第五章
1
「ゆびきりげんまん。嘘ついたら、針千本飲ます。ゆびきった!」
不安な私を励ますだけの「約束」なんて、言葉ばかりの他愛ないものだと分かっていても、それでも私はその指切りという行為に安心したのだ。
――流星くん。
色素の薄い茶色の目が、優しく細められるのが好きだった。
誰もが「ぱっとしない」という流星くんの外見も、私にはとても綺麗に見えていたのだ。それを、もう、誰にも伝えることはないのだと、誰に伝えても「意味がない」のだと、気が付いてしまうのが、酷く怖い。
指切りをしたのは、ある日の夜だった。
私は、どうしても学校に行きたくなくて、でも学校でなにかが起こっているわけでも、されているわけでもなくて。ただ、担任の先生が、私を見るときの目が、とても嫌だった。たったそれだけのことだけれど、私は家を飛び出して、公園に逃げ込んだ。
秋から冬にかけての、夜が長くなり始めた頃だった。次第に気温が下がり始め、夏ならまだ明るかった時間でも、薄っすらと夜の影を見せ始めている。
遊具の後ろに隠れて身を震わせる私を、家族は誰も見つけられなかったのに、流星くんはいとも簡単に見つけ出してくれた。
「五日、こんなところにいたの」と笑った彼のおかげで、私はやっと呼吸ができた気がした。
泣いていたのが恥ずかしくて、私は腕で顔を拭った。そんな私の手を引っ張って、流星くんは「いこう」と言う。「みんな、心配してる。それに、こんな時間に公園にひとりでいるなんて、危ないしさ」
「帰りたくない……」
そう小さな声で返した私の顔を覗きこんで、流星くんは首を傾げる。「なんで?」と彼が訊き返した。「学校、いきたくないから。ここで暮らす」と言った私に、流星くんはきょとんと目を丸くしただけで、ちっとも笑わなかった。
これが流星くんではなくお兄ちゃんだったら、きっとげらげら笑うか、ものすごく怒るかの両極端だっただろう。
でも、流星くんは真面目な顔で、私の前に座り込んで、こう言っただけだった。「なにかあった? 誰かと喧嘩したとか?」
「先生が」と、私は震える口で呟く。「うん?」と流星くんがまた首を傾げる。
「先生が、私のこと、こわい目で見る……」
「
いやだ、と首を振る私に、流星くんは困ったように顔をしかめた。「ううん……」と彼はまた唸って、「じゃあ、約束しよう」
「約束?」と私はその言葉を繰り返す。流星くんは「そう」と頷いて、「俺が、なにがあっても五日を守るから。それなら学校もいけるでしょ」
「約束……」
流星くんは、小指をこちらに突き出した。それでもうろうろと視線を彷徨わせる私に、「ゆびきり」と流星くんは言う。
ゆびきり……と私は流星くんの茶色の目を見る。澄んだ目だ。
「ゆびきりげんまん、嘘ついたら――」
流星くんは無理やり私の手を掴んで、小指を絡めてそうあの台詞を言う。「ゆびきった」と笑った彼に、ひどく安堵を覚えたのは、その行為自体が、形あるものより確固たるものに、私には思えたからだろう。
きっと、「流星くん」という存在が私に与える影響は、計り知れなくて……彼が「大丈夫」といえばなんでも心配なんてなくって、彼が「良いよ」と言えばそれは私にとっても良いものだったのだ。
そんな私の意志そのものだった彼が、「約束する」「守る」と言ってくれること以上に、私にとって安心できるものなんて、この世に存在しない。
それほどまでに、流星くんは私の「世界そのもの」だったのだ。
それがどれだけ狭くて、ちっぽけで、不安定なものなのか――。
彼を失くしたいまになってやっと、私はそれを痛いほどに感じている。
2
流星くんと約束をすることで、私ももうすこしだけ頑張ろうと思えたから、私は次の日も今まで通り、なにも知らない顔で学校にいくことができた。
いつもと同じに振舞うのは、疲れる。それでも、流星くんが「なにがあっても守る」と言ったから。だから私は安心して笑っていても良いんだ。
