第三章

「まず、イツカとクラスが同じだった奴らを当たっていこう。夏休みだから時間もあるし、捕まえやすいんじゃないか?」という椎名の案をききながら、空也がうんうんと頷いている。

 俺はそれに対して、疑問に思ったことを椎名に投げかけた。「捕まえるったって、そもそも家とか、どう調べるんだよ」

「卒業アルバムでまず誰がいるか調べて、あとはイツカと流星がよく行っていた地域を当たってみよう。そっから先は、ゆきの記憶頼りにはなるけれど」

「できるよな?」と椎名が有無を言わさない口調で訊ねる。俺は「いやいや」と言いながら、でもそれしか方法がないことにも気が付いていた。

 流星の死を、三人で調べると決め、俺たちはファミリーレストランに集まり、作戦会議のようなものを開いていた。空也はなんだか浮足立っているようだったけれど、俺はさすがにそんな気分になれないでいて、椎名もテンションがいつも以上に低く、でもなぜか、とてもまじめにいろいろと考えているようだった。

 会議にファミレスを選んだのは、椎名の家は弟がうるさいらしく――これは椎名の言い分だけれど――空也の家もこれまた家族が多いため賑やかで、作戦を練るのに向かないし、無論、イツカがいる俺の家は論外だったからだ。

 ファミレスの空調はよく効いていて、俺たちはその下でドリンクバーやらなんやらを頼んで、ここに長く居座る気でいた。実際、この店に入ってから、もう二時間はこうして話し合っている。雑談も挟みつつだったから、時間ばかり経過するのは仕方がない。やっとではあるけれど、無事に作戦が決まったのだから、それは不問にしておきたい。

「イツカの卒業アルバム、どう持ってくればいいんだ?」と俺がふと思って訊ねると、椎名よりもはやく、空也のほうが俺の疑問に目を丸くして、「そんなの、椎名の弟に借りれば良いじゃん」

「喜乃か……」と呟いて眉を顰める俺に、椎名は「喜乃ねえ」と俺と同じようなことを呟いて、ドリンクのストローを回している。「まあ、一応聞いてみる。あいつのことだから、断りはしないと思うけど」

 椎名の弟、喜乃は、イツカや流星と同級生で、流星の葬式にも呼ばれていたらしい。

 喜乃は明るくてとても良い奴だし、空也ととても馬が合うようではあったけれど、俺とはまったくそりが合わないから、俺はこっそり、喜乃を苦手に思っていた。なぜかわからないけれど、なんというか、きらきら感が手に余る、とでもいうのか……。

「なに、おかえり、兄ちゃん。空也も雪平も久しぶり」

 ファミレスを出て、椎名と俺、空也の三人で椎名の家にいき、喜乃の部屋をノックすると、中から出てきた喜乃は、そう言って目を丸くし、それから朗らかに微笑んだ。「空也、まだあの漫画読んでる? 今度会ったら続き、借りようと思ってたんだよね」

「ああ、それな。あのあと、すっげえ展開だったぞ。ネタバレしてもいい?」と空也が喜乃との会話を楽しもうとしたのを椎名がうんざりした様子で遮り、「喜乃、その話はあとにしろ。小学校の卒アル、貸して」

 椎名の弟である喜乃は、椎名によく似た外見だけれど、もっと椎名を幼くして、女よりの顔立ちをしている。アイドルみたい、と言って女子に人気もあるらしい彼は、その性格も非の打ちどころがなさすぎて、そういうところが「きらきらしすぎている」と俺は苦手だった。

「卒アル? 良いけど、なんでまた」と言いながら、喜乃は「ああ」となにかを察したように頷き、「俺を友達に見せる気だろ、兄ちゃん」と笑った。

「馬鹿、なんで俺がお前なんか見せないといけないんだよ。良いから、ちょっと貸して。すぐに返す」

 椎名はそう言い捨て、喜乃の部屋にずかずかと入っていく。「そこだよ。その本棚のとこ」と喜乃が慣れた調子で椎名に卒業アルバムの場所を指示しているのをききながら、俺は「椎名は家でも帝王なんだな……」と呆れていた。

 椎名の部屋に入った俺たちは、ローテーブルに集まって話をしていた。空也がメモを取っている紙は高校で配られたプリントの裏面で、端が少しだけ折り曲がっている。

 クーラーを入れたばかりの部屋はまだすこし蒸し暑く、それでも外に比べれば随分過ごしやすかった。

 卒業アルバムの写真を指差しながら、「ああ、こいつ、イツカと仲が良かった気がする。あとはこっちと、こっちかな」と俺が言うのを、空也が目で追いかけ、写真の下に記載されている名前をメモしていく。

