神楽狐堂のうせもの探し

彩戸ゆめ

第1話

 飯田橋の西口から出て交番を右に曲がると、神田川の上流から冷たい風が吹いてきた。


 相澤乃々葉ののははパステルブルーのスプリングコートの前を合わせ、ぶるると体を震わせる。


 花曇りの空は、未だに肌寒さを感じさせる。ここしばらく暖かい日が続いていたから、厚手のコートは全部荷物で送ってしまっていた。


 今着ているワンピースも春物だから覚束ない。一枚くらいは暖かいセーターを残しておくべきだったかと後悔する。


 昨日まではあんなに暖かかったのに、ついてないな。


 心の中でため息をつくと、右手でコートの前を合わせたまま左手でキャリーバッグを引く。

 歩けば少しは体も温まるだろう。


 交差点を抜けて早稲田通りをまっすぐ行くと、ここも随分変わったなと思う。


 乃々葉が小さな頃は伝統のある古い店が軒を連ねていたような気がするが、今ではすっかり若者向けの店に取って変わられている。


 貧乏学生の私にとっては有難いけど……でも、このお店は変わらない。


 坂を上がる途中にある鰻屋志満金の店構えは、以前見たそのままだ。格子の引き戸に色褪せた暖簾のれんを見ると、そこだけ時が止まったかのように見える。


 窓ガラスに張られている神楽坂をどりのポスターが、少しはがれてパタパタとはためいていた。


 昔一度だけ、神楽坂の伯父に連れられてここで昼食をご馳走してもらった事がある。


 あの頃はまだ伯父が存命で、ここの肝串がおいしいんだよと言っていたのを思い出した。


 夕方の五時にならないと提供されないとかでまた今度来ようと約束したのだが、その後すぐに伯父の病気が分かって、結局その約束は果たされなかった。


 神楽坂の伯父と呼んでいたが、実際には乃々葉の祖母の姉の夫だから大伯父にあたる。

 履物の職人で、若い頃はさぞかしもてたのだろうなと思う端正な顔立ちをしていた。


 職人というと気の荒い江戸っ子を想像するが、どこの高貴な家の出身なのだろうかと思うほど、その物腰は洗練されていた。


 大伯母は顔の丸い、美人というよりは愛嬌のある顔立ちだったから、一体この二人の馴れ初めはどうだったのだろうと想像したものだ。


 乃々葉もどちらかというと美人というよりは愛嬌のある顔立ちなので、二人のロマンスには非常に興味があったのだ。いつか聞きたいと思っていたけれど、結局聞きそびれたままだ。


