第四章

 次の日の課外まで休んだら、なんだかこのまま行けなくなりそうな気がして、俺はとりあえず学校に向かっていた。朝の通学路は当たり前にいつも通りで、イツカとあんなひどい喧嘩をした二日前の深夜が、まるで夢かなにかだったみたいに思える。

 俺は自転車を走らせながらも、ずっとイツカのことを考えている。彼女があんな風にしっかりした目を見せたのは、いったいいつぶりだろう。ここ三年、まともに顔も見てなかったから、カウントできるもの自体が少ないような気もするけれど、それにしても――あんなに大人びた表情をするイツカは、初めてだった。

 ――イツカ、本当に電車に飛び込んだりしないよな?

 自分が吐いた言葉なのに、「電車にでもなんでも轢かれてしまえ」というのは、やっぱり酷いことを言ったもんだなと思う。それに、本当にその言葉通りになってしまう可能性だって――そう思うのと、俺が家に帰る方向へと自転車の向きを変えたのは同時だった。

 全速力で自転車をこいで、家に帰りつく。上がった息を整えながら門扉のほうを見ると、そこに見知った姿を見つけた。「喜乃?」と俺は呆気にとられて彼の名を呼ぶ。

 喜乃は、俺が声をかけるまで下を向いていたけれど、俺の声に気が付くなりこちらを見た。稍々迷ったように視線を揺らし、それからやっと、ちょっと歪んだ笑顔を向ける。「雪平。おかえり、はやかったね」

「お前、こんな朝早くにどうしたんだよ」

「なんか、居ても経ってもいられなくて……着いてから、随分早くに来ちゃったなと思ったんだけど……」

 その喜乃の様子が、なんとなくおかしなものに感じて、俺はとりあえず家に入れようと門の中へ自転車を押していく。

 喜乃は、そんな俺の腕を取って、「雪平。ちょっと良い? 公園に行こう」

「はあ、公園? お前、本当になにを言っているんだ?」

「良いからさ」

「一生のお願い」と言って泣きそうに笑った喜乃の表情に、俺は混乱したままだったけれど、とりあえず頷いて、喜乃とともに近くの公園にいくことにした。

 朝の寂れた公園は、特に人が少ない。ブランコがあるだけの小さなここは、地域のラジオ体操に使われることすらもなく、ただあるだけの廃れたものになっている。

 夜中になると、不良のたまり場として、爆竹の音がよく聴こえてくる場所だからか、ブランコを揺らしながら地面を見ると、当たり前のように花火のごみが落ちていた。

 喜乃は俺のとなりで、俺と同じようにブランコを小さく漕いでいる。随分静かな間があって、蝉の声だけがじわじわとうるさかった。

「で、なに?」と俺がやっと訊ねると、喜乃は地面に視線を落としたまま、こちらを見もせずに、「ううん」とか「いや……」とか言っている。

「用事がないなら、帰るけど」

 俺がうんざりして言うと、喜乃はこちらを見た。捨てられた子犬みたいな顔をしている。「雪平、あのさ……」

 あのさ、と喜乃が言った瞬間、彼のアーモンド型の目からぼろっと大粒の涙が落ちた。「は、はあっ!?」と俺が驚いてすっ飛んだ声を上げる。彼はぐずぐずと鼻を鳴らし、「ごめん」と途切れ途切れに謝りながら顔を拭うけれど、まったく状況が見えない俺は混乱するしかない。

「え、なに、なんだよ、本当に」

「……俺、流星のことで、黙っていることがある」と喜乃が言う。俺はその言葉に、すうっと背筋が冷えて、頭が真っ白になった。「は?」

 きいきい揺らしていたブランコを止め、俺は喜乃を凝視する。喜乃は涙を拭って、「俺が、なにもかも悪いんだ。雪平たちが流星の死んだ理由を調べるっていったときに、なにも知らないなんて言って、本当にごめん。なにもしらないどころか、俺は」

 泣きながら、要領を得ないことを言う喜乃に、「ちょっと落ち着け。順番に話せよ」と仕方なく言う。これでは、喜乃がなにかを知っている、ということしか伝わってこない。

「俺、すごく迷ったんだ。このまま知らない振りしてようかって……でも、そうしたら、もっと卑怯になりそうで。ものすごく迷ったけど、雪平たちが流星を調べてるって知ってから、まともに眠れないんだよ。……雪平、俺、俺が流星にひどいことを言ったせいで、流星は死んだんだ。俺のせいなんだ。イツカがいじめられていたこと、雪平は知っている? 流星、俺に言ったんだ。イツカを守るって指切りしたのに、それを守れなかったって。たぶん、流星はイツカをいじめから助けられなかったことを言っていたんだと思う」