 椎名はそれを見ながら、「流星と仲が良かった奴は、わからないよな、さすがに」と顔を歪め、「とりあえず、イツカになにかがあるのなら、イツカの友達も知っているはずだよな」

「イツカがそういうの、言うかわかんないけどな……あいつ、愚痴って、あんまり言わなかったし」

 俺の言葉に、空也が紙に伏せていた顔を上げた。「訊いてみたら、案外なにか知っているかもしれないじゃん。愚痴も悩み相談も、まったくゼロってことはないんじゃないか」

「とりあえず、やれるだけやろう。やってみたらなにか変わるかもしれないしさ」

 あっけらかんとした空也の言葉に、俺と椎名は顔を見合わせる。椎名が困ったような顔をしていたけれど、きっと俺も同じような表情をしていただろう。

 三人で立てた作戦は、思っていた以上に難しいものだったらしい。卒業アルバムから割り出した面子の住んでいそうな場所など、俺にはまったく見当がつかなくて、すぐに頓挫してしまった。

 町に出たり、地図を見たりしてなんとか記憶を呼び起こそうとしたところで、イツカの同級生と顔を合わせたことがほぼない俺たちでは、そもそもがどだい無理な作戦だったのだ。

 イツカや流星と同学年の弟――喜乃のことだ――がいる椎名でも、「見たことはあるんだけどな」と唸るばかりで、状況は一向に進展しないでいる。

「一体どうすればいいんだろう」と悩んでいる俺と椎名に、空也が、「思っていたんだけどさ。なんで喜乃にきかないわけ?」

 いつものようにファミレスに集まって、俺たちはこの間空也がメモをした紙を、穴が空くほど眺めていた。

 軽快な曲が流れる店内で、きんきんに冷えたジュースを飲む。いつもなら談笑している場面なのに、俺たちの間に流れる雰囲気は、頭を抱えたいことばかりで、少しだけ重たいものだった。

 そんな中での、空也のその提案は、目を覚まさせるようなものだった。「たしかに。珍しく冴えたことを言うな、空也」と顔を明るめた俺に、空也が「だろう」と胸を張るのを、椎名はなぜかひどく冷めた目で見ていて、「喜乃ねえ」と気乗りしない様子だった。

「考えておく」という椎名の返事が気に食わなかった空也が、椎名に噛みつく。「なんだよ、協力する気ねえの?」

「協力する気はあるよ。なかったらここまでいろいろ考えたりしない」

 椎名の言葉はその通りで、でも俺は空也と同じく、そんな椎名の反応が理解できなかったから、敢えて空也の意見に乗っかった。「じゃあ、喜乃に訊いてみるくらい、してくれてもいいんじゃないか?」

「駄目だとは言ってないだろう」と椎名が眉を顰めるのをみて、俺はつい椎名の苛立ちに充てられ、「気乗りしてないじゃねえか」と彼を詰る。

「わかった、わかったよ。喜乃に訊けば良いんだろう」

「椎名、てめ……!」

 嫌そうな椎名の様子にますます腹が立ち、がたんと勢いよく立ち上がった俺の肩を引っ張って、「ゆき! よせよ」と空也が大声で止めた。

 俺は渋々座りなおし、ふんぞり返るようにして椎名を見た。いつもだったら、俺がつかみかかろうとすると、椎名の方も強気にこちらを睨みつけるのだけれど、今日は視線を合わそうともせず、全く違うところへ目を逸らしてしまっている。

 そんな椎名の様子に違和感を拭いきれないまま、二日後の夜、俺のスマートフォンに、椎名から相変わらず無愛想な文章で、「喜乃、協力してくれるってさ」という、三行だけのメッセージがきた。

 あの日のことで、椎名が一言も俺に謝っていないというのは頭にきていても、「ムカつくから返事はしない」といえるだけの余裕がないことは、俺でもわかる。仕方なく俺は椎名に、「ありがとな。喜乃にも言っておいて」と短い文章を返した。

 ――椎名が喜乃に協力を頼むのを厭った理由は、何度考えてみても、「面倒だったから」としか、俺には思えない。

 でも、面倒だからという単純な理由だったにしては、椎名が珍しく、激昂する俺から目を逸らしていたことが、どうしても気になるのだ。そういうとき、「そういうの面倒だし、俺は嫌だ」くらい、あいつなら言うんじゃないか。

