8.裏切り
ベッドの上の焔は、司と目を合わせて首を振った。司は瞳と名付けられた赤ん坊を抱きあげようとした。俺はそれを制する。
「生まれたばかりの赤ん坊と一緒じゃ、無理だ。焔とこの子は俺が何とかするから、司だけでも先に逃げてくれ!」
瞳と司の間に立った俺を、今まで人に見せたことのない形相で司はにらみつけた。
「どけ!」
そう怒鳴りつけた司は俺を思い切り殴り飛ばした。あまりの勢いに、俺は壁に衝突する。その隙に司は、瞳を抱き上げた。
「一、 お前には失望したよ。信じていたのに」
俺はその司の言葉に、二人を交互に見た。
「知っていたのか?」
「信じたかったのに、結局これか」
俺は衝撃と共に、理不尽な怒りを覚えた。
「最初に裏切ったのは、お前たちの方だ!」
俺は隠し持っていた拳銃の銃口を、司に向けた。その瞬間、焔が布団を俺に投げつけた。俺の視界はあっという間に遮られ、その間に司は瞳もとろも消えていた。ドアの前には焔が立っていた。出産した直後でままならない体で、必死に我が子を守る盾になろうとしていた。これが母親というものなのかと、わずかに心打たれた。俺は迷いを断ち切り、冷徹さを自分の中に喚起した。俺は間違ったことをしていない。間違っているのは、裏切った司と焔の方だ。だから、俺がやっていること、やろうとしていることは正しい。
「どけ、焔!」
今度は銃口を焔に向けていた。肩で息をしている焔の顔には、汗で髪の毛が張り付いていた。そしてそのいつも笑っていた目で、俺をにらんでいる。
「通りたければ、私を殺しなさい」
銃を握る手に力がこもるが、震えていた。足を狙っていたが、焔の細い足に命中させられる気がしなかった。両手で拳銃を包むようにして持ち、狙いを定める。そして俺は、越えてはいけない一線を越えた。乾いた破裂音が響き渡った。その瞬間、俺の腕は衝撃で痺れ、血しぶきが視界に入った。俺の白衣にも赤々と血痕が付いた。俺が打ち抜いたのは、焔の太ももだった。崩れ落ちる焔の体の向こう側に、ドアノブが見えた。俺はそのドアノブを開けて、すぐに司を追おうとした。しかし、足に焔がしがみついて、離そうとしない。拳銃で撃たれた太ももの痛みは相当強いはずだ。血も、かなり床に広がっている。それなのに執念ともいえる焔の姿に、恐怖を感じた。焔は呻き声をあげながら、俺の足を力いっぱい引っ張る。
「このっ!」
俺は焔の体を蹴りつけて何とか自由になると、廊下を走り出していた。
「逃げて!」
焔はその言葉を俺の背中に投げつけた。それが俺が聞いた彼女の最後の言葉となった。
司は生まれたばかりの赤ん坊と一緒だ。それほど遠くへは行っていないはずだ。俺は外に出て、司の痕跡を探った。時は残暑厳しい秋だった。紅葉した木々が落ち葉を散らしていた。そのおかげで足跡を見つけるのは、熟練のハンターでなければ不可能かと思われた。だが、風が俺に味方をした。赤ん坊の泣き声が、風に乗って聞こえてきたのだ。司はきっと風上にいる。俺はその泣き声を辿り、山に分け入った。遠くから聞こえるかすかな泣き声は、自分の足音にかき消される。止まっては耳を澄ませるということを繰り返し、施設の外に出た。
そしてついに、俺は司に辿り着いた。司は赤ん坊を抱いたまま、足場の悪い斜面を登ろうとしていた。司は俺に気付いたようだが、足を止めなかった。瞳をかばうようにしながら、歩を進めている。俺は銃口を司の背中に向けて、引き金を引いた。二度目の乾いた破裂音だった。耳が痛い。腕が痺れる。これで、最後だと思った。しかし俺が放った弾が貫いたのは、司でも瞳でもなく、焔だった。
「焔!」
いつの間にこんなところまで来ていたのか。いや、こんな足でここまでどうやって辿り着いたのか。焔は俺に笑って見せた。勝ち誇ったように、俺を見て唇の端を引き上げて、地面に伏して死んでいた。その死に顔は、敗者のものではなく、勝者のものでもなく、母親として子供を守ったという自信に満ちていた。
「焔!」
近付いてきた司に、俺は再び引き金を引いた。三度目の破裂音で、司はやはり瞳をかばうように、地面に伏した。俺はもう躊躇はしなかった。
「その子を渡せ」
冷徹に俺は言い放った。脅しではなく、命令だった。その瞬間、もそりと司は動いて不可解な行動をとった。一際大きな木の幹に、両手を突いたのだ。まるで、木に縋りつくように、司は言った。
「譲渡する」
司がそう言った瞬間、空気が渦巻いた。木の葉が天まで舞い上がり、つむじ風が起こる。俺は大体勢を崩されながらも、地面にしがみつくようにしてその場にどうにか留まった。しかし目を開けていることは困難だった。だから、次に恐る恐る目を開けたときに、俺は驚きのあまり声を失っていた。そこにいたのは、修験道の装束を身にまとった一人の若い男だった。
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