 喜乃は声を詰まらせながら、俺にそう話した。俺はその話をきいて、イツカが俺に見せた流星からの手紙を思い出していた。あの、短い遺書を。

「なのに、俺はその話を流星から打ち明けられたとき、笑いながら……約束が守れないなら、ゆびきりの意味のまま死ぬしかないんじゃない、って……」

 約束、守れなかったから――死にます……

「だから、俺が悪いんだ。俺のせいで流星は死んだんだよ」と言い残し、すべてを語り終えた喜乃が泣きながら公園を出て行ったあと、俺はしばらくそのまま、ブランコを呆然と漕いでいた。

 パズルのピースがぴったり合ったような気持ちだ。でも、それに達成感なんてものは一切なく、俺はなんのためにこんなものを暴いてしまったのだろうとすら思う。

 イツカの見せた手紙の「約束」と、迫田流星が死んだ理由――すべてがわかったところで、こんなに苦しいだけの真実、本当に現実なのだろうか?

 どこかで誰かが間違えて記憶していて、はたまた俺を面白がっていて――大げさに、あることもないことも交えているだけなのではないか……。

 ――でも、俺は分かっている。こんな嘘、つく必要がないし、イツカも喜乃も、流星だって、きっとそんなことをするような奴じゃなくて……だから、これは、まごうことなき事実なのだ。

 ――迫田流星が死んだ理由。

 可哀想、という言葉ばかりが浮かぶけれど、そんな安っぽい言葉では言い表せないし、したくない。それに、そうやって言葉にしてしまうことも、俺にはどうしても許せなかった。

「五日と約束したんだよね」と、流星は小さく俺に言った。俺はそれを訊いて、「約束?」と当たり前に訊き返す。流星はなんだかひどく真面目な顔をしていた。「そう」

「五日を守るって、約束したんだ」

「また、変な約束したんだなあ」と俺は呑気に語尾を伸ばして、それからにやりと口角を上げる。「んで、それが?」と、流星が言いよどむ話の先を、俺は催促する。

「でも、俺、守れなかったんだ。ゆびきりまでしたのに」

 秘め事というより、それは、万引きしたんだ、とか誰かを殴ったんだ、とでも言いだしそうな、重苦しい口調だったのを、はっきり覚えている。そこで気が付いていればよかったのに、俺はどこまでも馬鹿だったから、なにも考えずに、そんな彼にこう言い放った――「ゆびきりって、嘘ついたら針を千本飲むんだろう。それってさ、つまり、破ったら死なないといけないんじゃない?」

 俺は、その面白くもない冗談を、他愛もないことのつもりで言ったのだ。

 でも、そのときに、流星があまりにもはっとしたような、傷ついた顔をしたから。だから鈍感な俺でも、「あれ?」と思ったのだ。俺は流星の表情の変化をみながら、いままで何も考えずにまにま笑っていた口角を、徐々に下げる。

「そっか、そうだよね」と呟いて、流星のほうも、いままでの真摯さが嘘のように、何事もなかったような笑顔を見せた。

 だから――俺はそれきり、その出来事も、いつか簡単に忘れ去ることができるものだと勘違いしたのだ。それがこんな、どうしようもない結末を引き寄せるなんて、全く思いもせずに。

 迫田流星が自殺したのは、その次の日だった。

 俺はその日、流星が死んだなんてまったく知りもせず、一番乗りで教室にやってきて、ふとイツカの机の上になにかが置いてあるのに気が付いた。

 またなにか嫌らしい手紙だろうか――当時、イツカは教師に虐められていて、そのせいでクラスメイトからも陰湿なことをされていた――とそのメモ用紙みたいなものを拾い上げる。

 でも、「五日へ」と書かれた前置きで、すぐに、流星が書いたものだとわかって、俺は心底驚いた。五日、と彼女の名前をカタカナではなく漢字で書くのは、流星だけだったから。まさか、流星も彼女になにかひどいことを――そう思ったけれど、その次に書かれた短い言葉に、俺の心臓は早鐘のように鳴り始めたのだ。

