6.告発
司は苦虫を噛み潰したようにうなずく。おそらく、苦肉の策だったのだろう。しかし草食動物の赤ん坊が、生まれてすぐに立ち上がり、母乳を飲むように、Hitomiがこの世界で生き残るには、生まれながらにして一人で生きるすべを持たなければならない。それがタトゥーを持って生まれてくることと、特殊な血液だった。司は表ではタトゥーの無毒化の研究も進めていた。その研究成果を詰め込んだのが、このHitomiという赤ん坊なのだ。
「この子の血は、タトゥーを一定時間無効にできる。呪いもそうだが、能力までも抑制できる可能性が高い」
つまり、完全にではないにせよ、この赤ん坊の血液によってタトゥーの無毒化の成果が得られているのだ。もしもこの成果を上に知らせれば、司はタトゥー研究者として認められ、死を免れたかもしれない。それなのに、司は自ら茨の道を選ぶのだ。俺には理解できない。しかしこんな男だったから、俺ではなく焔は司を選んだのだ。
「事情は分かった。研究はいつも通り進めよう」
「一君、ありがとう」
「意外に理解のある奴だったんだな」
「何だよ、それ」
俺たち三人は、笑い合った。そしてそれぞれのディスクで、それぞれの研究に戻った。もう二度と戻れない日常が、虚構と置き換わって始ったのだ。
そして指定された研究時間が、この日も終わった。これは各自に任されているが、多くは徹夜となる。俺は生活のリズムを崩さないタイプだったので、夜の九時には研究に一区切りをつけて、寮に帰っていた。二人はまだ研究の最中だった。いつものように、俺は研究室を後にする。
「じゃ、お先」
俺がそう言うと、二人はいつも笑っていた。
「定刻通りだね。見習いたい。また明日」
「実験結果が定刻に出れば、俺たちも帰れるんだけど」
俺も笑顔で返して、二人に軽く手を振った。そして、俺は一人で暗い廊下を歩き出す。研究棟から、情報基盤棟へ向かう。ここは小さな大学のような場所だ。ひっそりとした山奥の中に、人知れず建てられた小さな大学。情報基盤棟には、タトゥーに関する情報が集まっている。自由に使えるディスクトップ型のパソコンもある。研究に必要なデータがあれば、研究棟にここからデータを持ち出すことも出来た。俺は窓のない部屋のパソコンを立ち上げた。メールを開いて、報告用に知らされたメールアドレスを打ち込む。そしてタイトルには自分の名前と重要の文字を打った。本文には今日の司と焔との会話について書き込んだ。もちろん、Hitomiについての情報だ。しかし、ここで俺は今自分が分岐点にいると思ってしまった。非情にならなければならない場面であったのに、迷いが一瞬あった。俺は裏切ろとしている。誰をだろう。同僚か。上層部か。自分自身か。それとも、社会的な倫理だろうか。俺のメールに、嘘が一つ紛れ込んだのは、この時、同僚の笑顔が頭に浮かんだからだ。
「一君。司はね、タトゥーの無毒化だけじゃなく、無力化の研究もしているの」
「私は、司の研究は正しいと思うの」
「一君は、本当にこの無毒化の研究が正しいと思っているの?」
「一君は、どうしたいの? 私たちを告発する?」
――焔。
「一が手伝ってくれるなら、頼もしいよ」
――司。
「私たちは殺される。でも、この子には強く生き抜いてほしい。だからタトゥーを転写したの。一人でも、生きられるように」
「一、 お願いがある」
「お前はタトゥーの無毒化の研究を進めてほしい。この子が、安心してタトゥーを持って生きていけるように」
「ああ。この子の名前だよ」
「譲渡したのは、赤ん坊の姿になってからだ。それに、倫理に反するがこのHitomiの血液には、加工がしてある」
「この子の血は、タトゥーを一定時間無効にできる。呪いもそうだが、能力までも抑制できる可能性が高い」
あの赤ん坊に、罪なんて。
「一君、ありがとう」
「意外に理解のある奴だったんだな」
お礼なんか言って、笑うなよ。
宛先 *****‐******.**.**
題名 遠野一 【重要】
本文 二藤部司、千里焔に重要規約違反有り。
Hitomiという検体に、オリジナルタトゥーの一定の無毒化と無能力化付与。
※ただし、Hitomiの生血でなければ、効果は得られない。
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