担任の勝瀬先生は、いつも冷ややかな目で私を見る。私がなにかをしたわけではないと思うのだけど、それは私の視点から見た話だから、もしかしたら私のほうも、勝瀬先生になにかをしたことがあったのかもしれない。
ほかの生徒にも、時々「えらそう」に見える、と私はこっそり思っているし、その威圧的な雰囲気は、やっぱりほかの子たちもちらりと口に出すことがあった。もちろん、勝瀬先生本人にではないけれど。
影口のように声を潜めて、「勝瀬先生ってさ……」と噂話。くすくす笑いがあまり好きではない私も、その話にはちょっと同意してしまうのだ。
たったそれだけのことだ。いじめられているわけでもなければ、うまくいかないなにかがあるわけでもない。ただすこし、先生がこわい、それだけ。
「なにがあっても、五日を守る」と笑ってくれた流星くんのことを考えると、なぜか勇気が湧いてくる気がする。
こころもち、いつもより胸を張って歩いていると、勝瀬先生とすれ違った。
「おはようございます」と挨拶をするだけなのに、声が途中で裏返ってしまって、私はあっと顔を赤くした。
先生はなにもきこえなかったみたいに、ふいと顔を背けて行ってしまった。
「やっぱり、こわい」と口に出したことが、きっと一番いけないことだったのだろう。
挨拶はきこえなかったはずのに、勝瀬先生はこちらをぎろりと睨みつけた。その目が剥き出しているように見えて、私ははっと自分の発言に気が付き、頭を軽く下げて走って逃げる。
――それからだった、と思う。
「今日は、学級会をします」
勝瀬先生が、帰りのホームルームでそう告げた。途端、学級内は騒めいて、「なにかあったっけ?」「わかんない」とクラス内でひそひそ声がした。
私もなんで学級会をするのかまったくわからなくて、小さく首を傾げていた。
勝瀬先生は、私を呼んだ。私はそれでもよくわからなくて、顔を下げながら、先生に言われた通りに前に出る。
「えっと」と先生を見ると、先生は意地悪く口元を歪め、「みんな。こんな風に、おどおどしているだけでなく、人の気持ちも分からないような人間には絶対にならないように。この間の道徳でもやったな? 人の悪口をいうのは良いことだったか?」
私は勝瀬先生の言葉の意味が分からなくて、目を丸くして先生を見た。なんだかよくわからないけれど、自分が糾弾されていることだけは、はっきりとわかるのだ。
学級内の視線が自分に集まっていることにも、いまのこの状況にも、どんどん背中に冷や汗が流れて、胸がばくばくと鳴る。足が震えた。「そういう人間には、おなじ気持ちを味あわせるのが、俺は一番だと思う」
「それじゃあ、今日はこいつについて、思っていることをみんなで言っていこう」
――勝瀬先生の言葉や、そのあとのしんと静まった教室を、私はいまも、夢に見る。
地獄が足元に口を開けて待っているように思えたし、実際、そこからの日々のほうが、ずっとずっと地獄そのものだった。
その日から、勝瀬先生は毎日、ホームルームのあとに学級会を開き、最初は静まっていた同級生たちが、どんどん私の悪口をいうようになるよう、「教育」していったのだ。
教室内で一番権力のある大人が、率先してやるいじめは、子どもたちにも伝染していく。
気が付くと、私の居場所はなくなっていた。笑い合って一緒に遊んでいた女の子たちも、私を見るとくすくす笑い、彼女たちから心ない手紙を笑いながら渡されることや、教科書に落書きをされることでさえも、私の当たり前になっていく。
でも、大丈夫。ほんのひと月ほど前に、流星くんが「守ってくれる」と約束したのだから。きっと、目立たないところで、彼は「五日を守ろう」としてくれているんだ。
だから、大丈夫。だから、大丈夫なんだ。