「約束、守れなかったから、死にます」

 これを見て、イツカはどう思うんだろうなんて、もはや俺には考えられなかった。俺は慌ててそれをイツカの机の中に入れ込んで、なにも見てない振りをしながら、どくどくと鳴る心臓を押さえて自分の席に座る。眠くもないのに、机に額をつけて目を瞑り、なにもかもに蓋をしたのだ。

 迫田流星が死んだ、ときいたのは、その日のホームルームでだった。

 担任の教師はそれを機械的にみんなに言うと、黙とうをしようと言った。俺は形式通りに目を瞑って祈るふりをしながら、心臓が痛くて泣きそうになるのをこらえていた。結局気分が悪くなり、教師に告げてから教室を出て保健室に逃げ込む。

 ――どうして流星くんが……。イツカちゃんじゃなくて……。

 教室の誰かが呟いた非情な言葉が、とげみたいな痛みを持って、頭に残った。イツカはそれをどんな気持ちで聴いていたんだろう。そのとき、彼女は虐められながらも頑なに学校にきていて、なのにあんな手紙――流星が……

 イツカのほうを見れなかったから、俺にはもう、あのときのイツカの様子を知るすべはない。彼女はそれから、学校には来なくなった。小学校を卒業しても、皆が中学に上がっても。

「喜乃」と兄ちゃんが俺を呼ぶ。

 弔いのようなつもりなのか、流星が死んだという駅に行ったのは良いものの、構内にすら入る気になれずすぐに引き返してきて、空は橙になっている。オレンジ色に照らされ、我が家を背景に俺を待って突っ立っていたらしい兄ちゃんを、なんだか映画のワンシーンのようだと思った。

 この人が特別整っているから、余計にそう思うのかもしれない。

「ただいま。なに、俺を待ってたの?」

 俺が茶化しても、兄ちゃんは目の奥を覗き込むみたいにじっとこちらを見据えているだけで、にこりともしない。俺はため息をついて、頭の後ろで腕を組んだ。「なに? 何の話?」

 兄ちゃんがこうやって俺を睨むときは、だいたいなにか話があるときだと、長年の勘でわかるのだ。兄ちゃんのなかで大事な話、というだけだから、いままでの例を挙げたって、ほとんどがくだらないものだけれど。どっちがなにをしたとか、あれはなにがどうだったからいま怒っているんだよとか、そういう喧嘩の元でしかないようなものばかり。

「ゆきの家に行っていたのか?」

 だから、兄ちゃんの質問は、とても意外だった。今日は真面目な話なんだなと思うのもそこそこに、「それをいま訊く?」と拗ねたように思いもする。「そうだけど、なんでわかるの?」

「ゆきからメールがきた」

「あっそう……」

 随分口が軽いんだな、と口の中で雪平に対して悪態をつく。でも、あんなところを見せたら、心配しいの雪平のことだから、ものすごく胸を痛めたのだろう。

 雪平、口はものすごく悪いけれど、人一倍……なんというか、そういうところがあるから。「そ、雪平んち、行ってきたよ。まあ、公園で話しただけなんだけどさ」

「それより、家に入んないの? 俺、疲れたから風呂に入りたいんだけど」

 兄ちゃんの後ろ、玄関のほうを指さすと、兄ちゃんもそちらをちらりと流し見て、また俺を睨むように見る。俺はため息をついた。「なんなの、俺がなんかしたの?」

「……喜乃、コンビニ行こう」

「は?」と、兄ちゃんの思いもよらない言葉に、さすがに俺の目が点になる。「いいから、いくぞ。アイスでもなんでも奢ってやるよ」と兄ちゃんは言葉を続けた。

 俺は困惑してしまって、前髪をくしゃくしゃに掴む。「なに、突然じゃん」

「いらないのか? せっかくのチャンスだぞ」

 兄ちゃんは真顔だ。にこりともしない。俺は「いらないのか」「チャンスだぞ」という言葉にのせられて、気が付くと頷いていた。「いや、勿論いくよ」

 兄ちゃんとコンビニまでの道を歩く。けどどちらもあまり喋らないせいで、居心地が良いとはお世辞にも言えないような時間だった。いつもなら俺がばかみたいに兄ちゃん兄ちゃんと言うのに、今日は俺でさえそんな気分になれない、というのが、理由として大きいだろう。