 でもそれを言わなかったというのは、やはりなにか事情があるのでは……。

 ベッドに寝転がりながら随分長いこと考えていたけれど、結局俺は、「イツカのことでもいっぱいなのに、椎名の面倒まで見たくない」という結論に達してしまい、気が付くと朝まで眠っていたのだった。

 目が覚めると、カーテンの隙間から朝の光が差し込んでいる。いつの間にか蹴っ飛ばしていたタオルケットをぼんやり探して、それからスマートフォンの通知を確かめた。

 仲間からのメッセージを開こうとしたとき、友達申請に一件、通知マークが出ていることに気が付く。うんざりした気持ちでそちらから見て、俺の頭は一瞬はてなを浮かべた。「……喜乃?」

 どうして喜乃が俺のアカウントを知っているんだろう。椎名が教えたのだろうか。

 それから芋づる式のように、椎名に頼んで喜乃に協力してもらうことになったことを思いだし、俺は喜乃の申請を、さっそく画面をタップして受け入れた。

「おはよ。椎名にきいたのか?」と俺が一通だけメッセージを喜乃に送ると、すぐに既読になって、喜乃から返事がくる。「そうそう。よろしく、雪平」

「ちなみにこれ、俺の知っているみんなの住所」と通知音が数回鳴り、メモアプリのスクリーンショットが数枚送られてきた。「電話番号はさすがに書いてないけど、そこは許して。ここまでは協力するよ」というメッセージで、俺は初めて喜乃を見直せたような気がした。

「ありがと」と俺が送ったメッセージに前後して、「ただ」と喜乃からメッセージが続けて送られてくる。「俺は、流星のこと、なにも知らないから」

「だから、ごめん」という文章と、コミカルな、だけど泣きながら詫びているスタンプが送られてきた。「わかった。ありがとうな」とだけ返して、俺はスマートフォンを閉じる。

 なんにせよ、なんとなく前進はしている気がする。だからそれでいいかなと、俺は喜乃に対して何の疑いもなく、ベッドから起き上がり伸びをした。

 喜乃の協力を得てからすぐに、流星たちの同級生であり、イツカの友達である人物たちに流星とイツカのことを訊ねて回ったけれど、やはり流星のおばさんすら知らない死の理由や、それにイツカが関わっているのかどうかなんて、同じ学年だっただけの子どもたちが知っているはずがない。

 三人別々に分かれて沢山の奴らに話を訊きに走ったあと、俺と空也は、椎名が戻ってくるのを待ちながら、近所のコンビニでたむろをしていた。

「やっぱり、真相を知るなんて無理だったんだな」

 すっかり気落ちして俺がそういうと、能天気な空也もさすがにううんと唸っている。

 セミの鳴き声が相変わらず耳障りなほど響いているし、アスファルトの地面の反射熱で、うんざりするほど蒸し暑い。汗が流れるのとともに、空也の食べていた甘そうな棒アイスの水滴が地面に滑り落ちた。

「ごめん、ゆき、空也。待たせた」と、俺たちに大声を出しながら、椎名が向かいの道路から一直線にコンビニまで走ってきた。はあ、と数度深呼吸をしてから、「あっついな……」と小さな声で愚痴り、服の首元を数度引っ張る。

 イツカと流星の同級生たちに、一通り聞き終わって、俺と空也は、椎名より一足早く、集合場所に設定した迫田家近くのコンビニに居たのだった。

「椎名のほうも、何も収穫なしだろう?」

 空也が、走ってきたせいで汗をだらだらとかいている椎名に訊ねると、椎名は丸めていた背を伸ばし、空也に対してふんと鼻を鳴らした。「あったよ。一応な。まあ、流星のっていうより、イツカの話だけど……」

「イツカの?」と俺が訊き返すと、椎名はちらりと俺を見て、それから視線を外し、ぼそぼそと言う。「あんまり、気分の良い話じゃないんだ。ゆきが訊きたいなら言うけど、そうじゃないならわざわざ訊かなくても良いような話だよ」

「うん? なんだそれ」空也が目を丸くしたのと、俺が眉をハの字に寄せたのは同時だった。「いいから、言えよ。なんか気になるしさ、そういう風に言われると」と俺が催促すれば、椎名はやはりなにか迷っているような素振りを見せつつだけれど、やっと俺に話す気になったようだった。「……えっとな」