 乃々葉は懐かしく思いながら神楽坂を上がる。しばらく行くと左手に、見番横丁と呼ばれる細い小道が現れた。


 ここは芸者衆の手配や稽古を行う「見番」と呼ばれる組合が沿道にあることから名付けられた道だ。


 その角に大伯父の履物屋があった。


 大叔父が存命の時は大きな店構えに圧倒されたものだが、今は二つの店舗に分割され、乃々葉の知らない店に変わってしまっている。


「へえ。オーダーメイドの靴屋さんかぁ」


 乃々葉が持っている上等な靴は、入学式に履く予定のパンプスが一足だけだ。


 デパートで母が買ってくれた大事な物なので、キャリーバッグの中に入れて持ってきている。

 他の荷物は宅急便で送ったけれど、これだけは自分で持ってきたかった。


 それでも乃々葉もおしゃれには興味のある年頃だ。オーダーメイドの靴がいくらくらいなのかと値札を見て、そのあまりの高さに驚く。


 私の靴が三足は買える値段だよ……。


 肩をすくめた乃々葉は、その隣の店に目をやった。


 こっちはカフェなんだ。


 神楽狐堂かぐらこどうという和風の店名なのに、ヨーロッパ風の洒落た雰囲気の店構えだ。

 コーヒーの良い匂いが鼻先をかすめた気がして、乃々葉は大伯母を誘って後で飲みに来ようと決心する。


 カフェを通り過ぎると、そこには小さなドアがある。その横のインターフォンを鳴らすと、すぐにパタパタと階段を下りる音がしてドアが開いた。


「乃々葉ちゃん、よく来たわねぇ」


 大伯母の田村由紀子は笑うと目じりの皺が深くなる。その笑顔は以前のままだったけれど、心なしか一回り小さくなったような気がする。


 伯父が亡くなった後は高校受験やら何やらあって大伯母には会っていなかったから、少しやつれたんじゃないかと乃々葉は心配になった。


「まあまあ、少し見ない内に大人っぽくなったわねぇ」

「伯母さん、お久しぶりです」


「疲れたでしょう。ささ、早く中へお入りなさい」

「はい。お邪魔します」


 玄関に入ると右側が壁になっているのに気がついた。伯父が存命の時は、そこに店へと繋がる入口があったはずだ。


 けれども成人式には乃々ちゃんにぴったりな履物を作ってやるからなと胸を叩いた大伯父は、もういない。


「乃々ちゃん?」


 乃々葉が立ち止まったからか、由紀子が階段を上りかけて振り返る。


「ああ、もうお店は人に貸してしまっているから、用心の為に入口をつぶしたのよ」


 乃々葉の視線の先に気付いた由紀子がそう説明してくれる。


 乃々葉はキャリーバッグの取っ手をしまってよいしょと抱えると、「そうですか」と答えて由紀子の後に続いた。


 少し急な階段を上がると、もう一つ扉がある。


 その扉を開けると、どこか物寂しい匂いがした。ここには由紀子が住んでいるはずなのに、人の気配があまりしない。


 伯父が生きていた頃は、もっと明るい家だと思っていたけれど……。


 入ってすぐのリビングには白いカラーの花が飾られていて、由紀子が乃々葉が来るのを楽しみにしてくれているのが伝わってきた。


「さあさあ、そこに座ってちょうだい。疲れたでしょう?コーヒーと紅茶、どっちがいいかしら?」


 砂糖とミルクたっぷりのコーヒーを頼もうと思って、さっき下で見たカフェの事を思い出す。せっかくだから、コーヒーはあの店で飲んでみたい。


「紅茶でお願いします」


「じゃあ少し待っててね」


 由紀子がケトルでお湯を沸かしている間に、乃々葉は椅子に座ってふうと息をついた。


 これからここで暮らすのかと、部屋の中を見回す。


 進路を決めた時には思いもしなかったが、推薦で大学に合格した後、急に乃々葉の父にシンガポールへの海外転勤の辞令が下りた。


 最初は父だけが単身赴任をするという話だったが、一人では卵焼きすら作れない父だ。まともな生活を送れるとは思えない。それに妹の日和が父と一緒に行きたいと言い出した。

 

 五歳下の日和ひよりは、まだ中学生だというのに乃々葉よりもしっかりしていて、義務教育の間に海外の学校に通って語学を学びたいと両親に訴えたのだ。


 シンガポールの公用語は英語、中国語、マレー語、インド南部の住民が使うタミル語の四言語だから、語学の勉強にはもってこいだ。


 ののちゃん、これからは国際社会だから英語は必須だから一緒に行こうよって誘われたけど、そもそも私が行くのは国文科で、専攻は御伽草子にする予定なんだよ……。


 就職には不利かもしれないけれど、どうしても乃々葉は御伽草子を研究したかった。ウェブで御伽草子の絵巻物を漫画仕立てにしたのを見て、すっかりその魅力に憑りつかれてしまったのだ。


