5.倶利伽羅紋々
瞳は声をかけるが、男性はなおも逃げようとしている。
「危害を加えに来たんじゃない。話を聞かせて」
瞳がそう言っている間にも、他のホームレスたちは逃げていってしまった。よく見ると、男性は瞳に怯えているのではなく、瞳の腕にあるタトゥーに怯えていた。瞳が男性と視線を合わせるように屈むと、男性はようやく瞳の言葉に反応した。
「ほ、本当か?」
「大丈夫。本当だから」
俺も瞳のところに行こうとしたが、サブロウと義水に止められた。ただでさえ怯えている男性を、これ以上怖がらせないためだ。だから俺たちは離れた場所で、会話を盗み聞きしていた。
「最近、この辺りは物騒になった。それも、タトゥーをした若者のせいで。違うかしら?」
「何なんだ、お前?」
「そのタトゥーの彫師を探しているの」
「お前だって、タトゥーしてるじゃないか」
「だから、タトゥーを消そうと頑張っているところ」
瞳は肩をすくめて、笑って見せた。この笑顔で男性は安心したのか、ぽつり、ぽつりと、最近あった事件のことを話し始めた。
「大学生か、高校生くらいだと思うんだ。とにかく、タトゥーをした若い男が俺たちや子供、年寄り、妊婦なんかを襲撃しているんだ」
その若い男のターゲットの選び方に、瞳は怒りを感じたが、表には出さなかった。
「警察には?」
「俺たち何かには、冷たいもんさ。最初に狙われたのは俺たちだったのに、何もしてくれなかった。最近動くようになったのは、地下の自転車置き場で女子高生がけがをしたからだ」
男性は時々どもりながら答えたが、その応対には誠実さがにじんでいた。
「あなたは、実際に犯人や犯行を見たわけではない?」
男性は首を縦に振った。
「でも、ここらでは有名な話さ。あんたこそ、どうして入墨なんか彫った?」
「ああ。これ? 両親の形見なの」
「形見を、消すために探しているのか?」
「まあね。それで、地下駐輪場はどこ?」
「バスプール沿いに行けば分かるよ」
男性は自分の背後を指さした。ガラス越しにバスプールが見えるので、瞳はうなずいた。
「この辺りは大学が近いの?」
「ああ。どこもバスで通えるようになっている。短大や専門学校もあるな」
「男の特徴は?」
「どこにでもいる好青年に見えたらしい」
「その男のタトゥーは、どういうものかしら?」
「確か、腕に青黒い龍の入墨だったはずだ」
古典的な和彫りの柄だ。倶利伽羅紋々と言ったか。
「ありがとう。とても有意義な情報だったわ」
「あんたらが、そいつを捕まえてくれるのを祈るよ」
「出来たら、そうするわ。本当にありがとう」
瞳は腰を折って、男性に一礼して俺たちに視線を送る。俺たちが向かったのは、地下の駐輪場だ。それにしても、こんなに寒いところで帰るべき家がないというのは、辛いだろうと思う。雪が降らないところならまだしも、こんなところで路上生活を送る自信は、俺にはない。公共の温かい場所を求めれば、自然に駅に集まらざるを得ない。そんな人たちを狙うとは、その男は卑怯だとしか言いようがない。
エスカレーターではなく、階段を下りてバスプールに出る。それを辿っていくと、駐輪場の看板があった。長くて暗いスロープが、地下へと繋がっている。入口と出口が青色の文字で分けられ、中央には線が引かれていた。
「ここか?」
「ええ。おそらく駅からバスで大学に通っている男子学生ね」
「え? だって、高校生かもしれないんだろ?」
「高校生が、いくら女子とはいえ、同じ高校生を狙うとは考えにくいわよ。それに制
服なり体操着なり、鞄なり、高校名が入ってる。個人や学校を特定されるリスクを考えれば、私服に着替えて荷物を預ける必要がある。そんな手間はとらないはずよ」
「なるほど。そして、ここで待ち伏せか?」
「それしかないわ」
「紋々」
義水がつぶやく。
「ああ。関西ではそう呼ぶのよね。そう。タトゥーは昔ながらで一般的な図柄の龍。青黒い色使いらしいわ」
「他のタトゥーと見分けがつくかな? って言うか、やっぱり水牙と義水たちの本拠地って、関西だったんだ」
さらに言えば、二人の名前もやはり偽名だった。水牙と義水の所属するグループでは、代々、「水」にまつわる偽名を使うのだ。それは「過去を水に流す」という意味からだという。不良グループと言えば聞こえが悪いが、酷烈な環境の子供たちの憩いの場だったり、少年少女の助け合いの場だったりするのだという。もしかしたら、二人が所有する水墨画のタトゥーをグループの創設者が持っていたから、偽名の制度が出来たのかもしれない。そんな風に、瞳がさらりと説明する。
「まあいいわ。私が囮になるしかなさそうね」
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