 コンビニに着いて、店内に入る。アイスでもなんでも、と言っていたのだから、アイスを買うつもりだったのだろうと目星をつけ、俺はボックスを覗き込んだ。一番好きなやつを取って、兄ちゃんが持っている買い物カゴにぽいと入れる。

 兄ちゃんはいかにも興味がなさそうに漫画雑誌を読んでいて、俺がアイスをいれたのを確認すると、雑誌をあっさりと閉じてレジに向かった。「なに、兄ちゃんはなにも買わないの?」と俺が訊ねると、兄ちゃんは静かに頷く。「まあな」

「今度、流星の墓にでも行くか」

「お前も来いよ」と兄ちゃんはひとり言のように呟く。俺は耳を疑ったあと、兄ちゃんから目を逸らした。「そういうこと」と俺も口の中で言う。

「珍しくアイス買ってやるなんて言うんだなって思ってたら、やっぱりなんかあったんだ」

 店外に出てから、拗ねたような言葉を吐けば、兄ちゃんは買ったばかりのアイスを俺に手渡しながら、無愛想に言う。「なにもないよ」

「たまには弟にも優しくしようかなってさ」

「なにそれ。気持ち悪いなあ」と本当に鳥肌を立てた俺に、やっと兄ちゃんが笑った。

「喜乃。あのな」と、コンビニからの帰り道に、兄ちゃんが口を開く。俺は「うん?」とアイスを食べながら兄ちゃんを横目で見た。兄ちゃんはいまだに生真面目な顔をして、まっすぐ正面を向いている。

「俺、お前が、流星のことでずっと悩んでいたの、知っていたんだ」

 兄ちゃんの言葉に、俺は足を止める。含んでいたアイスを口から離して、「は?」とも「そっか」とも言えずに黙り込む。ちょっと先へ行った兄ちゃんも足をとめて、体ごと俺の方を向いた。「でも、なんか、怖くてさ。訊いてしまったらなにか起こりそうで、だから聞かないようにしてた。心配だって思ってたのに、心配だって言えなかったのは、俺のほうなんだよな」

「なにそれ、何の話」と俺は言う。兄ちゃんが「良いんだよ、気にするな」と心配云々の話を濁し、「あいつとおんなじなんだよな、俺も。やっていることはさ。怖くて動けなくて、結局、耳を塞いで。恰好悪い」

「流星のこと、俺は訊かない。お前から話したいときに話せばいいよ。でもさ、流星の墓にはいこう、喜乃。お前、葬式にも出なかっただろう?」

「なんで知ってるの」と答えて、俺はハッとその返事のまずさに気が付いた。兄ちゃんにも母さんにも気づかれないよう、彼の葬式の日には喪服を着て、ちょっと遠い公園に逃げ込んでいたのだ。でも、それを知られているとは、露とも……。

「流星がどう思っているかは知らないけどさ、俺だったら、喜乃のやつ来ねえなっては思うよ」

「……そうだね。またいつかね」

 そう、言葉を濁す俺に、兄ちゃんはなぜかほっとしたように笑う。くるりと俺に背を向けて歩き出した兄ちゃんが、ぼそっと「俺もアイス、買えばよかったな」と呟いた。

 喜乃と別れてすぐの、随分早い時間に家に戻ったはずなのに、俺がイツカの不在に気が付いたのは、それからかなり時間が経ち、すっかり夜になってからだった。

 時間はかかったけれど、どうしてそれがわかったのかといえば、虫の知らせのようなものだったのだろうとしか、うまく説明ができない。

 ぴったり閉まったいつも通りのはずの部屋から、人の気配がまったくなくて、最初は寝ているのだろうかと思っていたのだ。だけど、それが夜になるまで続いて、なんだかおかしいなとノックしてから部屋を覗き、そこにイツカがいないことを知った。

 この間の喧嘩を思い出し、肝が冷える。

「母さん、ちょっと出てくる」

 俺は努めて冷静に母さんにそう言って、家を出た。「雪平? どうしたの?」と母さんが訊いていたけれど、「ちょっと、急に呼びだされたんだよ」と濁して、俺は玄関を出て自転車に跨り、まず前のこと――イツカが隣駅にひとりでいっていたあのときのことだ――を考えて駅に向かった。

 でも、最寄り駅や、隣駅にはイツカの姿はなく、途方にくれたあとに、ふと駅に行く途中にある、さまざまな別の思い出の場所も探してみようと、俺は流星の家やよく遊んでいた公園も見に行くことにした。

