最終章
流星の墓にいくことを母さんに伝えることに、何の意味があるのだろう。わからないけれど、そうするべきである気がしてならない。
朝食の後片付けを終え、すこしだけのんびりとしていた母さんに声をかけるという簡単なことですら、どきまぎとしてしまって、俺はうまく声が出なかった。
「母さん」と呼ぶことに、こんなに緊張したことって、かつてないような気がする。
「あのさ……俺、流星の墓参り、しようと思うんだ」
流星、というその名を母さんに対して発したのは、たぶん三年ぶりだと思う。母さんの目が見られず床に落としていた視線を恐る恐る上げれば、母さんはこちらをまっすぐ見ていた。「そう」と呟いた母さんは、「どうして?」の代わりに「なにかあったの?」と俺に訊ねる。
「なにか……いや、なにかあった、というか」
「詳しいことはイツカに訊いてほしいんだけどさ」と言って、ああこの言い方じゃ、イツカにすべてを擦り付けてしまうなと俺は再び視線を逸らした。「イツカのことで、その……これを訊いても、なにかするとか、しないでいてほしいんだけどさ……」
そう前置きをしてから、俺は掻い摘んでイツカのことを母さんに話した。これをするのは俺の役目ではない、とは思うけれど、やっぱり、「なにかあったのか」と訊ねられて、「なにもない」と言い切れるほどの勇気を、俺は持てなかったのだ。
母さんは、イツカが担任に虐められていたことや、流星が死んだ理由をきいて、顔を真っ青にしていたけれど、激昂することはなかったし、勝瀬を悪く言うこともなかった。いろいろな感情を押し込めながら、なにかをずっと考えているような静かな間を置いて、母さんは口を開く。「イツカ、私にもちゃんと話してくれるかしら」
ひとり言のように呟いた母さんのその言葉は、なんだか妙な重みがあって、俺はなにも言えなくなった。「きっと話してくれるよ」くらい言えばよかったのに、それすら口から出てこない。代わりに俺は一度ちいさく頷いて、母さんに、「流星のとこ、いってくる」とだけ告げて家を出た。
流星の墓地は、もうだいぶ前のことみたいだけれど、夏休みの始めに一度行ったから、道筋はきちんと覚えているし、墓の場所を書いたメモもしっかり残っていた。
夏の気温は高くなるばかりで、勿論落ち着く気配など全くなく、いつかこの夏も過ぎることが信じられないほどに蒸し暑い。
墓地は、青々とした緑に囲まれた静かなところだ。ここの前には舗装された道路があって、ときどき自動車が通っていくけれど、近くに立ち並ぶ商店でさえ古めかしいものばかりで閑散としている。
墓地に足を踏み入れた時、ここに流星がいることを、いまだに信じられない自分がいた。でもいい加減、俺はちゃんと現実を見ないといけないのだ。
イツカや流星のことを調べて、その原因がやっとわかって、そこからどうするのか――原因をおばさんに伝えるかどうかも、俺はいまだに迷っていた。
イツカの兄として、というのだろうか……なんだかこの件でイツカを責めるのは違うと思うし、一見喜乃の罪が一番重たく見えていたとしても、きっと喜乃にだって、罪なんて最初からなかったのだろう。
喜乃は、たしかにきっかけを作った。でもそれをいえば、きっとイツカも、流星本人だっておなじで……。誰がどれだけ悪いのかだなんて、馬鹿みたいな問いかけだ。
水を汲み、迫田家の墓の前で手を合わせ、俺は流星の墓をまっすぐ見る。なんでこんなに、何の感慨も浮かばないのだろう。やっぱり、こんな場所にあの流星がいるなんて、まだ俺は信じられてないからだろうか。それとも、それほどまでに俺は薄情なのだろうか?