「イツカの話なんだけどな。イツカ、担任に虐められていたんだって。それも結構、八つ当たりとかそんな感じのやつでさ、イツカはなにも悪くないのに、教壇の前に立たされて、みんなの笑い物にされたりとか、担任が率先して嫌らしいあだ名をつけたりとかしたらしくて」

 それを訊いて、俺の背筋がぞっと凍り付く。地面を這うような声が出た。「……は?」

「なんだそれ、イツカからそんなこと、きいたことないって」

「訊いたことなくても、本当の話っぽくてさ。色々な奴らが言ってたんだよな」

 椎名が重ねた言葉がなぜか癪に障って、俺は荒っぽい声を出す。「――俺はきいてねえ!」

「そりゃあ、ゆきはイツカの兄貴だし、言えなかったんじゃ――」

 椎名が最後まで言うより前に、俺は椎名に掴みかかろうと手を伸ばした。でもそんな俺よりはやく、空也が、俺と椎名の間にはいって俺の腕を取る。「ゆきっ、ちょっと落ち着けよ!」

 嫌に冷静な空也が、俺がぐつぐつと煮えたぎる頭の中で考えていた疑問を訊ねる。「ありえないだろ、イツカちゃんがいじめられてたなんて。流星が、っていう間違いじゃなくて?」

 そんな疑問が口をついて出ると言うのは、つまり、空也だって、「なにかの間違いだろう」と思っている証拠なのだ。

 俺は、「間違いに決まっている」というより、「間違いであってほしい」と思っていた。イツカがいじめられていた? ということは、「流星が死んだ理由がイツカだったから、彼女が引きこもった」のではなく……彼女はそれよりもっともっと前から、傷ついていて、それで……?

 それならなぜ、イツカは流星がいなくなったタイミングで引きこもったのだろう。泣きながら暴れたあのときに、「りゅうせいくん」と名を呼んだのはなぜなんだ?

「……その話は、ちょっと、また今度にする」

 俺が痛む頭を押さえながらいうと、今度は椎名がなぜか信じられないものを見る目で俺を見て、「おい、ゆき……」と低く俺を呼んだ。空也も、どこか軽蔑したような目で俺を見ている。

「そんなこと掘り起こしたって、何の意味もないじゃないか。もう少し、別の方向から調べてみよう」

「本気で言っているのか」と椎名が呟く。俺は視線を地面に落としたまま頷いた。

 なぜか俺は、それに固執したら、もっと大きななにかを見逃してしまう気がしていた。だけどそれをうまく言葉にすることが、どうしてなのか、俺にはできそうになかったのだ。

 その場は、そのままお開きとなった。その日はさすがに俺も、それ以上イツカや流星の周りを探る気持ちになれず、それは椎名や空也も同じだったようで、どちらからともなく「帰る」と言って、ふたりはばらばらに帰路についてしまった。

 俺はコンビニの前に座り込んだまま、一歩も動けずにいた。ぐるぐると頭の中をまわるのは、不快なほどの暑さがまとわりつくことと、そして――イツカがいじめられていただって、しかも教師に?……ありえないだろう!

 どれくらいそうして屈みこんでいたのだろう。喉がとても乾いて、体がべたべたする。頭がふらりとしたときに、今日初めて空を仰いだ。夕焼け空が広がっていて、どこからともなくカラスの鳴き声が聴こえてくる。

 ずきずきと頭が痛むこともあって、きつい体を引きずってコンビニに入り、冷たい水と塩味のタブレットを買う。それをなんとか舐めながら、俺はやっとのことで家に帰った。

 玄関を上がると、リビングから、母さんが見ているのだろうニュースの音がする。

「ただいま」と声をかけてリビングに入ると、俺の顔を見た母さんが、いつものように微笑んだ。「おかえり、雪平」

 クーラーの効いたリビングですこし体を休めてから、風呂に入る。その間も、どうしたって気持ちを落ち着けることはできそうになかった。

 自室に戻る途中でイツカの部屋の前を通るときに、俺の心臓がひとつきされたような痛みを覚える。

 部屋に入って、扉を荒っぽく閉め、床に放置された鞄を投げつけた。たたきつけられて、鞄の中身が大きな音を立てる。

 「くそ」「ふざけんなよ」みたいなことを、叫んでいた気がする。隣の部屋にイツカがいるだろうことだとか、母さんが怖がるだろうなとかも、頭の片隅にあったけれど、どうしても今だけは許してほしかった。