 イツカは「もういない」のだろうか、と不安に思いながら、小学校にも寄ってみる。遠目に見る夜の校舎は、七不思議や怖い話が常に語られる理由がよくわかるほどに不気味で、まさかこんなところにいるわけがないよなあ、と俺はぼんやり白く浮かぶ校舎を見上げる。

 仕方なく、諦めて踵を返そうとしたとき、ふと校舎の閉ざされた門扉をよじ登る少女を見た。一瞬幽霊だろうか、と背筋を凍らせたけれど、頭を振ってその妄想を追い出し、声をかける。「イツカか?」

 俺の声に反応して、少女の姿が慌てふためく様子が見て取れた。焦って門を登ろうとしたせいで、ぐらりと体が傾ぐ。「わっ」と俺は慌てて自転車を捨てて、少女を支えようと門の下に走ったけれど、少女が体勢を整えるほうが早く、俺が門にぶつかりそうになっただけだった。「イツカ、なにやってるんだよ?」

「……止めないでって言ったのに」

 ぶつぶつと言うイツカを一発ぶん殴ってやろうかと、拳を頭の上にあげる。「良いから、降りてこい。殴るから」

「殴るっていわれて降りるわけ、ないでしょう」

 そう言って、校舎内に入るイツカの腕を門越しに取る。「おい! 中に入ったら警備員がくるぞ、出てこい!」

「警備員」という言葉に、イツカはしぶしぶ門をよじ登り、こちらに出てくる。ふらふらと登って降りる様子を見ている間中、俺は「こんなんでよく、門を登るなんて考えついたな」とあきれていた。

「で、なにをしようとしてたんだ」

 俺の問いかけに、イツカは唇を固く結ぶ。「イツカ」と俺が厳しい声音で名を呼ぶと、イツカは「だって」と言った。「お兄ちゃんが、死ねっていうから」

「ここで飛び降りたら、すこしはすっとして死ねるかなって」

「でも、流星くんは嫌だよね」とイツカは唇を尖らせる。俺は捨てた自転車を起き上がらせるために両手がふさがっていて、本当によかったと思った。イツカを本当に平手打ちしそうだったからだ。

「……ごめんな」と俺はイツカから顔を背けて言う。イツカがきょとんとこちらを向いたのが、視界の隅に見えた。「なにがごめん? 死ねってやつ?」とイツカが訊ねる。俺は頷きもせず、はああと深い息を吐いただけだった。

 学校からの帰り道、「死なないよ」とイツカがぽつりと呟いた。

 イツカの隣に並び、押していた自転車を無意識に止め、俺はイツカをまっすぐ見る。「死なないと、思う。……死のうと思ってたら、たぶん、もう死んでるから」

「流星くんのためとかなんとか言って、結局死なないんだよ。私は薄情だもの」

「嫌になる」と言って、イツカは俯いている。その顔は笑いも、泣きもせず、無表情のままだ。

「流星くんに、申し訳ない」と言って、細い息を吐いた彼女を見ながら、俺は釈然としない気持ちでいた。

 朝の、喜乃からきいた話や、そのときの彼の様子を思い出す。喜乃の話が事実なら、イツカに非はないはずだけれど、それでも流星のまわりの子どもたちは、こうして流星の死は自分のせいだと言って、三年前とまったく同じところをぐるぐる回っている。

 流星の葬式に傷ついたイツカを見て、「そうだな」としか言えなかった三年前の俺と、いまこうして、「申し訳ない」と視線を下げているイツカになにも言えない俺も、きっと三年前とまったく同じ場所を巡っているのだ。

 迫田流星が死によって傷つけたものは、計り知れないのだ。妹のイツカだけでなく、喜乃も傷つけて、自分の母親も傷つけて。流星は「死ぬこと」によって、周りにいる全員の時を止めたのだと、俺は何度も考えてしまう。

 必然的に訪れたものではなかった「死」は、こんなにすべてをかき乱して、乱したままになにもかもを捨ててしまうのだ――

「イツカ、死ぬなよ」と一度でも言えたら、どんなに良かっただろう。でも俺はそんなことを肉親に言えるほど器用ではなくって、だけど「そうだな」と彼女が言うことすべてを肯定して有耶無耶にするほど、もう子どもでもなかった。

