21回目の冬を迎えて ~無貌の神の悪戯 Ever After~

和辻義一

21回目の冬を迎えて ~無貌の神の悪戯 Ever After~

「あ、お父さん。おかえり」


「ああ、ただいま」


 仕事から帰った俺は、玄関まで出迎えてくれた娘への挨拶もそこそこに、妻が待っているであろう居間へと足を運ぶ。妻と夫婦の契りを結んでから、今年で二十一回目の冬を迎える。


 九の刻(午後六時)までまだ少し時間があったが、陽は既に落ち、窓の外の景色は暗闇に包まれていた。隣近所の農家の窓から漏れる灯りの数は、昔に比べて減っていた。馴染み深い顔ぶれが何人もいなくなり、その代わりに新たな顔ぶれが少し増えた。およそ二十年という年月としつきは、なかなかに長いものだった。


 我が家であるこの教会が孤児院を兼ねていた頃には、六人の孤児達と一緒に暮らしていたが、今は皆立派に育ち、それぞれの人生を歩んでいる。同じ街の中で暮らしている子もいれば、違う街へと移り住んでいった子もいた。


 街の中で暮らしている子らは、時々顔を見せに来てくれる。違う街に住む子らからも、時々手紙が届く。俺がこの教会で寝起きをするようになる以前からの子らとのやり取りを含めると、妻と娘との三人暮らしの割には、なかなか賑やかな家だと思う。


 居間にはやはり、古いソファにひっそりと腰かけた妻の姿があった。俺は身に着けていた防寒用の外套を脱ぎ、妻に言った。


「ナタリー殿、今戻った」


「お帰りなさい、マタさん」


 俺の顔を見て、妻はいつものように弱々しく笑った。


 ここ一年程の間、妻はあまり体調が思わしくなかった。常日頃から身体がだるく、すぐに息切れを起こす。夜中に発熱することも少なくない。髪や肌にもつやがなくなり、以前に比べてかなり痩せた。医者にも診せたが原因は何一つ分からず、ひとまずは煎じた薬草を飲んで安静にし、出来るだけ滋養のあるものを口にするしかないだろうと言った。


 俺は脱いだ外套をハンガーラックにかけ、懐から小さな木箱を取り出して妻に見せた。


「紅茶が切れかけていたから、新しいものを買ってきた。あとでレイと一緒に、三人で飲もう」


 妻が笑って頷いた。俺は娘がいる炊事場へと足を運び、娘にも木箱を見せて言った。


「レイ、食事の後にこの紅茶を頼む」


 炊事場には、夕飯の良い匂いが漂っていた。


「分かった。今ちょうどご飯が出来たところ。お父さん、運ぶの手伝ってくれる?」


 俺は頷き、娘が盛り付けた料理の皿を盆に載せて居間へと運ぶ。孤児達がいた時には別室の食堂で食事をしていたが、妻と娘との三人暮らしになってからは妻の体調も考えて、居間に小さめの食卓を置き、そこで食事を摂るようになっていた。


 食卓に料理の皿を並べ、妻の手を引いて食卓の椅子に座らせる。娘と共に三人で食卓を囲んだところで、娘の主導で女神エスターシャへの祈りを捧げ、食事を始めた。


「そういえば今日、ジローから手紙が届いたんですよ」


 ゆっくりと少しずつ食事を口に運びながら、妻が嬉しそうに笑った。息子は今、教会の祭司となるための修行で家を離れ、別の街の神殿で勉学に励んでいた。


「ほう。して、そのふみには何と?」


「神殿の食事は相変わらず味気ない、家の食事が恋しいって」


 匙を運ぶ手を止めた妻が、さもおかしそうに笑った。どうやら今日は、いつもよりも体調が良いらしい。


「兄貴ったら相変わらず、子供っぽくて食いしん坊なんだから」


 妻の言葉を聞いた娘が、呆れたように言う。


 金髪碧眼の息子は、若かりし頃の妻とそっくりの容貌をしていた。小さい頃から近所の女の子達にも人気があり、それは今でも変わらない。気立ても優しくおっとりとしているが、存外に心の芯は強い。そんなところも、妻によく似ていた。


 一方の娘はというと、俺――というより、正確には俺の姉に似ていた。今年で十五になる娘は、髪と肌の色は俺と同じで、目の色だけが妻と同じ碧眼。我が娘ながら目鼻立ちは整っていると思うが、やや目元がきつい。その上、武道の才能には恵まれなかった息子に比べて腕っぷしが強く、俺が教えた柔術や杖術についても、師範代を名乗らせても良い程の腕前だった。


 また、娘は小さな頃から面倒見の良い姉御肌の性格で、近所の友達を引き連れては、様々な悪戯をしてまわったものだ。仮に夜道を一人で歩かせても平然としているような娘だが、嫁の貰い手だけが唯一最大の気がかりだった。


「まあ確かに、神殿の食事は清貧が第一でしたからね」


 元祭司の妻は、自身の修業時代を思い出したのか、懐かしそうに目を細めた。俺自身には分からないことだったので、その場は曖昧に相槌を打ちながら食事を口に運んだ。幸いなことに、料理の腕前については、娘は俺ではなく妻に似てくれていた。


