9.採血

「拝受する」


男は重々しくそう言った。そう言った男の両腕には、動物画のタトゥーがあった。それは間違いなく、オリジナルのタトゥーだった。一体この男は何者だろう。いつの間にここに来たのだ。そもそも、何故この男が司のタトゥーを持っているのだ。確かつむじ風が起こる直前、司は木に対して自分のタトゥーを譲渡しようとしていた。それは奇妙な光景だった。オリジナルのタトゥーは、譲渡する側がその意思を相手に伝え、受け取る側がそれを許諾することで初めて授受が完了する。木に許諾の意思があったとでも言うのだろうか。植物は動物同様に、相手を識別し、感情を持つという実験結果がある。だが、樹木にタトゥーを譲渡出来たとして、一体なんになる。俺は明らかに狼狽していた。まさか、この若者があの大木だったとでも言うのか。俺は若者に銃口を向けながら、瞳に近づいた。瞳は司の腕の中で泣いていた。若者がこちらを振り返る。


「動くな」


俺の言葉に、若者はピタリと動きを止めた。


「その子をどうする?」

「育てる」


育てて、血液を採取され続ける。研究材料として、一生を終える。それが瞳に待っている日常と運命だ。かわいそうだとは思わない。司や焔だって、瞳の血液にタトゥーの無力化や、無毒化を期待していた。それと何も変わらないのだから。


「俺はその子を託されている」


若者は無表情に言った。俺は気にせず瞳を抱き上げる。赤ん坊は首がすわるまでが大変だと聞いたことがある。慎重にならなければいけない。ここで瞳を死なせてしまっては、俺の命に関わる。こんな男にかまっている暇はない。俺は瞳を抱いて、病院棟に戻った。上層部の息のかかかったと思われる医師に瞳を預け、再びあの若者のもとへ戻ると、そこには誰もいなかった。ただ、一組の男女の死体があるだけだ。動物画のタトゥーを持ち逃げされてしまった。俺は寮に戻り、沙汰を待つことにした。

 

 またあの生気のない男が現れたのは、ちょうど一週間後だった。男は俺にA4判の茶封筒を押し付けて、去って行った。相変わらず、気味の悪い男だった。そしてもしかしたら、感情や生気を奪われて、伝令役になった人間の末路かもしれないとも思った。封筒の中には研究所の社員証が入っていた。同封されていた書面には、俺を研究棟の所長に任命するという旨が記されていた。俺の研究目的は、タトゥーの無毒悪化から、瞳の調査と採血に変わっていた。つまり俺はどうやら上層部に、働きを認められたようだった。動物画のタトゥーについては、一切触れられていなかった。その一方で、不問に処すということも書かれていなかった。折を見て、動物画のタトゥーを回収する命令が下されるのかもしれない。最後の書類は、履歴書だった。どう見ても日本人には見えない、一見優男風の写真があった。司や焔の後任ということだから、有能な人材なのだろう。最後に、新しい白衣の支給があった。俺のクローゼットには、焔の血がついた白衣がまだあった。俺はその古い白衣を捨てて、新しい白衣に袖を通した。俺はもう迷わないと決めた。焔は死んだ。司も死んだ。俺が殺した。しかしそれはもう過去の事だ。この仕事をやる以上、過去は捨ててしまうに限る。今では手に馴染んだリボルバーは、もう俺の日常に溶け込んでいる。

 

 部屋を後にした俺は、研究棟に向かった。研究室が何やら騒がしかった。赤ん坊の泣き声と、それをあやしている男の声が入り混じっている。


「うるせぇな。何やってる?」


俺が研究室に入ると、履歴書で見た男が泣きついてきた。確か、名前は百田力也ももたりきや。外見に反して日本的な名前だった。


「ああ、先輩。助けて下さいよ~。お姫様が全く泣き止まないんです!」

「まずは採血だ。泣いていようが何しようが、毎日血は採って研究する」

「何だ。分かりました。採血、採血っと」


百田は鼻歌交じりに注射器を持ってくると、迷うことなく赤ん坊に針を刺した。俺はそれをいくらか呆然として見ていた。普通、生まれたばかりの赤ん坊に針を刺すという行為は、誰でも躊躇しそうなものだ。しかし百田は全く意に介していない。マッドサイエンティストか、それともサディストなのか。全く、上層部はどこでこんな人材を見つけてくるのかと、俺は呆れてしまった。そして、この百田が俺のタトゥーの共有者だと書いてあったのを思い出し、頭が痛くなった。


「殺すなよ。生血じゃないと効果がない」

「はぁい。分かってます」


どこまでも軽いノリで、百田は返す。それが鼻につくが、採血の様子を見ると手馴れていることが分かった。


「でも先輩、どうして生血じゃないとダメなんですか?」


俺は痛いところを突かれて、冷や汗をかいた。表情に出さずに鼻で笑う。


「研究成果を盗み見ることぐらい、やってて当たり前だろう」

「じゃあ、先輩が二重スパイやってたって本当なんですか? カッコいい!」


百田はヒューと音を鳴らして息を吐いた。


「あ、言うの忘れてた。先輩、赤ん坊の世話とかできます?」

「実験動物の管理は研究の一環だろうが」

「でも、人間の赤ちゃんですよ?」

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