 だから乃々葉はせっかく受かった大学を辞めてシンガポールに行く気にはなれない。かといって、父と同じく一人暮らしができる能力はない。


 賄いつきの女性専用の寮というのもあるらしいが、人見知りする乃々葉にとって、共同生活はハードルが高い。


 どうしようかと困っているときに、大伯母の由紀子から一人で暮らすのは寂しいから海外から留学してきた学生を預かるホストファミリーになろうかしらという相談を受けた。


 それなら乃々葉を下宿させてくれないかとお願いし、こうしてお世話になる事になったのだ。


「優子ちゃんたちは、今頃空の上かしらねぇ」


 子供のいない由紀子は昔から姪に当たる乃々葉の母を可愛がってくれていて、いつも名前で呼ぶ。自分の母が「ちゃん」付で呼ばれるというのは、なんだか不思議な気持ちだ。


「日本から七時間半くらいで着くみたいです」

「時差はあるの?」

「一時間進んでるのかな」

「じゃあ連絡が取りやすくていいわね。電話代は気にしなくていいから、どんどんかけてね」


 国際電話をかけると高いから、母には絶対にかけてはいけないと言い含められている。

 由紀子の家の電話はもちろん、乃々葉のスマホでも緊急時以外はかけるのが禁止だ。


「今はズームで連絡が取れるから大丈夫ですよ。えーっと、パソコンで連絡が取れるんです。映像も送れます」

「テレビ電話みたいなものかしら。便利になったわねぇ」


 感心したような由紀子が頷くと同時にケトルの笛が鳴った。


 立ち上がった由紀子は、慣れた手つきでティーポットにお湯を注いでゆく。


「そうそう。荷物は部屋に運んであるから、後で見てちょうだい」

「ありがとうございます。あの……、突然すみませんでした。お世話になります」


 乃々葉が頭を下げると、品の良い笑顔を浮かべた由紀子は「いいのよ」と言って乃々葉の手を取った。


「主人が亡くなってからこの方ずっと寂しかったから、乃々ちゃんが来てくれて凄く嬉しいわ。こっちがお礼を言いたいくらいよ」

「伯母さん……」


「それにこれから一緒に暮らすんだから、堅苦しい言葉遣いはなしにしてちょうだい。普段通りに話してね」


 乃々葉が「分かりました」と答えると、由紀子はついと壁のカレンダーに目を向けた。


「裕子ちゃんも、乃々ちゃんの入学式を見て行きたかったでしょうね。もうちょっと日付をずらせば良かったのに」

「さすがに入学式のためだけに出発を遅らせてくれなんて言えないよ」

「それもそうね。日和ちゃんの学校のこともあるし」


 日和が行くのはシンガポールの日本人学校だが、それとは別に語学スクールにも通う予定だ。

 その手続きの関係もあり、今日の出発となった。


 日和は最初、地元の中学に入学を希望していたのだが、シンガポールの中学は日本のように学区制ではなく、希望の学校に入学を希望して審査の後で決定する。


 小学校ですら入学には審査が必要とされるので、日和の英会話能力と学力では地元の中学に通うことは厳しく、断念せざるをえなかった。


 だがこれが逆に日和のやる気に火をつけた。今では父の赴任中に英語と中国語をマスターしてやると奮起している。

 乃々葉も、日和なら成し遂げるのではないかと期待している。


「入学式……。いいわねぇ。一度も参加したことがないから、代わりに私が行ってみたいわ……。あぁ、冗談よ、冗談。だってこんなおばあちゃんが一緒じゃ、乃々葉ちゃん、恥ずかしいものね」


 どこか遠くを見るように話していた由紀子は、じっと見つめる乃々葉に気づいて慌てて否定した。


「そんなことないです。あの、もし伯母さんが来てくれるなら、凄く嬉しい」

「まあ、本気にするわよ?」


「ぜひ本気にしてください」

「あらあら。じゃあぜひ乃々ちゃんの晴れ姿を見せてちょうだいね。嬉しいわ。後で留袖を出しておこうかしら」


 両手を合わせて喜ぶ由紀子は、目じりの皺を一層深くして微笑んだ。


「そういえば、この下のお店は靴屋さんとカフェになったんですね」


「靴屋さんの方は元々趣味でオーダーメイドの靴を作っていたんですって。うちのお得意さんだった芸妓さんから頼まれてね、それでお貸ししているのよ。カフェの方は、主人の友人の息子さんがやっているんだけど、凄くハンサムよ。ええと、今は何て言うんでしたっけね。イ……イクメンだったかしら?」


「伯母さん、それイケメンじゃないかな。イクメンは子育てを手伝う旦那さんのこと」

「……最近の若者言葉は難しいわねぇ」


 それほど最近の言葉じゃないけど、と言いかけて、この家の中に入った時、時が止まっていたかのような感覚を覚えたことを思い出す。 


 だから由紀子の言葉を否定するのではなく、乃々葉は曖昧に笑った。


「伯父さんというイケメンを見慣れた伯母さんがそこまで言うなら、凄く期待しちゃいます」


 年をとっても端正な顔立ちだった大伯父と結婚した伯母が太鼓判を押しているのだ。


 カフェの店主もかなりの美形に違いない。


「そうだ。乃々ちゃん、せっかくだからコーヒーを飲みに行かない? お味も凄くいいのよ」


 イケメンは別にどうでもいいけれど、来る時に香りを嗅いでから、乃々葉はカフェでコーヒーが飲みたかった。


 二つ返事で頷いて、由紀子と連れ立って階下のカフェへ行く。


 カラランとドアベルを鳴らしながら店内に入ると、そこはカフェとアンティークショップが混ざったような不思議な雰囲気の店だった。


 壁には年代物の時計が数点と、作り付けの本棚には外国語で書かれた立派な表紙の本が並んでいる。


 仕切りのように置かれている背の低い飾り棚には、年代物の懐中時計やティーセット、そして琥珀玉が飾られていた。


 天井からぶら下がるシャンデリアには色々な形のものがあるが、不思議と統一感を感じさせる。


 席はわずか三席で、赤いビロードのような布の張られたソファと、手触りの良さそうな緑色の肘掛け椅子と、黒い革張りのソファがそれぞれ並んでいる。


 最近は本屋とカフェの融合であるブックカフェがはやっているので、もしかしたらこのアンティークも実は売り物で、言うなればここはアンティークカフェと呼ばれる店なのではないだろうかと乃々葉は考えた。