でも、そんな幻想ははかなく砕け散った。私が「流星くん」と久方ぶりに彼に声をかけ、「一緒に帰ろう」と言おうとしたとき、流星くんはこちらを見たけれど、その目はあの優しい目ではなく、心底私に怯えていた。
私の名を呼ぼうともせずに、彼はぱっと顔をそらして、走って逃げ去ってしまう。
それを見ていた同級生たちは、男の子は腹を抱えてげらげら笑い、女の子はこそこそなにかを言っている。
教室は、もう私のいて良いところじゃなくって、流星くんの隣に並ぶことなんて、もはや絶対にできないことになっていたのだ。
「守る」なんて、やっぱり何の意味もないもので、流星くんは私の世界などではなく、彼も私と同じ、ただの子どもだったのだ。
「……へへ」と、面白くもないのに笑いが出た。口を手で押さえて、みんなが私にするみたいに、本当に楽しいように笑う。
ぼたぼたと涙を流しながら、そうして笑う私は、きっとみんなから見れば、ただのピエロだっただろう。
3
もう学校になんて行きたくなかったけれど、学校を休むには理由が必要で、一日、二日は嘘で休めても、そんなの長く続けられるはずもない。だんだん言い訳にも窮してきて、私はまたしぶしぶ学校に通いだしていた。
でも、私が行くたび開かれる学級会も、回数を重ねるごとに冷たくなっていく同級生たちからの視線も、時間が解決してくれるなんてことはまったくなく、むしろどんどん状況は悪化していく。
どんなにつらくてもそれを両親やお兄ちゃんに相談する気にもなれず、しかもそれは私が優しいからだとか、それでも同級生たちを信じているからだとかではなく、ただ怖いからだった。
きっと、お母さんもお父さんも、私がいじめられていると知ったら、先生に対してひどく怒るだろう。それはつまり、両親に私が「告げ口」をしたのだと、先生に分かってしまうということで、そこから先どうなるかなんて――何度考えても、そんなことになるくらいなら、私が我慢しているほうがずっと良いのだ。
流星くんは、家にも、保健室にさえも逃げられず、教室に縮こまって座っているだけの、置物のような私を見てどう思っているのだろう。
きっと、可哀想だなんてちっとも思わないんだろうな、と考えるだけで、自然と涙が溢れてくる。あんなに仲良くしてくれて、「守る」とまで言ってくれたのに、流星くんは私の顔すら見ようとしない。
私なんて、最初から、この教室では人間ですらなかったのだろう。人形や、おもちゃのほうがまだ良いような、もっと下等の「なにか」――
透明人間にさえさせてもらえずに、ただクラス中の冷笑を浴びて、そこにいるだけの「なにか」なのだ。
ある日、私はいつも通りに、朝、教室に入り静かに席に座った。机に教科書をいれているとき、紙が引っかかる感じがして、私は恐る恐る――またなにか嫌な手紙だろうか、と思ったのだ――教科書より先に腕を突っ込んだ。
小さなメモ用紙を折り曲げたそれを引っ張り出して、うんざりしながら中身を見る。
ひゅうと、咄嗟に息を吸って、こっそりそれをポケットに突っ込み、なにも見なかったことにした。
こんなの、きっと流星くんからのたちが悪い悪戯だ、と思いたいのに、心臓が嫌な予感で早鐘のように鳴る。
「約束、まもれなかったので、死にます。流星」
でも、それは冗談なんかじゃなかった。その日、流星くんは言葉の通りに死んでしまった。
「みんな、落ち着いてきいてくれ。迫田が――」という冷たい先生の声を、いまもときどき思い出す。
流星くんが死んだという話をきいたとき、周りの音が消えてしまって、自分も流星くんと一緒に死んだようにすら思えた。
いや、事実、私はそのとき流星くんと一緒に死んだのだ。
私の世界だった流星くんは、正しく私の世界のまま、消えてしまった。教室中、鼻を啜る音と泣き声で満ちたけれど、それもどこか別世界のようで、私にはなにも感じられなかった。
じわじわと、流星くんがいなくなったことを頭が理解しはじめたときの感覚は覚えていても、そのとき自分がなにをしたのか、なにを考えていたのかは、ほとんど記憶に残っていない。
