。

 ただ、何かあってはということで、車の運転は禁止されたため、華子は電車で郊外の精神科に通った。


 華子は、軽度の鬱と診断された。


 いくつかの薬が処方された。


「どうして幸せになれないの」

「どうして私ばっかりこんなに苦労しないといけないの」

「私だって、仕事続けたかった」

「家事だって誰も手伝ってくれない」

「お義父さん、お義母さんは言いたいことばっかりいって」


 いつしか、華子は不満をちゃんと言葉に出せるようになった。

 夫とも何度も話し合った。


 はじめは煩わしそうにしていた聡志だったが、鬱と診断されたあたりからは段々と家事などを負担してくれるようになっていった。



「先生。私、わがままいっていますか?」

「私は自分が幸せだと思っていました。だってそうでしょう。こんなに頑張っているのに、幸せになれないなんて、間違っています」


 女が働く必要はない。夫に従って、家の守っていればいい。

 両親に教えられたままに華子は生きてきたつもりだった


 華子は間違わなかったはずだった。


 華子の姉は、その後不倫騒動を起こし離婚していた。

 建設不況でパートで働きに出て、そこで男を捕まえたという話だ。




 だから、その長い髪の毛を見つけた時、華子は見なかったことにしたのだ。





 華子も娘たちも、髪の毛は長くしていない。

 しかし、その髪の毛は長く真っ黒だった。



 ある日、掃除をしているときにソファーにこびりつく、その長い髪を華子は見つけた。


 専業主婦で外に働きにでていない華子はほぼ一日、家にいるのだ。

 だから夫が家に女を連れ込むことは、ほぼ不可能なはずだった。


 華子が趣味の教室や、資格の講座に通ってるとはいえ、家を開けてもせいぜい数時間、それも平日日中だけのことだ。


 可能性があるとすれば、聡志が服に着けてきたその長い髪が、なにかのはずみでソファについたという状況。


 直ちに、それが聡志の不倫とは結び付くわけではなかったが、それ以降華子は夫の態度を観察するようになった。



 そして、カウンセリングへ通う期間は伸びてゆく。



 次に髪の毛が見つかったのは、華子が買い物などに使っている軽自動車だ。


 国産車のそれは、最近体の大きくなってきた娘たちを乗せるのは狭くなってきたが、最近の大型店は郊外に多い為、どうしても地方に暮らすには自動車は必要だった。華子が通っているカルチャーセンターやスポーツジムも車で行った方が早い。


 華子は結婚してすぐ、子供たちが生まれる前に教習所に通い、免許を取った。


 車内には複数の、やはり黒く長い髪の毛があった。

 華子はおぞましさに鳥肌が立つような感覚を覚えた。



 これはあきらかにおかしかった。



 この車を運転するのは、華子だけで夫は通勤などには別の乗用車を使っている。

 仮に聡志に愛人がいるとして、こちらの軽自動車に乗ることはないはずだ。


「ねえ。あなたちょっとおかしいの」



 華子はそれを見て、とうとう夫に相談した。

 今日掃除して沸かしたお風呂に、黒く長い髪の毛が浮いていたのを亜梨花が見つけたのだ。


「気のせいだろ?」


 聡志は気にすることはないとばかりに受け流した。

 けれども華子は見逃さなかった。


 聡志の顔が、一瞬こわばったことを。



 マンションは、夫婦の寝室、姉妹の勉強部屋兼寝室、リビング、客室、台所という普通の構成の部屋だ。

 職場で取引のある不動産屋から紹介されたらしい。


 新築ではないが、比較的新しいマンションで、部屋も華子たちが引っ越してくる前にリノベーションされていた。



「おかあさん。なんか変」


 夕食前、既に日は沈み外は暗い。

 華子は就職の準備を進めていた。


 部活から帰ってきた亜梨花は、部屋で勉強していたようだった。

 けれど、しばらくすると怯えた顔でリビングに入ってくると華子に告げる。


「どうしたの?」

「部屋の電気。なんかついたり消えたりするの」


 絵里花は塾に出かけており、まだ帰ってきていなかった。

 亜梨花は部屋で一人で勉強していたところ、突然電気が消えかかと思うとすぐに復帰。


 それがなんどか繰り返されたのだという。

 それも初めてではなく、何度か起きているのだという。


 事故物件ということも聞いていない。


「……いつから?」

「二週間ぐらい前かな? もっと前かも」



 ちょうど、最初の髪の毛が、見つかり始めたのもそのころだった。

 娘たちもまた、この家で起こる不可思議な出来事にまきこまれつつあった。



「また、雑音がする。。。」


 華子の携帯に雑音が入るようになった。

 最初は気のせいかと思っていたが、それが女の囁くような声に聞こえた時、華子は悲鳴を上げた。


 その現象は、娘たちのスマホでも発生していた。


「おかあさん……また」


 番後非通知の無言電話がかかってくるようになった。


 あからさまに、狙われているのは華子たちだった


 

 誰もいないはずの部屋で扉の開閉が行われる。



 モノがなくなったり、飾りの位置がふと変わっていたり、、



「やっぱり変。誰かいるみたい」

「私たちだけ?お父さんは?」


 そう、この現象は華子と娘二人だけがはっきりとわかるぐらいに露骨に発生するのに対し、聡志にはほとんど影響がないようだったのだ。


 