「由紀子さん、いらっしゃい」


 一人も客がいないのならいいだろうと遠慮なく辺りを見回す乃々葉の背後から、店主らしき男の声がかけられる。


「ああ、君が由紀子さんの姪っ子さん? うん。良く似ているね」

「乃々葉っていうの、可愛いでしょう。乃々ちゃん、こちらがこのカフェのオーナーの胡堂こどう玲くんよ」


 振り返った乃々葉は、オーナーの青年を見て確かにイケメンだと思った。


 スラリとした体格で、艶のある黒髪は少し長めで耳を隠している。切れ長の瞳は黒一色ではなく青みがかっているようにも見えるから、もしかしたらハーフなのかもしれない。


 二の腕までまくった白いシャツと、体にフィットした黒いベスト。そして黒いギャルソンエプロンを着ている姿はまるでモデルのようだ。


 けれどそれよりも、乃々葉にはもっと気になることがある。


 ……どうして頭に動物の耳がついてるんだろう。


 ハロウィンはもうとっくに終わったけれど、季節外れの仮装だろうか。それにしても喋りながらたまに動くあの三角形の耳は、とても作りものには見えない。


 しかも由紀子と話すのが楽しいのか、ピコピコと機嫌よく動いている。


 由紀子はあれを見て何とも思わないのであろうか。もしかしてすっかり見慣れていて、もう驚かないということだろうか。


「――乃々ちゃん、聞いてる?」

「えっ。あっ、なに、伯母さん」


「もう。いくら玲くんがイク……イケメンだからって、ぼうっとしちゃダメよ」

「伯母さん、そんなんじゃないよ」


 確かに乃々葉だって美形は好きだけれど、いくら美形でも動物の耳をつけている人はちょっと、と思う。


 人間……じゃないよね。だとしたら何だろう。化け物?


 乃々葉の視線は、玲の頭の上の耳から離れない。

 それに気づいた玲は、困ったように苦笑した。


「お好きな席へどうぞ。由紀子さんはいつものでいいですか?」

「ええ。お任せするわ」

「そちらの乃々葉さんは、何にしますか?」


 赤いソファに腰かけながらペシャリと伏せた黒い耳を凝視していた乃々葉は、ゆっくりと玲の顔に視線を移した。端正な顔は困ったような表情をしている。


「メニュー……、メニューはありますか?」

「今お持ちしますね」


 玲がメニューを取りに行く間に、乃々葉は声を潜めて由紀子に聞いてみた。


「伯母さん、あの人の耳って……」

「耳? そういえば髪が長いから、出してるのを見たことがないわね」


 という事は、つまり由紀子には頭の上の動物の耳が見えていないという事だ。


 こんなにはっきり見えてるのに?