ポケットに詰め込んだ流星くんの遺書を、スカートの上から握りしめる。
その日、どうやって下校時刻まで過ごして、どういう風に家に帰ったのかも、よく覚えていない。気が付くと私は家にいて、初めてカッターで腕を切っていた。腕から流れる黒々とした血と痛みを、茫然と感じていたことだけは覚えている。
「流星くん」
名を呼んでも、これからは誰も答えてくれない。
もう会えない。約束なんて、どうだってよかったのに。守ってくれなくても、生きていてくれるなら、そちらのほうがどれだけ良かったか――生きていてくれれば、いつか仲直りもできたかもしれない。いますぐじゃなくても、いつか……。
「流星くん……」
ぼろぼろと大粒の涙が出たけれど、それももしかすれば、カッターで切った傷があまりにも痛むからかもしれない。
私は流星くんを恨んでいた。たしかに、約束を守ってくれない彼を、嫌いになりそうだった。でも、死んでほしいとか、死ねば良いとか、欠片も思ったことはなかった。
それでも彼は、死を選んだ。約束を守れなかった自分を、要らないと思ったのだろうか?
要らないのは、私の方なのに。先生にも、クラスの皆からも嫌われて、人間の扱いすらされていない私の方こそ、死ねばよかったのだ。死ねばよかったのだ!
私は、それきり学校に行くのを辞めた。
流星くんもいないあんな場所に、自分からおもむく理由をもはや見つけることができなかった。頑張って行ったところで、意味なんてきっと、初めからなかった。
それから三年間、私は一度も学校へ行かなかった。中学に上がったタイミングで、お母さんとお父さんが「学校に行かないか」と言ったけれど、それでも頑なに部屋に閉じこもった。
お兄ちゃんが、学校に楽しそうに出かけていくのを、閉じ切った部屋の中から物音だけきく。お兄ちゃんも、私が部屋に引きこもってから、一度も家に友達を連れてこなくなった。
私は三年前に死んだのだ。ならば、いま生きながらえているこの体はなんなのだろう。流星くんの夢を見るたび、彼に会いたくて腕を切る。でも赤黒い血が溢れて傷跡が増えるばかりで。
私が自分で自分の腕を切るのは、よくきくような、「生きている実感が欲しい」なんて理由じゃなくて、きっと――流星くんへの、罪滅ぼしなのだ。
この腕の傷が、百になれば、きっと私は死ねるのだ。
こうして流星くんの夢を見るたびに、私は腕を切るのだろう。
4
すべてを話し終わってから、イツカは「疲れた」といって部屋に籠ってしまった。俺は自室に戻って呆然とベッドに横たわり、天井を眺める。はああ、と深いため息が漏れた。
それからまたすこし経って、課外が休みの日に、俺はあのコンビニまできていた。
イツカと流星のことに首を突っ込むようになってから、このコンビニにくる頻度が高くなった気がする。
コンビニから流星の家の方角を眺め、百円のコーヒーを啜っていると、馴染みがある人物が向かい側の歩道を歩いていくのを見かけた。
誰だろう――と、目を細めてよく確かめる。
いつもだったら決して気にかけないような、冴えない中年の男性だ。「……あ」と、その正体に気が付いて声が漏れる。
――勝瀬だ。
勝瀬先生は、学年が違う俺たちの間でも、ちょっとだけ噂になっていた。いつもどこか暗くって、なんとなく近寄りがたく、威圧的な先生だった。
だからといって、イツカの担任になったから心配だどうこうだなんて、あの時は思ってもみなかったけれど。
でも、イツカの話をきいたあとだと、その姿に嫌悪以上のものを感じてしまう。本当はいますぐにでも掴みかかりたかったけれど、なぜかそれができなかった。
ドラマみたいに、大人に対しても怒りに任せて怒鳴りつけられたら、どんなに楽だろう。