 やるせない、悔しい、どうしてイツカが?――椎名や空也の前では、絶対に出せなかった鬱屈を全部吐き出して、気が付くと、電気もつけていない薄暗い部屋の中は荒れ、俺はベッドにうずくまって泣きはらしていた。

 母さんは、俺の部屋に上がってこなかった。気持ちが落ち着いた頃にやっとリビングに向かうと、母さんがどこか心配そうにこちらを見て、「雪平、ごはんよ」

 それから俺がいつもの椅子に座ったところで、「雪平、なにかあったら母さんにも言ってね。あんたたちはすぐにため込むから……」と小さく言われた。きっとそれが、母さんの精一杯だったのだろう。

 思えば、イツカが引きこもりだして、この家はいびつになった。

 母さんはいつも俺やイツカに怯えていて、父さんも家の中で緊張していることが増えた。

 なにがあっても絶対に親からは何も言わないようにしよう、と二人で約束でも交わしたのだろうか、と思うほどに、二人とも俺たち兄妹に対して遠慮をするようになった。

 ――流星の名を、家の中で封印したこともそのうちのひとつだ。

 引きこもりのイツカにろくに触れずにいたのも、もしかしたら両親が娘を気遣った結果だったのかもしれない。今になってイツカを心配しだしたのは、きっとイツカが中学三年生、受験の時期になって、やっと「このままではいけない」と気が付いたのだろう。

 よくよく考えれば、イツカをいじめていた担任教師は、イツカが小学生のときの担任なのだろうから、中学に上がったいま、もうイツカには関係ないのではないか。

 でも、「だからさイツカ、学校にいけよ」ということは、無神経である気がしてならないし、そうしたいとも思えなかった。喉に小骨が引っかかっているような、小さな違和感があるのだ。

 味のしない夕飯を食べ終えて、歯を磨き、いつものようにベッドに横たわってぼんやりと天井を見上げる。いつもならスマートフォンを開いてソーシャルゲームをしている時間だけれど、どうしてもそんな気になれずにいた。

 イツカの部屋から物音が聴こえる。この家は音が響くのだ。「さっき暴れたのも、イツカには丸聞こえだったのだろうか」「怖がらせたかな、謝らないといけないかな」と考えはしたけれど、なんとなくそれは嫌で、俺はイツカの顔を見ることもなく固く目蓋を閉じた。

 皮肉にも、随分と久方ぶりに、俺は流星を忘れて眠ることができたのだった。

 こん、と誰かが俺の部屋をノックしている。眠りから覚めたばかりで口がしっかり動かずに、俺はもごもごと「だれだよ……」と扉の向こうの人物に訊ねた。声がこもり過ぎて向こう側に聴こえなかったのか、その人物はなにも言わないまま、遠慮がちにドアを開ける。「お兄ちゃん?」

 瞬間、俺は一気に目が覚めた。「おわ、イツカ?」と間抜けな反応をして、反射的に起き上がる。イツカは俺のもとに近寄らず、ドアのそばに突っ立って、言葉に迷っている様子でこちらを眺めていた。

「なんだよ、どうした」

 俺は頭の中で、散々迷ったあと、ゆっくりと一番当たり障りのない言葉をイツカにかける。イツカは目を泳がせた後、結局視線を床に落としたまま、腕だけを伸ばした。「これ、読んで」

 イツカがそっと俺に差し出したのは、ぼろぼろに折れ曲がった、紙の切れ端だった。それは指であとをつけてから、メモ帳サイズに丹念に破られている。

 なんだろうと開くと、見たことのあるような子供の字で、文章が書かれていた――「五日へ。約束をまもれなかったので、死にます。流星」

「イツカ、これ」

 読んだ途端、ばくばくと鳴りだした心臓を押さえて、俺はイツカに震える声で訊ねる。イツカをよく見ると、その体も俺と同じように震えていた。俺はなんとか声を絞り出し、「どういうことだよ……」

 俺の問いかけに、イツカは視線をやっと俺の顔に向ける。イツカの目から、ぼろっと涙がこぼれた。「ごめんなさい、お兄ちゃん。私が流星くんを殺したの」

「私が、殺したの……」

 そう声をふるわせて、いよいよイツカはその場に座り込む。彼女は両手で顔を覆って、静かに泣いた。俺はその肩に寄りそうこともできず、立ち尽くして妹を見ていた。

 時刻は二時を指していて、両親は一階でぐっすり眠っているような時間だった。

 窓から差し込む光も、月あかりもない。妙に明るい蛍光灯の光がイツカと流星の手紙を白く浮かばせていて、きっとこの場に立つ俺もそうやって人工の灯に浮かびあがっているのだろう。