 乃々葉は目を丸くして伯母の顔を見るが、にこにこしているだけでその表情に変わりはない。

 もしかして、あの耳は乃々葉にしか見えてないのだろうか。


「はい。こちらがメニューです」


 乃々葉は更に詳しく尋ねたかったのだが、すぐに戻ってきた玲によって言葉を続けられなくなった。


 こうなったら一番手間のかかる注文をして、その間に伯母さんに聞いてみよう。


 そう決心しながらメニューに目を落とすと、かなり本格的なコーヒーを淹れてくれるらしく、産地ごとの種類に分かれている。


 カウンターにはサイフォンが置いてあるから、おそらくコーヒーを頼めば時間を稼げるはずだ。


 とりあえず無難にスペシャルブレンドを頼もうと思った乃々葉は、ふとメニューの端に載っているものに目を留める。


「うせもの探しスペシャル……?」

「あら。新メニューかしら」


 変わった名前に首を傾げていると、由紀子が正面からメニューを覗きこむ。


「一万円!」


 あまりの値段に乃々葉がメニューを指して叫ぶと、由紀子は「きっと最高級品なのね」とおっとり笑った。


「最高級品でもこんなに高いのはあり得ないでしょ」


 憤慨する乃々葉に、店主の玲は意味ありげに微笑む。


「これは選ばれた特別なお客様だけに出すお品です。あなたには取り戻したいものがありますか?」


 青みがかった瞳が乃々葉をじっと見つめる。


 玲から視線が外せなくなり、まるで金縛りにあったかのように体が動かなくなる。コクリと喉を鳴らした音が、店の中に反響した。


「そんなものは――」


 ない、と言おうとした声は、正面からの声に遮られる。


「何でも……取り戻せるの?」

「命数の尽きたもの以外であれば」

「……そう。じゃあ私には必要ないわね」


 由紀子はそう言って目を伏せた。


 それを見た乃々葉は、伯母の取り戻したいものが何か分かった。だが死んだ人間など取り戻せるはずがない。


 それにしても、命数の尽きたもの以外であれば取り戻せるというのはどういう事だろうと疑問に思う。


 乃々葉が失せものと聞いてすぐに思い浮かぶのは、どこに置いたのか忘れてしまった品々だ。

 使おうと思ってしまっておいた図書カード。大切に取っておいたはずの映画の半券。日和とお揃いで買ったお気に入りの手袋。


 でも父の赴任中は誰も住む者がいなくなったとはいえ、家がなくなったわけではないのだから、どれも家の中を探せば見つかるはずだ。別にわざわざ探してもらうほどのことではない。


 そもそも失せものを探すというのも怪しい話だ。まるで、インチキ占い師や霊能者の謳い文句のようではないか。


 乃々葉は、もしかしたらこの店主は由紀子のような老人を相手に、普通のコーヒーを特別なコーヒーだといって騙して高いお金を払わせているのではないかと怪しんだ。


「あれ。おかしいな。このメニューの文字が見えるのは、どうしても探したいものがある人だけのはずなのに」


 そしてそんな玲の言葉は、さらに乃々葉に不信感を募らせる。


 やっぱりこの人、ペテン師だ!