 食事を終えた後、俺達三人は娘が淹れてくれた紅茶を口にした。紅茶には良い香りのする焼き菓子が添えられていた。


「そう言えば、今日の昼過ぎにはティナおばさんも来てくれたんだよ。このクッキーは、その時に貰ったお土産」


 ふと思い出したかのようにそう言いながら、娘は焼き菓子を一つつまみ、口の中へと放り込んだ。そんな娘の仕草を、妻はたしなめるかのような目で見ていたが、俺にしてみれば二人のそのやり取りが、何だかとても懐かしかった。


「レイ。お前のそういうところ、昔のティナ殿にそっくりだ」


 ティナ殿も今は二児の母で、夫と共に街中で小さなパン屋を営んでいる。これまでにも時々顔を見せに来てくれていたのだが、妻が体調を崩し始めてからは、その頻度が上がったように思う。


「そお?」


 余りにもあっけらかんとした娘の態度に、妻が呆れたようなため息をついた。


「そんなところは似なくても良いんですよ、全く」


 妻の物言いも、あの頃から全く変わっていない。思わず俺がほくそ笑むと、妻がやや冷ややかな目を向けてきた。


「何ですか、マタさん?」


「いやなに……本当にあれから二十年近くもの年月がたったのかと、不思議に思っただけだ」


 食後の紅茶を終えた後、妻は娘の助けを借りながら、娘と共に入浴を済ませた。このような時には、娘が同じ屋根の下にいてくれることが大変有難かった。


 娘がそのまま妻を寝室へと連れていってくれたので、俺は浴槽の湯を入れ替えて手早く身体を洗い、夜着をまとって寝室へと向かう。


 寒々とした寝室の机の上には、灯をともされた手燭が置かれていた。その炎が小さくゆらめく中、妻は古びた薄紫色のストールを肩にかけて、寝台の上で身を起こしていた。


「ナタリー殿、起きていては身体に障る。早々に休まれよ」


 俺はそう言って、妻に横になるよう促したが、妻は力ない笑みを浮かべてみせた。


「マタさん……眠る前に少しだけ、お話をいいですか?」


「そのように改まって、どうなされた?」


 妻の隣に腰かけた俺に、妻はそっと身を寄せながら言った。その声は、とても弱々しかった。


「ごめんなさい、マタさん……私、もうそんなに長くないかも」


 俺は努めて冷静を装って尋ねた。


「……何故、突然にそのようなことを?」


「自分の身体のことだから、何となく分かるんです……少しずつですが、身体のあちらこちらがおかしくなってきています」


「そう思うのは、今の体調が思わしくないからだ。医術においても『病は気から』などと申す。気弱なことを口になされるな」


 俺は声の震えを悟られないよう、腹の底に力を込めるようにして言った。再び妻に横になるよう促し、机の上の手燭の灯を吹き消した後、自分も妻の左隣に身体を横たえる。


「まだ元気があるうちに、きちんと自分の口で伝えておきたいのです」


 暗闇の中、妻が俺の横に寄り添い、俺の右肩にそっと触れた。


「私はマタさんと出会えて、本当に幸せでしたよ。ありがとうございます」


「……眠る前に、そのようなことを申されるな」


「ジローもレイも、立派に育ってくれました。本当にありがたいことです」


「……」


「思い残すことがないと言えば嘘になりますが、後悔は何もありません。これで私も安心して」


「明日、それがしの仕事は休みだ。天気とそなたの体調が良ければ、レイと三人で少し散歩にでも行こう」


 俺は妻の言葉を遮るようにして言った。妻は少しの間無言だったが、ややあって疲れたように息を小さく吐いた。


「ええ、そうですね……そう出来れば良いですね」


「ああ。夜空は晴れ渡っていたから、きっと出来る。そのためにも、今宵は早く休まれよ」


「はい」


 妻は俺の胸の上に右手を伸ばし、俺の右肩に寄りかかるようにして目を閉じた。妻は元々か細く華奢な身体つきをしていたが、最近では病のせいで、その身体は更にか細くなったように感じられていた。


「今夜は寒いから、とても温かくて気持ちがいいです……マタさん、おやすみなさい」


「……ああ、また明日」


 それから妻の吐息が寝息に変わるまでの間、俺は歯を食いしばるような思いで身体の震えを我慢した。


 妻の体調のことについて、娘と直接話をしたことはほとんどないが、常に妻の身の回りの世話をしてくれている娘は、きっと俺以上に妻の体調の悪化に気付いていることだろう。その娘が、顔色一つ変えずに母と向き合ってくれている手前、俺が無様な姿を見せる訳には行かなかった。


 俺にはこの世界の神への信心は無かったが、明日もまた妻と共に朝を迎えることができるよう、心から願わずにはいられなかった。それと同時に、無貌のことがちらりと脳裏をかすめたが、おそらくあの女が再び姿を現すことはないのだろうと思い、無貌のことを忘れ、胸の上に置かれた妻の右手をそっと握って眠った。

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