2.チップ
執事服姿の男は、そう言いながら手を差し出す。老人がその手に伊達眼鏡をはずして、置く。男は恭しくその眼鏡を布で包み、眼鏡ケースにしまう。
「ふむ。この服は捨ててしまおう。任せる」
「はい。承知いたしました」
「着替えは、どこだ?」
「ホテルの一室を借り受けております」
「ふむ。良かろう」
駅直結型のホテルの一室で、老人は血糊の付いたシャツを脱ぎ、男に渡す。男はどこにでもある紙袋にそのシャツを入れて、ズボンも同じようにしまう。どちらも捨ててしまうものだから、たたむことはなかった。それが済むと、男は別のバッグから紋付き袴を取り出し、ベッドの上に広げた。老人は、それを満足そうに見ると、男に向かって手をひらひらとさせた。部屋を出ていくように言っているのだと察した男は、スマホと紙袋を手にしてホテルを出た。ホテルの廊下で110をタップして、スマホから警察に連絡を入れる。
「駅の東口の駐車場に、若者と思われる死体が数体あります。ご確認ください」
それだけ言って、すぐに男はスマホを切った。普通ならば、電話記録や位置情報から、捜査の手が男に伸びてくるはずだが、そうはならないことを男は知っている。駅の東口駐車場には、数体の死体があるが、それを確認するには時間がかかるだろう。何故なら、そこら中に散乱しているのは、死体そのものではなく、人間の形をしていたであろう肉塊だからだ。駐車場に停めていた車のナンバーを控えてくるのを忘れたことに気付き、男は自分の失態にため息をついた。戻って確かめてくる必要がある。そこに、一人のホテル従業員が通りかかった。従業員は男に一礼し、通り過ぎようとしたが、男はそれを許さなかった。音もたてずに従業員を組み伏せ、壁に押し付ける。従業員は息ができず、恐怖を味わった。
「すみませんが、この紙袋の中身を見ずに、焼却処分してください」
そう言うのと同時に、従業員のポケットに五万円をねじ込む。
「チップです。お受け取り下さい」
従業員が無言のまま素早くうなずいて、押し付けられた紙袋を受け取るのを見ると、男はその場から立ち去って、血の匂いが立ち上る駐車場に戻った。血痕が付着している車のナンバーを頭の中に控え、ホテルに戻る。迷惑をかけた車の持ち主には、修理代や慰謝料を匿名で贈る決まりになっている。こうしたことだけは、男の主人である老人は、律儀である。
ホテルに戻った男は頃合いを見計らって、部屋をノックする。中からくぐもった声で、「入れ」と返事があった。老人はもう紋付き袴に着替えていた。洋服の時とは違い、貫禄がある。背も伸びて、矍鑠としている。男は一礼し、報告を始めた。
「ご要望の件、承りました」
洋服をいつものように処分したと言っているのだ。老人がうなずいたので、さらに男が続ける。今度は被害を受けた車についてだ。
「多少の凹み、傷が三件。汚れは十三件でした」
老人はうなずき、顎髭を撫でつけた。
「我ながら、少々むきになり過ぎたようじゃ。三件には三百、十三件には百ほど包んでおけ」
老人はかかっと笑い、男は深く頭を下げた。
「
「八時十二分の電車ということでしたので、何もなければ、十一時三十四分に駅に着きます。そこから歩いてこちらに着くまで十分ほどで着くかと存じます」
「何もければ?」
「最近は、県境において動物との衝突などで遅延が出る場合があるそうです」
「ほう。面白い」
「現在、遅れは出ておりません」
九重は時刻表もスマホも、さらにはメモを見ることなく現在の状況を述べた。老人は満足げにうなずいた。
「場所は?」
「このホテルの五階にある会議室を用意させて頂きました」
「時間はあるな。帰りの服を用意しておけ」
「承知いたしました」
老人もさすがに今の格好では、電車に乗るのは目を引きすぎると思っていたのだろう。ここで余計なことを言わないのが、老人から九重の気に入られているところだった。老人の好みや色、ブランド、それに合わせたバッグなどは、もう既に九重の頭に刻み込まれている。九重は老人に見込まれて、老人直属の執事になってから、万事がこの様子だった。無駄口は一切叩かず、忠実に仕事をこなし、必要なことはすべて頭の中にある。記録は足跡と同じだ。他人に詮索される危険がある。痛くもない腹を探られるのは、気持ちがいいものではない。しかし老人の足跡を追って、仕返ししようと考える輩がいないわけでもない。九重はその点にも心を配り、必要なら先回りして、どんな仕事もこなす。老人にとって、九重ほど信頼がある執事はいなかった。
「腹が減ったな。ここの名物がいいのぅ」
「でしたら、趣向を変えて、駅弁などいかがでしょうか?」
いつもは高級な和食料亭を指名する老人に、九重はわざと外したものを進言した。老人の好みや今日の気分から、最適な物を選び出す。
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