 そう決めつけた乃々葉は、まなじりを吊り上げた。


「伯母さん、こんな変なお店でコーヒーなんて飲んだら、中に何を入れられるか分からないよ。だから帰ろう」


「乃々葉さん、ちょっと待ってくれ。別に怪しいものなんて入れないから。……あぁ、そうだ。だったらお試しで飲んでみないかい? もちろんサービスするから」


「そんなこと言って、変なものが入ってたりしないでしょうね?」


 すっかり疑い深くなっている乃々葉はすぐには頷かなかった。それを見た玲が、眉を下げる。


「まさかそんな事はしないさ。コーヒーを淹れる所を見てもらえれば分かるよ」

「そのコーヒーに最初から何か入ってたら分からないじゃない」


「ずいぶん疑り深いんだね」


 取りつく島のない乃々葉に、玲は助けを求めるように由紀子の方を向く。


 すると由紀子は「あらあら」と微笑みながら、「じゃあ私に、そのうせもの探しスペシャルを飲ませてちょうだい」と言った。


「伯母さん!」

「大丈夫よ、乃々ちゃん。玲くんとは長い付き合いだもの。そんな悪いことをする人には思えないわ」


「長い付き合いっていっても、親しくなったのはカフェをやるようになってからでしょう? 伯母さんの前では猫を被っているかもしれないじゃない」

「あらあら。乃々ちゃんは心配性ねぇ」


 乃々葉がおっとりと笑う由紀子に毒気を抜かれていると、玲が「それでは」と姿勢を正した。


「それでは、オーダーたまわりました。ひと時のうせもの探しの香りを、存分にお楽しみください」


 そう言って優雅に一礼をする姿に、由紀子は感嘆のため息をついた。


 だが乃々葉は、更なるうさん臭さに警戒の色を強める。


 カウンターに戻った玲は、まず二台のサイフォンにフィルターをセットした。それをフラスコにセットして、上からお湯を注いでフィルターを温める。


 フラスコにたまったお湯を捨てると、綺麗に外側の水気を拭いてから今度は銀色のおしゃれなケトルからお湯を注ぐ。


 次にアルコールランプに火をつけてフラスコの下に入れてから、フィルターをセットしたロートにコーヒー豆を入れて斜めにセットした。


 フィルターのついた鎖の先から小さな泡が、ポコリ、またポコリと浮かんでくる。それを確認した玲は、ロートを真っすぐにした。


 ふわり、と蒸気と共に、鼻の先にコーヒーのふくよかな香りが漂う。


 フィルターをくぐって上がってきたお湯は、コーヒーの粉と混ざり合い、泡を立てながらコポコポと音を立てている。


 白い硬質なヘラを手にした玲は、片方のコーヒーをさっと混ぜると、もう片方を歌いながら混ぜた。


清水きよみずの、音羽おとわの滝に願かけて、失せたる思い出のなきにもあらず」


 玲瓏たる声に、乃々葉も一瞬聞きほれる。


 次の瞬間――


「え……?」


 サイフォンから立ち昇る蒸気がぐるぐると渦巻き、店内に充満する。

 渦は由紀子を中心に勢いを増し、乃々葉は必死にテーブルにしがみついた。


 そして。


 遠くでカーペンターズの曲が聞こえている。ゆっくりとしたトーンに少しハスキーなカレンの歌声が、どこか郷愁を呼び覚ますかのようだ。


 ふと気がつくと、隣に膝上丈のタータンチェックのワンピースを着た女性が立っていた。年の頃は三十に届くか届かないかというところであろう。ゆるくカールした黒髪は品よくまとめられ、清楚な美しさを感じさせる。


「まあ、懐かしい。カーペンターズね」


 聞き覚えのある声に、びっくりした乃々葉は女性の横顔をじっと見つめる。


「……伯母さん?」


 さっきまで見ていた姿よりも大分若くなっているが、その顔には確かに由紀子の面影がある。


「なあに、乃々ちゃん」


 顔を向けて微笑むのは確かに田村由紀子だ。


 若返ってる。どうして?


 乃々葉は驚きに目を見開く。


 それにさっきまで『神楽狐堂』というアンティークカフェにいたはずなのに、ここはどこだろう。


 目の前には小さな吊り橋がかかっている。岸壁を結ぶ橋はゆらゆらと揺れ、その下には青い海が広がっている。


「城ヶ崎ね、懐かしいわ。ここで文弘さんにプロポーズをされたのよ」

「由紀子さん」


 ちょうどそこへ声がかかる。由紀子と乃々葉が振り返ると、そこには背の高い整った顔立ちの青年がいた。


「……文弘さん……」

「僕にとっての幸せとは、君とずっと一緒にいることです。由紀子さん、僕と結婚してください」


 文弘に手を取られた由紀子は、文弘からの二度目のプロポーズに思わず涙をこぼした。


 かつてこの同じ場所で同じ言葉を贈られた時、由紀子は喜びの涙を流した。

 そして今、もう二度と聞く事はできないと思っていた夫の声にもまた、あの時と同じ喜びを覚える。


「私も文弘さんをお慕いしております」


 喜びに目を輝かせる文弘を、由紀子は眩し気に見つめる。


 結婚してから、楽しいことばかりだった。


 履物屋の常連として通って来ていた芸妓が文弘に横恋慕して、子供のできない由紀子は妻として失格だと言われたこともあったけれど、文弘の気持ちは揺るがず、二人でいればどんな事でも乗り越えられた。


 ずっと寄り添って生きてきた。


「文弘さん、あなたは幸せでしたか……?」


 文弘の最期の時に、聞きたくて聞けなかった言葉を口に乗せる。

 文弘が微笑みながら口を開いた。


 だがその姿が幻のように霧散する。


「文弘さん!」


 必死に伸ばす由紀子の手を取るのは、もう少し年を取った文弘だ。

 由紀子も同じくらい年を重ねている。


「な……、何がどうなってるの……」


 死んだはずの文弘が現れただけでも驚愕なのに、若い姿で現れて、しかも由紀子も若返っていて。と、思う間もなく、今度は一瞬で二人とも年を取った。


 一体何がどうなっているのか、横で見ている乃々葉の理解の範疇を、とっくに越えている。

 抱き合う二人の間に、一人の少女が現れる。


「ひよちゃん?」


 今度は日和まで出てきて、乃々葉は混乱する。

 だがよく見ると、とてもよく似ているけれど日和ではない。


「裕ちゃん良くきたね。こっちへおいで」


 文弘がコートを広げて、その中に少女を囲い込む。

 手触りの良い生地に包まれて、少女が屈託なく笑う。


「伯父ちゃま、大好き」

「ははは。じゃあ裕ちゃんはうちの子になるかい?」

「ならなーい! だって私は伯父ちゃまのお嫁さんになるんだもん」


 裕ちゃんって……もしかして、お母さん?


