大罪、及び仲間の救済。
ルクスリア
仄暗い、井戸の底のような空間で。
耳に響いていたのは、黒板を鋭い爪でひっかくような音。
腕を何かにつかまれる。太くて大きい手。
落下している体が一瞬、引っ掛かったように停止する。
しかしまたすぐにずるずると落ちていく。
今度は速度が遅い。やはり何かに引っ掛かっているのだ。
と、突如体が何かに包まれた。
視界が急に明るくなる。と、言っても、蝋燭一本くらいの明るさだが。
鈍い音を立てて地面にぶつかる。落下。しかし僕は、柔らかい感触に包まれていた。
ふと、顔を上げる。
目に飛び込んできたのは、真っ黒な髪。鋭く尖った耳。厚い胸板。そして僕の頭の上に置かれた大きな手。角ばっているが、しかし整った顔立ち。
見覚えの全くない男性が僕の下敷きになっていた。慌てて立ち上がる。
「え? え? あの……」
何と言っていいか分からない。しかし、倒れている男性は笑う。
「私は頑丈だから大丈夫」
よいしょ、と男性は起き上がる。
「はぁ、さっきは怖かったね」
……いや、あんたの方が怖いんですが。
「すずめさんに、『何かあったら守ってやって』って言われてたから」
低い声。しかしどこか聞き覚えがあるような?
そしてすずめさんの知り合い……?
「あの、どなたで……」と、言いかけた時だった。
突然顔面をぶん殴られた。しかし目の前の男性に、ではない。
どこかから硬い何かが飛んできたのだ。
顔に当たったその感触から、おそらく拳であろうことは推定できた。
一瞬意識が飛びかける。
周囲が薄暗くて誰に何をされたのか分からない。手の甲に生温かい感触。鼻血か?
「大丈夫?」黒髪の男性。素早い動きで倒れ込んだ僕をかばう。
「ごめん。落ちたばっかりだから気づかなかった」
いるね。正面に。そう、男性がつぶやく。
何が? っていうかあんた誰?
大混乱している僕の耳に、甲高い声が聞こえた。
「あんた、アタシが見えるってわけ?」
女性にしては、低い。
でも男性にしては、高い。
そんな声だ。けれど声の主がどこにいるか分からない。
「臭い」
短く吐き捨てるように、男性。しかしその男性の髪の色が、一瞬で変わった。
美しい白。いや、銀か? 蝋燭の明かりを受けて美しく輝いている。
次に僕の目に映ったのは。
獣耳。小柄。しかし僕の体をかばうように手を伸ばしている、女の子。
見覚えがある。彼女は……。
基地で僕の目線に対して恥ずかしそうな顔を浮かべていた、女の子。
アカウント名、結月花さんだった。
「へえ、あんたも」
おかしそうに、誰かの声。
「変身タイプね?」
「十二時三分」
唐突に告げられた時刻に僕は混乱する。しかし、結月さんは続ける。
「……その方角にいる。僅かに斜め前」
どうやら索敵しているらしい。でも分単位で方角を言われたのなんて初めてで……何とか言われた方向を僕は見る。
何もない。目を凝らす。やはり何もない。
しかし。
「避けて!」
結月さんの声で咄嗟に僕は転がる。どっちに転がるべきかは分からなかったが、とりあえず転がらなければならないことだけは本能的に分かった。
粉砕音。床の破片と思しきものが僕の肩に当たる。
拳か? と思ったが。
僕の僅か右にあったのは、もっと細く鋭いものがぶつかったような跡だった。
「……サソリ」結月さんがつぶやく。「相手は、サソリ」
「やっぱあんたアタシが見えてるの?」
声だけ。しかし声色から察するに、少し驚いているようだ。
「アジトキシン、カリブドトキシン、スキラトキシン……」
まるで呪文の詠唱のように結月さんは続ける。
「……神経毒」
「動けなくなった相手をかわいがるのが好きなのよ」
やはり声だけだ。しかしようやく分かった。口調、声。いわゆる、オカマ……?