「……流星」
名を呼んでみる。真っ青な夏の空に、墓地は無性に寂しく映えている。周りを囲む青々とした林と、時折近くを通る自動車の音。
いろいろなことを話そうと思っていたのだ。でも、なにも言えなかった。ぼうっと流星の墓の前に佇むだけで、俺はなにひとつ――楽しい話のひとつ、訊かせてやれなかった。
でも、と思う。言いたいことや話したいことは、楽しい話もそうだけれど、そうじゃなくて。
「……こんなのさ、正しいのかわからないんだけど」
頭を掻く。流星がいる実感もない冷たい石の前で、俺は言葉を選んでいた。「ありがとうな。……イツカのため、だったんだよな?」
「ありがとう。でも、お前、本当に馬鹿だよ……」
馬鹿だよ、と声に出した瞬間、急速に理解する。
迫田流星は、死んだ。三年前のあの夏の初めに死んだのだ。イツカへの罪滅ぼしという免罪符を掲げ、きっと流星は自分の為に死んだのだ。やっとその実感がわいてきて、でも墓石を蹴りつけるような怒りもなく、俺はただ悲しかった。
じわじわと、涙が溢れてくる。そのとき初めて、俺は迫田流星のために泣いた。
ここまで理解するのに、俺たちはひどく遠回りをして……でも、三年という短いようで長い時間も、きっとこうやって流星の前に立つために必要だったのだと、やっとそう思えた。そう思えた理由は、やっぱり分からないけれど。
「お兄ちゃん」
不意に、聴こえるはずのない声が聴こえて、俺は泣いていた顔を上げ、後ろを振り返った。「イツカ」と驚いて彼女の名を呼ぶ。
イツカは白いワンピースを着て、しかめた面で俺を見ていた。
「お前、どうして」と俺が困惑して訊ねると、イツカは「流星くんのお墓にいくって、お母さんに言っていたんでしょう? お母さんが教えてくれた」
「いや、そうじゃなくて……なんでお前、こんなところに」
俺の問いかけの意味がわからないようで、イツカは首を傾げている。俺は「まあいいか」と思い直しながらも、痛む頭を抱えた。引きこもっていたはずのイツカが、当たり前のように流星の墓にいるアンバランスを、彼女にどう訊ねれば、正しい回答が得られるのだろう。俺がそうぐるぐる考えていると、イツカはやっと俺の問いへの答えをくれた。「あなたもちゃんと、流星くんのお墓にいかないとね、って言って、お母さんが泣いてたの」
「泣いてた?」とびっくりして訊き返した俺に「うん」とだけ頷き、「帰ろう、お兄ちゃん」
そういって、イツカは俺に背を向ける。本当にすたすたと帰るイツカの背を、俺は慌てて追いかけた。「おい、流星になにも言わないのかよ」
「お兄ちゃんが、言いたいことをぜんぶ言ってくれたもの」
俺を振り返り、イツカは悲しそうに眉尻を落として笑った。その笑顔に、ただでさえ緩んでいた涙腺が刺激されたのか、俺まで泣きそうになって鼻を啜った。
「流星くんに、もう会えないんだよね。なんか、あのお墓に手を合わせているお兄ちゃん見たら、やっと実感できた気がする」
白いワンピースの裾をなびかせ、そう言って彼女はふたたび前を向く。「寂しいね」と呟いた彼女の不健康な白い肌が、青空と林の緑を背景にして浮かび上がっているように見える。ざんばらに切りそろえた頭は風に吹かれたせいか、わずかに乱れていた。
俺は墓地を出ようとしながら、再び迫田流星の墓を振り返った。でも、流星は顔を見せることなく、冷ややかな石の下で眠っているのだ。
あの夏にできなかった献花をし、墓に手を合わせて、そこからやっと、俺とイツカは前に進めるのだろう。だから、俺たちはこれからなのだ。
俺たちは、
もっとちゃんと顔を上げて、前に進めるように、迫田流星というひとりの少年を、忘れないように。
俺たちは、願いをかけるのだ。
流星に願い事 なづ @aohi31
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