 乃々葉の母の名前は裕子だ。あれほど日和にそっくりで文弘を伯父と呼んでいるのだから、文弘にべったりくっついて頬をふくらませているのは、幼い頃の母に間違いない。


「それは光栄だけど、でも裕ちゃんにはもっと素敵な王子様が現れるよ」

「えぇ~。伯父ちゃまは私の王子様じゃないの?」


「うん。伯父さんにはもうお姫様がいるんだよ」

「伯母ちゃまがお姫様?」


「そうだね。裕ちゃんには裕ちゃんだけの王子様がいるんだよ。だから――」

「だから、素敵な王子様と出会うために素敵なレディにならなくちゃダメ、でしょう?」


「よくできました」


 裕子の頭を撫でながら、文弘と由紀子が微笑み合う。それはまるで本当の親子のような姿だった。


 そして三人の姿が再び霧に包まれる。


 次に現れたのは、乃々葉の記憶にある文弘だ。若い頃よりも風格を増し、魅力的になっている。


「神楽坂の伯父ちゃま。乃々葉、お祭りに行きたい。伯父ちゃまの作ってくれた下駄を履くの」

「あの下駄を気にいってくれたのかい? 嬉しいなぁ。でも今年のお祭りはもう終わってしまったんだよ」


「えー。そしたらまた来年?」

「お祭りの時だけじゃなくて、いつ遊びにきてもいいんだぞ?」


「ほんと? じゃあねぇ、乃々葉、神楽坂の伯父ちゃまのとこに住もうかな~」

「だったら、いつ来てもいいように、乃々ちゃんの部屋を用意しておかなくちゃいけないなぁ」


「やったー! 乃々葉のお部屋だ~」


 乃々葉が呆然と見守る中、文弘と小さな乃々葉の姿が霧に包まれる。


 その霧が晴れてうっすらと人影が見え始めるのを注視していると、不意に耳元で声がした。


「やっぱり君にはけんの力があるんだね」


 ぎょっとして飛び跳ねると、そこにはカフェの店主である玲がいた。相変わらず頭には動物の耳がついている。


「あっ。怪しい店主! どうしてここに」


 突然現れた玲に、乃々葉は確信する。

 やはりあのコーヒーは、何かがおかしい。


「本当なら強い願いを持つ者にだけ効くはずなんだけど、どうやら君の力が作用して由紀子さんの隠された願いが顕れたんだね」


「あなたのせいで、こんなおかしなものを見てるって事? ……伯母さん、大丈夫かな」


 たまにしか訪れていない乃々葉ですら、生きている伯父の姿には驚いているのだ。伯母ならば、もっと心を揺さぶられていることだろう。


 垣間見た伯父と伯母の姿に、乃々葉は胸を締め付けられていた。


 仲の良い夫婦だと思っていたが、あんな風にお互いを想い合う姿をこうして見せられると、二人の絆の強さに感動を覚える。


 でも、もう伯父は亡くなっているのだ。

 であるならば、こうして幸福だった頃の幻を見せるのは、むしろ残酷なのではないだろうか……?


「見ていてごらん」


 玲が指さす先に、文弘と由紀子の姿がある。

 二人は日当たりの良いリビングで、仲良く並んでソファに座っていた。


 ローテーブルの上には、湯気を立てるお揃いのコーヒーカップが並んでいる。


「そういえば乃々ちゃんはもう高校生だね」


 文弘が目を落としていた新聞から顔を上げると、縫い物をしていた由紀子は手を止めて微笑む。


「早いものですねぇ。ついこの間まであんなに小さかったのに」

「日和ちゃんはまだ小学生か」


「だいぶ背が高くなったらしくて、乃々ちゃんがもうこれ以上成長しないで、なんて言っているみたいですよ」

「ははは。相変わらず仲良しだなぁ」


「乃々ちゃんの高校受験も終わったから、今年の夏には遊びにきてくれるんですって。楽しみだわ」

「そうだな」


 穏やかに、ゆっくりと時が流れる。


 だが立ち上がろうとした文弘は、急に膝を崩す。


「あなた、どうなさったの。あなた!」


 由紀子は、針を放り出して倒れ込む文弘を支える。だが支え切れるはずもなく、そのまま一緒に倒れてしまう。


 倒れた拍子にテーブルの上のコーヒーがこぼれたのか、芳醇なコーヒーの香りが充満する。


「あなた、しっかりして!」


 苦しそうに目を閉じている文弘が、ゆっくりとその目を開いた。


「あなた……」


 安堵する由紀子の頬を、文弘の大きな手が包む。


「由紀子……」


 玲と乃々葉が見守る中、一瞬だけ霧が立ち込め、彼らの姿を隠す。

 そして霧が晴れると、二人は若い頃の姿に戻っていた。


「君と結婚できて、僕はとても幸せだった。でも、僕は生来、どうも照れ屋でね。……直接言葉にできなかったから、実は銀婚式の時、君にラブレターを送ろうと思っていたんだ。渡しそびれてしまったけどね」