でも現実は、そんなこと到底できはしないのだ。いままで黙ってきたイツカが、苛められていたのだということを家族に告白したのを知られることも、なんだか良い気がしないしと、この期に及んでイツカを言い訳に使っている自分にも辟易する。
結局俺は意気地なしで、どうしようもない奴で……イツカの兄である資格なんて、俺には最初からなかったのかもしれない。
結局俺は見ない振りをして、そのまま帰宅した。イツカの部屋の前を通るとき、独りよがりなのはわかっていても、なんだかイツカに自分が帰ってきたことを知らせたくなくて、足音を潜めてしまった。
そのはなしを、なぜこいつらにしてしまったのだろう。たまたま、息抜きに集まる約束をしていたから、愚痴るにはちょうどよかったのかもしれない。
クーラーがよく効いているいつものファミレスの店内で、俺の前にふたり並んで座っている椎名と空也が、俺の話をきいて椎名が眉をしかめ、空也が唇を尖らせた。
まず椎名が口を開き、「そうするしかないんじゃないか、それは」
その言葉が予想外で、俺は椎名の眉や口元に逸らしていた視線を、その両眼に合わせる。椎名は馬鹿みたいに真面目な顔をしていた。
「そんなこと、イツカちゃんがしてほしいって思っているのかもわかんないしなあ。それにさ」と言葉を繋げたのは、空也だ。
「俺は、そうするしかないっていうより、それをしないといけないのはイツカちゃんだと思うんだよ。しなきゃいけないっていうかさ、するならだけど、権利はイツカちゃんにだけあるんだと思う」
「それができない奴だって、いっぱいいると思うけど」と口をはさんだのは椎名だ。「俺はさ、ゆき。空也の意見も一理あるとは思うけど、怒るよりせっかく現状は離れられたんだから、イツカもそろそろ一人で立たないといけないんだって思うんだよ」
「まあ、それはそうだよなあ。イツカちゃんもいつまでも部屋に閉じこもってたら、もったいないよな。中学は小学校よりもっと楽しいかもしれないし、勝瀬とはもう関係ないんだしさ」
そう言って、椎名と空也は頷きあう。「――さめているようだけど、俺は、ゆきが首を突っ込まなくてよかったんだと思う。まあ、ここまで自分から教えてくれって言って、それで知っておいてさ、なにも知らないんですって顔ができないのもわかるけどさ……」
「それなんだよな。……俺、そもそも、イツカや流星のことをさ、いろいろ調べて回ったの、間違いだったかもって思うんだ」
後悔したって今更だとは思うけれど、ここ最近、俺の頭にこびりついていたのはそのことだった。勝瀬になにもやりかえせなかったことも、勿論悔しい。でも、一番悔しくて、馬鹿だったんだって思うのは自分のことだ。
「なあ、こんなことを言うとさ、らしくないって笑われそうだけど……」と、椅子に背を凭れて、ぼそぼそと空也が言った。「なんて説明していいかわからないけどさ、ゆきがイツカのことを調べたっていうことに、なにかあったんだと思うんだよな」
「なにかあったって?」と椎名が空也の顔を覗き込む。空也は空になったコップのなかでストローを回しながら、「なんだろうなあ……」
「説明できないな。なあ、ゆきの元気づけ会でもするか! 大盛りのポテト皿、三つ頼もうぜ」
空也の突然の提案に、「はあ? 誰がそんなに食うんだよ」と椎名が困惑する。
俺はなんだか馬鹿らしくなってしまって、「俺も食う。めちゃくちゃ甘いやつとかも頼もう」と、備え付けのメニュー表をおもむろに開いた。
5
夕方になってやっと家に帰ると、玄関に見覚えがない靴が置いてあることに気が付いた。
誰かきているのだろうか、と思ったけれど、なんとなくその靴は大人の物ではない気がした。泥が至る所に跳ねた使い古しの運動靴なんて、父さんや母さんの友人では絶対にありえない。
違和感を拭いきれずに二階にあがる。
イツカの部屋の前に、誰かが暗い顔で立っているのが視界の隅に映って、俺は心底ぎょっとした。しかしよく見るとそれは喜乃で、彼はじっとイツカの部屋の扉を見つめている。