 だから、俺は押し黙る。なにも言わないでいるしか、俺にできる選択肢はなかったのだ。

 「どうしようもないな」と心の内で思った言葉を口に出さず、むっつりとしたまま自転車を押す俺は、イツカにどんな風に見えるのだろう。

 無愛想に見えていたとしても、「なにも言わないのか」と彼女が心の中で俺を詰っているのだとしても、「お兄ちゃんもそう思うよね」とだけは思ってほしくなかった。

 家に帰った頃には、時刻はもう深夜で、外には星が散っている。しんと静まった家に上がって、二階へ続く階段を登りながら、俺は前を行くイツカを呼んだ。

 イツカがきょとんとした顔でこちらを見る。「イツカ、俺さ、喜乃に全部きいたんだ。お前と流星がした約束ってやつのことと、……流星が、死んだ理由も」

 イツカは俺の告白をきいて、一瞬目を丸くはしたけれど、それもわずかな間だった。「そう」と小さく呟いて、すぐに彼女は俺から顔を反らしてしまう。俺はそんなイツカに追従するように、「お前、流星に、守ってもらうって約束したんだな。それを破ってしまったんだって、いじめられるお前を守れなかったって、流星、死ぬ前に言っていたらしい。……でも、だから流星が死んだんじゃなくて、本当は……」

「――だから何?」

 イツカは部屋に入ろうとした足を止めて、ぴしゃりと俺の言葉を跳ねつける。イツカの部屋の前で、俺も立ち止まった。「だからなにって」と言い返そうとして、俺の喉からそれすらも出てこない。「……えっと、だからさ……」

「知っているよ、そんなこと。だから流星くんは死んだんでしょう。私のせいなんだよね。喜乃くんに、流星くんがその話をしていたのは、……知らなかったけれど」

「それを再確認して、私はなんて言えば良いの?」と言ったイツカの表情は、本当に怒っているようで、でもどこか寂しそうにも見えた。俺の方もそもそもなにを言おうとしたのか、頭の中が真っ白になってしまう。けれど、どこかでイツカがこうやって言い返してくるのも、俺はわかっていたのだ。

「お兄ちゃんは、私を責めているの?」

 イツカの問いかけは、他人からきけば馬鹿みたいなものなのだろうか。でも、彼女は本気でそう言っていて、その目もまっすぐ、俺を見据えている。「責めているわけないだろう、イツカ、俺はさ……」とまで言ったのに、そのあとに続ける言葉がやっぱり見つからなくて、俺は舌打ちをこらえて、イツカから目を逸らした。

 そのときだった。イツカの目から、大粒の涙がこぼれる。ぼたぼたと落ちるそれを見ながら、俺はますます混乱してしまって、「泣くなよ」と慰めるようなつもりで出した声が、随分と冷え切ってしまった。

 ――言おうとして、ずっと飲み込んでいた言葉がある。「喜乃のせいなんだろう」と、その言葉が喉の奥で、出たいと燻っているのだ。

 でも、それを言うのは違う気がして、でもイツカが遮らなければ、俺はそうやって、喜乃にすべてをなすりつけていただろう。

 ぐ、とこぶしを握る。目を伏せて、俺ははあと息を吐いた。「……なあ、全部話してくれよ」と言おうとしても、その言葉すら喉元に絡まって出てこない。

「全部、話してあげようか」とイツカが言ったのが、あまりにもタイミングがよくて、俺は一瞬心を読まれでもしたのかと思った。でも顔をあげて見たイツカの表情は、彼女が顔を下に向けているために、俺がざんばらに切った前髪が垂れていて、よく見えない。

 イツカは顔をあげた。何時かの彼女みたいに、決意をした、でもどこかまだ悲しそうな顔だった。

「全部話すよ、お兄ちゃん。そうすれば良いんでしょう?」

 イツカの声は、俺が先刻出したものよりもずっとずっと刺さるような、冷たい声色だった。俺はなにもいえずにその場に立ちすくみ、イツカを見ている。イツカは唇を歪めて笑った。……笑ったようだったけれど、その笑顔も俺には、イツカが消えてしまう前兆のようにしか見えなかった。

 時刻は深夜の二時を回っている。そういえばこの時間に、俺はイツカに以前、「死ね」と叫んだのだ。イツカはあのときとは違う言葉で、俺に追い詰められて、いまやっと、すべてを話してくれると言った。

 でも、それが良いものなのか、悪いものなのか――漠然とした不安だけが残るけれど、いまはイツカとしっかり向き合おうと、俺もやっと腹を括ったのだった。

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