 




 直接的被害が少ないまま数か月が過ぎていた。

 それは同じぐらい解決策が見つからない日々でもあった。


 華子とて何もしなかったわけではない。

 けれども決定的な証拠を押さえられたわけではないのだ。



 そしてその事故は起こった。

 

 華子と娘二人で、絵里花の受験の合格祝いに出かけた時だった。

 絵里花は、念願の〇〇高へ無事合格した。



 ショッピングモールまで出かけ買い物をして、今日ぐらいはと早めに帰ってくる聡志と合流して、夕食を食べに行こうと移動していた時のことだ。


 華子の運転する車の目の前に、突然何か、人だったと思う。

 ナニカが飛び出してきたのだ。


 華子はハンドルを切った。ガードレールにぶつかり、軽自動車がひしゃげた。

 その衝撃で絵里花は額を、亜梨花は腕を怪我した。


 

 テニス部に所属していた亜里花は最後の春休みを断念した。

 絵里花の傷は、治療には時間とお金がかかるものだった。



 そんな事故だったのにも関わらず、飛び出してきた人はどこにもおらず、結局華子のハンドル操作のミスということになった。




 新学期に入る前に、華子は聡志に別れを切りだした。

 華子はこの頃には理解していた。夫の不倫相手の生霊だ。


 はっきり見たわけではないが、車の目のまえに飛び出してきたのは若い女だった。


 その女を華子は見たことがあった。

 それも夫の職場、華子も務めていた信用金庫の窓口で。


 不倫相手の生霊が華子たちを殺そうとしたのだ。

 


「あなた、別れてください」

「どうしてだ」


 華子は興信所に調べてもらった調査結果と、写真を取り出した。


 娘たちはまだ帰ってきていない。

 ある休日のことだった。



 決定的な証拠は見つからなかったが、聡志がその女とチェーン店のコーヒーショップで話を

しているところを写していた。


 それも一回や二回ではない。

 

 何回も密会を重ねている写真だった。


「いやこれは……」

「言い訳は結構です。こうして証拠もあります」



 弁護士に相談したが、証拠としては弱いといわれた。

 しかし幸い娘は、亜梨花は賛成してくれた。



 そして、長い調停の末、華子と聡志は別れることになった。

 聡志になついていた絵里花は夫に引き取られ、仲良かった亜梨花は華子が引き取ることになった。



「私は私の人生を歩みます」



 華子は夫と別れたが、結局不倫は証明できず、慰謝料は取れなかった。

 けれども養育費に関しては払ってもらえることになったが、華子は働きに出ることにした。


 華子はコツコツと勉強し、医療事務の資格を取っていた。

 そして実家のコネで総合病院の事務局へ就職した。









 変な本。



 意外と個人でも出版が難しくない時代になっていた。

 妹から母がオンデマンドで、変な本を出したと聞いて、絵里花は試しに買ってみて、微妙な気分になった。


 正直母に嫌われていた絵里花は、両親が離婚して以来母と二人きりで会ったことはない。

 会うときは大体家族四人で会うようにしていた。


 妹とはそれなりに頻繁に会っていた。

 母は旧姓に戻し、谷華子、妹も谷亜梨花になっていたが、なんか微妙な気分だ。


 あの幽霊騒ぎと母が称する離婚騒動から四年が過ぎた。

 絵里花は無事、大学に入学して二年生になる。


 妹の養育費も抱える父は多少無理したようだが、父は体育大学への進学を許してくれた。

 母は絵里花のことをガリ勉の運痴と信じ込もうとしていたようだけど、絵里花は国体に出れる程度には優秀な体操選手だった。


 かまってくれる亜梨花大好き人間だった母の中で、絵里花が何しているかなんて関心の外なのだ。色々と協力してくれたのは父だった。



 あの幽霊騒動だってそうだ。


 結局、父は不倫なんかしていなかったけど、職場の女性にストーカーされていた。

 部下だった女性にちょっと優しく指導していたら、付きまとわれるようになったそうだ。



 どこかで鍵をコピーされたらしく、その女性は部屋まで侵入していたそうだ。


 父は、なるべくことを穏便に済ませようと、なんども女性と話し合ったそうだ。

 もちろん二人きりではなく、上司なども交えて。



 そう、母は雇った興信所の調査員を買収して、証拠の捏造までしていた。

 そして徹底して悲劇のヒロインを演じた。



 母の両親のことは知らない。

 頑固な人たちらしいけど、大学に入るころになるとほとんど縁が切れて、会うことはなくなった。

 妹が言うには、頭が固いだけで財布の口は緩いとか。



 父方の祖母が亡くなった時、母は葬式にとうとう姿を見せなかった。

 嫁姑の戦いがあったかなんて、絵里花は特に聞いてはいないが、きっとこの変な本に書いてあることも全部が母の被害妄想ということもないのだろう。



 亜梨花の情報だとそろそろ再婚するそうだ。

 その亜梨花は看護系の大学に入ったとのことだった。


 結局、その資金は結局母方の祖父母が出してくれたとか。

 母の再婚相手は医者だそうだ。相手もバツイチだとか。

 ぶっちゃけ、絵里花にとって今更どうでもいいことだ。




 父は、「懲りた」とかいって再婚する気はないようだった。




 まあ、父の女運が悪いのは否定しない。




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