「たくましーい男性や、かわいらしーい女性が口から涎を垂らしながらピクピクしてるのなんてもーう最高ぉ」
「姿を消して、近づいて、毒で相手の動きを止める」
結月さんの声。落ち着いている。
「その後どうするの? 犯すの?」
「あら、物分かりがいい」声だけ。「あんたも坊やも体中の穴という穴をかわいがってあげるわ」
「あなたなら『穴』も増やせそうだしね」
結月さんの声が低くなった。そう気づいた瞬間。
僕の目の前にいたのは、真っ白な尾をこちらに反らせた、狼だった。そいつがつぶやく。
「『白銀の狼』……」
それが自分のことではなく作品名だと気づいたのは少し遅れてからだった。
低い唸り声がしていた。獣の。
「やっぱ変身系ね」口調は女の、声だけ男性。「じゃあ、アタシも……」
しかし、声が言い終わらない内に。
醜い悲鳴が上がった。男性の声だ。
気づけば僕の前にいた狼がいない。
慌てて前方を見ると、さっきまで僕の前で身構えていた狼が何かに飛び掛かって、組み伏せていた。
しかしすぐさまその何かから飛び退き、体勢を立て直す。白い狼が唸る。
「物書きくんは隠れてて……」
結月さんの声。やっぱりこの狼、結月さんだ。驚く僕を尻目に彼女は冷静な調子で続ける。
「先手はとった……! ゲームは、先手を打った方が勝つ……!」
「よくも……よくもあんた……アタシの磨き上げられた体に……」
荒い息。そしてようやく、見えた。
薄明りの中。黒光りする筋肉質な体。
スキンヘッド。肩から腕にかけて筋骨隆々。腹筋も……暗くてよくは見えないが……見える。たくましい。だが足の先がおかしい。虫みたいに細い。あれであの体を支えられるのか? 左肩を押さえている。黒い液体が見える。血か? そしておかしいことがもう一点。
あいつ、服着てなくないか?
「だいたい、スペルビアとインウィディアがもっとうまくやればよかったのよ……」
「それは上にいた奴らの名前?」狼の姿をした結月さんが訊ねる。
「同じ臭い。でもあんたの方が……粘着質な臭い」
「上にいた奴ら……?」
ようやく、僕は口を利く。
「二人」結月さんが僕の質問に答える。「城に入ってすぐは分からなかった。蝋燭の焦げた臭いで。でも、少ししたら気づいた。シャンデリアの上に一人。壺の傍に一人」
「壺の傍って女の子……?」
しかし結月さんは否定する。
「違う。あの子の傍に一人。おそらく男性型の何か」
「ははあ、分かった」
スキンヘッドが肩を押さえて立ち上がる。
「あんた、鼻が利くのね?」
「こんな見た目してて利かなかったらおかしいでしょ」
冷笑する結月さん。
直後にまた、粉砕音。
ふわり、しなやかに、僕の傍に着地する白い狼。
さっきまで彼女がいた場所が、粉々に砕けて、代わりに地面に拳を突き立てるスキンヘッドがそこにいた。
「……馬鹿にすんじゃないわよ」
「馬も鹿も美味しいよ」頓珍漢だが、どこか笑える。
実際僕は、少しだが笑っていた。
しかしそれは、スキンヘッドも同じようだった。
うふふふ、と不敵な笑い声を上げている。
「さぁて。そろそろお馬鹿なあんたに教えてあげようかしら」
すっくと立ちあがるスキンヘッド。やはり……全裸。
しかしそんな裸の男の手には、薄い何かが、二つ。
よく見ると、それはカードだった。
「これなぁーんだ?」
ピクリと、結月さんが反応する。
「まさか……」彼女は姿勢を低くした。「栗栖さんと……赤坂さん……」
「さぁ? 名前は知らないけど?」
あんたたちと一緒に落ちてきたのよ? スキンヘッドはひらひらと、そのカードをかざす。
そこにあったのは、まるでトランプの絵柄のようなもの。
でも僕にはそれが何か、暗すぎて分からなかった。
気配で察したのか、結月さんが知らせてくる。
「栗栖さんと、赤坂さん……二人の、匂いがする」
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