 イツカの泣き声だけが響く部屋の中で、俺はなにも言えなかったし、なにもできなかった。ただ頭が鈍く痛み、心臓が早鐘のように鳴っている。

 嫌な予感が形になっただけだということすらも、今の俺にはうまく理解できなかった。この手紙はなんだろう。嫌がらせにしてはひどすぎる。

 そうか、嫌がらせ――嫌がらせなんだ。これはきっと、教師にいじめられていたイツカを揶揄う誰かから、彼女が受けた嫌がらせのひとつで……それを彼女は、今の今まで信じ込んでしまったんだ。

「イツカ、これ、本当に流星からなのか?」

 俺はそう思うのとほぼ同時に、イツカにそうしずかに訊ねていた。イツカは顔を上げられないまま、こくりと一度頷く。「本当に?」と俺が再度訊ねても、イツカは頷くことしかしない。

 俺はあまりのことにぶっ倒れそうだった。

「私が流星くんを殺したの。流星くんが死んだのは、私のせいなんだよ」

「だからお兄ちゃん、私がなにをしても、もう止めないでほしい」と、イツカは小さく言った。俺はその言葉に耳を疑う。「は?」と俺がつい口を開けると、イツカは俺をまっすぐ見た。濁った両眼が、本当にまっすぐ、一直線に俺を見ている。

 ――止めるなって、なんのことだ? 決まっている。……決まっている!

 俺は、イツカの言葉の意味が分かった途端に、頭にぐんと血が昇った。「お前、ふざけろよ」と、ひどく冷えた声が出た。

 イツカはこちらを射抜くように視線を投げている状態のまま、真摯な表情を微塵も崩さない。「ふざけてない」と口答えした彼女を、俺はいままで彼女とやった喧嘩のなかで一番、「許せない」と思った。

「……わかった。じゃあ、勝手に死ねよ」

 俺の口から、冷酷な言葉が勝手に出ていく。肩を思い切り怒らせて、俺は心を病んでいただけなのだろうイツカを、無情にも怒鳴りつけた。「電車にでもなんでも、轢かれて死ねば良いだろう!」

 イツカは一度頷いて、くるりと俺に背を向ける。

 泣いたあとが残る顔に決意が浮かんだのを見ていたのに、病んだ妹にそんな糞みたいな決意をさせた俺は、ただそれを眺めているだけだったのだ。

 イツカが出て行ったあと、俺は無性にむしゃくしゃとして、腹立ち紛れに部屋中のものを投げつけて暴れた。音を聴きつけた父さんと母さんが、「雪平!?」と焦った声で俺の名を呼ぶ。

 父さんが暴れる俺の腕を抑えつけたとき、俺は無我夢中でイツカの部屋に向かって、「勝手に死ね! 絶対に許さないからな、お前、ふざけろよ!」と無茶苦茶なことを叫んでいた。

 父さんが俺の名を叫んで、俺の頬を一発、強くった。俺はへなへなと座り込んで、周りの状況もよくよく確かめられないまま、声を押し殺して泣いた。

「悔しい」という気持ちの名前はわかっても、どうして自分がそんな感情を覚えているのか、俺自身のことなのに、まったくわからなかった。

 その次の日の課外を、俺は夏休みが始まって初めて休んだ。

 それなのに家にいることもできなくて、気が付くと俺は流星の死んだあの駅にきていた。

 行くところもないのに定期をかざして構内に入り、ぼうっと待合室に座って流星が死んだ線路を眺めたけれど、ここで彼が死んだことを、どうしても受け入れられなかったし、三年も経ったいまでも、その想像がつかない。

「私が殺したの」というイツカの言葉を思い出す。

「約束を守れなかったから、死にます」という、イツカから手渡された流星の遺書を、なんとなくイツカに返したくなくて、こっそり持ってきていた俺は、ジーンズのポケットに突っ込んだせいでくしゃくしゃになったそれを取り出した。

 眺めているうちに、線路に撒いてしまおうかと奇妙な案が浮かんで、待合室から出て線路の傍に立ち、その紙を破ろうとしたけれど、どうしても指に力が入らなかった。

 夕方までそうしてぼうっとその駅に居た俺は、橙の空を見上げて、やっと家に帰ることを決意した。

 イツカに「死ね」と叫んだ裏切り者の俺でも、結局あの家しか帰る場所がなかったのだった。

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