10.狼

「確かに、面倒ではある」

「でしょ、でしょ? だから僕、上の人に管理だけ頼んだんですよ。そしたら病院棟から一人、経験のある看護婦さんを優遇してくれるって約束してくれたんです」


今、百田は上に頼んだと言った。研究一本で来た人間は、非常識な奴もいたことはいた。しかし、ここで上層部に頼みごとをして、受け入れられるのとなれば、世間の常識とは違うのだろう。ここでは、ここでしか通用しない常識がまかり通っている。もしかしたら、研究棟の主任とは名ばかりで、百田の方が俺よりも上層部に近いのかもしれない。


「あー、何か臭います。先輩、おならしました?」

「ガキの汚物だろうが」


オムツが濡れると赤ん坊は泣くと聞いたことがある。おそらく、腹も減っているだろうし、機嫌も良くはないだろう。


「百田、お前が何とかしろ。採取した血液は俺がやる」

「あ、先輩。ずるい!」


俺が踵を返した、その時だった。遠くでガラスが割れる音が聞こえた。百田も俺も研究室から飛び出す。研究室は密閉空間だ。壁も厚く、意外に近いところでガラスが割れたのかもしれない。俺の脳裏に何故かあの若者の姿が思い出された。暗い廊下に、浮かび上がったのは、割れたガラス窓だった。その光を背負って、あの若者が立っていた。やはり奇妙な格好をしている。しかし今はそれどころではない。ここは研究棟の三階だ。一体どうやってセキュリティをかいくぐり、三階の窓から入ってきたのだ。


「約束を守るために来た。巫女を渡してもらおう」


若者はそう言って、ふわりと浮き上がった。そう思ったのは一瞬で、若者がカラスに変じたのだった。


「動物画のタトゥーか!」


カラスは俺と桃田の頭上を飛んで、開けっ放しにされていた研究室に入った。そして、瞳の前で人間に戻った若者は、瞳をバスケットごと胸に抱いて連れ去ろうとしていた。俺は咄嗟に、白衣の下に隠し持っていた銃を若者に向けた。しかし俺が何か言おうとした瞬間に、拳銃ごと腕を弾かれた。拳銃が宙を舞い、床を滑る。その隙に、バスケットをくわえた狼が、研究室から走り去る。そしてそのまま三階の窓へ跳躍し、狼は大きな猛禽類となって空を飛び去った。百田は呆然とそれを眺めていたが、興奮した様子で俺に駆け寄ってきた。


「すごい。凄いです! 先輩、今の見ました? まるでフィクションです!」

「あの若者か。やられたな」


俺は床に座り込んで髪の毛を掻きむしった。百田はまだ興奮冷めやらぬ様子で、俺の周りをぐるぐると回っている。


「ねえ、先輩、聞いてます? 凄いですよ! あれが動物画のタトゥーなんですね」

「ああ。そうだよ」


俺が投げやりに言うと、百田はとぼけた顔をしながら首を傾げた。


「でも、人間から動物になるって、痛いと思いません?」


百田のこの問いに、俺ははっとした。人間と動物では骨格が違う。そうなれば骨と連結する筋肉や神経も違ってくる。しかも、鳥類と哺乳類ならさらに骨格に差異が出る。動物のタトゥーを使いこなすまでは、訓練が必要だ。しかしあの若者は、滑らかに変身していた。あり得ないことだが、本当にあの青年は、人間ではないのかもしれない。ではあの若者が人間ではないと仮定して、何が考えられるのだろう。木に託されたタトゥー。そのタトゥーを持っている青年は、修験者のような格好をしていた。まさか、この辺りに点在する天狗伝説に関わっているとでもいうのか。俺は首を振った。しかし、タトゥーの呪いも能力も実在していることから、天狗が実在しても何ら問題もない気もする。天狗ならば元々が異形。鳥類への変身は、元々若者が持っていたスキルだ。その他の動物への変身は、タトゥーの能力だ。そして、司は密かに天狗と通じていた。どうやって天狗に出会ったかは分からないし、分かったところで意味がない。とにかく司は、天狗にタトゥーを譲渡し、天狗もそれを了承した。あの木には天狗が隠れていた。そして天狗は義理堅い生き物なのかもしれない。司との約束を守るために、瞳を連れ去ったのだ。


「先輩、採血一回分しか採れなかったんですけど、どうします?」

「分析して培養だろう」


俺の不機嫌さをよそに、百田は気の抜けた返事をして研究に戻った。

 

 俺はこれでもう、人生が終わったと思った。しかし上層部からは、瞳奪還の命令が新たに下されることになった。

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