「喜乃?」と俺が彼に声をかけても、彼はぼんやり扉を見ているだけで、こちらに気が付く様子もない。「喜乃!」と彼の肩を軽く叩いた。彼が驚いて飛び上がる。「なんだ、雪平か……」
「なんだってなんだよ。なにしにきたんだ?」
俺が「また一生のお願いか」と言おうとしたのを遮って、「雪平に用事があるわけじゃないんだけど」と喜乃は体を避けた。狭い廊下だから、俺が自室に行くためには、自分が退かないといけないことがやっとわかったらしい。
「ちょっと、イツカに話したいことがあって」
「話したいこと?」
「うん。でも、返事もしてくれないんだ」と喜乃は困ったように眉尻を下げる。「何の話? 俺があとで伝えておくけど」と親切心から言ってみても、喜乃はかぶりを振る。
「雪平」と喜乃はこちらを見る。俺は唐突に名を呼ばれて首を傾げた。「流星とのことで、ちょっと雪平にも言っておきたくて……」
「うん?」と俺が問い返すと、「いや、でも、俺の自己満足かもしれない」と喜乃がひとりごちた。
「あのね、雪平。流星がなんであんな手紙残したのかって、俺、ずっと考えてたんだけど」
「俺に、イツカとの約束を破ったんだって言ったとき、あいつ、ものすごくつらそうな顔してたんだ。それはなんだか、伝えておかないといけない気がして。だって、俺に恨み言いうならまだしもさ、イツカ本人に手紙にしてまで残すって、それなりになにか意味があったんだろうって思うでしょう」と喜乃は俺から目を逸らす。
「そんなの、イツカに教えたって、仕方ないのかもしれないけど……雪平にだってそうだよね。でも、なんか、なんだろう。俺が勝手に、イツカと流星にごめんって謝りたいだけなのかもしれないんだけどさ」
「そうだな」と答えただけの俺に、喜乃はなんだか泣きそうな顔をする。
俺が「そうだな」と言うと、なんだかみんないつも、こんな顔をする。でも、いまこのときに呟いた「そうだな」は、なんだかいつも逃げるように呟いたそれとは、違うものである気がした。
そうあってほしいと、俺が勝手に思っただけかもしれないけれど。
イツカが部屋から出てきたのは、喜乃が帰ってからしばらく経ってのことだった。
イツカと廊下でばったり出くわして、俺はそのまま知らない振りをしようとしたけれど、イツカのほうから珍しく、「お兄ちゃん」と蚊が鳴くような声で俺を呼んだのだ。
俺は、喜乃にしたように、小首を傾げる。「今度、喜乃くんに会ったら、ありがとうって言っておいて」とイツカは言った。
彼女はそう言いながら、ちらりとも笑わなかったけれど、その彼女の言葉は、本当にきちんと、喜乃に伝えておかなければならない気がした。だからこそ、俺は「ああ。わかった」と短く答えて、それ以上、彼女になにも訊かなかった。
喜乃とイツカが、俺を介してでも交わした言葉を隣できいただけの俺も、なぜか心が少し軽くなった気がしていた。それがなぜなのかは、全く見当もつかないのに、不思議とどこか分かる気もした。
「流星の墓参り、するかな……」
――それこそ、何故だったのだろう。
ふと気が向いたというのか、やっと俺自身、彼と向き合う準備ができた気がした。いままで、葬式に顔を出しても献花すらできなかったり、墓地まで行ったのに彼に会わずに帰ってきたりしたときと、なにが違うのだろう。わからないけれど、自分から死を選んだ、迫田流星をやっと許せる気がしたのかもしれない。
流星の墓に、行ってみよう。
俺はベッドに横になり、そう心に決めて目を閉じた。迫田流星と会って、話すことなんていまだにひとつも思いつかないけれど、あの夏にできなかった花を手向けるという行為が、いまならできるような気がした。
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