「文弘さん……」


「突然倒れてしまって、僕は君にお別れの言葉も言えなかった。それがずっと気がかりで……」

「文弘さん……。文弘さん?」


 段々と文弘の姿が薄れていく。ゆっくりと、空気に滲むように、じわじわと。

 由紀子は必死にその体を留めようとするが、伸ばした指先が掴むものはない。


「文弘さん!」

「……ああ、コーヒーができたよ。時間だね」


 玲の声を合図にして、乃々葉はハッと我に返る。


「夢……?」


 一体今の光景は何だったのだろうか。夢にしてはリアルすぎる。

 そう思いながら乃々葉が由紀子を見ると、ほろほろと大粒の涙をこぼしているところだった。


「伯母さん、大丈夫?」

「乃々ちゃんも見たの……?」

「あ……」


 なんと答えていいか分からず、乃々葉は口ごもる。


 おそらく乃々葉は伯母と同じ物を見ている。


 だがそれを肯定してしまうには、二人だけの親密なやり取りを、思いも寄らずのぞき見をしてしまったようで、後ろめたい。


「……探さなくちゃ」

「え?」

「玲くん、これお代ね。乃々ちゃん、私先に帰っているわ」


 涙も拭かずに席を立つ由紀子に、乃々葉は狐につままれたような顔になる。


「何がどうなってるの……?」


 理解が追いつかない乃々葉の目の前に、コトンとコーヒーカップが置かれる。勢いよく顔を上げると、そこには人好きのするような笑顔を浮かべる玲がいた。


 その頭の上には、やっぱり動物の耳がある。


「やっぱり君には見えてるんだね。だからうせもの探しもこんな風になったのかな」

「……うせもの探しなんて、できてないじゃないの」


 確かに不思議な事は起こった。

 だが伯父の言っていたラブレターがどこにあるのかなんて、ちっとも分からなかったではないか。


 結局伯母が探すのであれば、うせもの探しは失敗したんじゃないかと乃々葉は思う。


「そうかな? あのメニューが見えたのは、由紀子さんだけではないと思うけど」

「どういう事……?」


 顔をしかめる乃々葉の脳裏に、すっかり忘れ去っていた記憶がよみがえる。


 あれはまだ乃々葉が小さかった時、神楽坂の家に遊びに来て日和と遊んでいて文弘の部屋に隠れた事がある。


 その時、何気なく手に取った本棚の本に白い封筒が挟まれていた。

 伯父か伯母への手紙だろうと思ってそのまま戻したが、もしかしてあれがラブレターではないだろうか。


「確か鳥の図鑑だったような……」


 そうだ、思い出した。羽の色が綺麗だから見てみようと思って手に取ったのだ。

 ガタンと音を立てて立ち上がる乃々葉に、玲は優雅にお辞儀をする。


「お客様。またのお越しをお待ちしております」


 何も言わずに店を後にした乃々葉は、急いで伯母の家に戻っり、鍵もかかっていない玄関を抜けて、伯父の部屋へと急ぐ。


 するとそこには伯父の使っていた机の引き出しを開けて手紙を探している由紀子がいた。

 乃々葉はすぐに本棚へ向かうと、鳥の図鑑を探し出す。


「あった!」


 目当ての本はすぐに見つかった。

 それを手に取った乃々葉は、パラパラとページをめくる。そしてフラミンゴが首を絡めてハート型を作っているページに、白い封筒がはさまっているのを見つけた。


「伯母さん、これ……」


 乃々葉は由紀子のかすかに震える手に封筒を渡した。

 文弘の机の引き出しからパーパーナイフを取り出した由紀子は、ゆっくりとその封を切る。


 そして、カサリと音を立てて開いた白い紙には、初めてで、そして最後の、文弘からのラブレターが入っていた。


「……!」


 声もなくその手紙を抱きしめる由紀子を見て、乃々葉はそっと部屋を出る。


 きっと今は一人になりたいだろうと思うから。






 うせもの探し、かぁ……。

 本当だったのか、狐に化かされたのか。でも、今はどちらでも構わない。


 だって、伯母があんなに喜んでいるのだから。


「今度はちゃんとしたコーヒーを出してもらおうかな」


 そう言って、乃々葉は小さく笑った。

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神楽狐堂のうせもの探し 彩戸ゆめ @ayayume

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