五章 協定と過去

1.命

 電車内に、爆音が響き渡っていた。しかもその耳をふさぎたくなるような音楽は、優先席に寝転がった若者のスマホから流れていた。誰もが眉をひそめるが、誰も注意しようとしなかた。若者は一人ではなかった。いかにも素行の悪い若者たちが、ドア付近と優先席を占拠していたのだ。菓子を食べながら漫画を読み、大声で話し、時に奇声をあげて、音楽を流しながら騒ぎ放題だった。優先席付近には妊婦も障碍者も、老人もいたが、絡まれるのが怖くて、誰も注意しない。駅員が先ほど注意したのだが、若者たちは駅員をおちょくって、全く静かにしなかった。一人の正義感の強い妊婦が、彼らに注意しようとして一歩踏み出した。それと同時に、誰かから肩をつかまれる。妊婦は思わず肩をつかんでいる手を見て、驚いた。その手は、皺だらけの老人の手だったからだ。振り返ると温厚そうな老人が、一人で立っていた。そして、妊婦にささやくように言った。


「あんたは、大事な体じゃ。あんた一人でなく、お腹の子まで被害を受けたらどうする? ここは、我慢じゃなぁ」

「でも」


妊婦もささやくように老人に抗議しようとした。しかしそれを見越したように、老人の手には力が入って妊婦を後ろへ押しやった。すれ違うように、老人が一歩前に出る。それを見た若者たちは、獲物を見つけた飢えた狼のように笑い、さっそく威嚇した。


「何だよ、ジジイ」

「ここは優先席じゃよ。どいてはくれんかのう?」


若者たちは老人の懇願を、笑い飛ばした。


「金でも出したら、どいてやるよ!」


そう言いながら若者たちは立ち上がり、老人に詰め寄った。老人が肩に掛けていたバッグをひったくり、財布を取り出して、漁り始める。硬貨には用がないと言わんばかりに、紙幣の入った部分だけを開く。そして、大きく舌打ちをした。


「何だよ。たった七千円しかねぇじゃん」

「これじゃ、譲れねぇな」


若者たちは、老人にバッグと財布を投げつけた。その時、酒の匂いがした。どうやらこの若者たちは飲酒した後のようだ。しかも、相当酔っている。


「困ったのぅ」


老人は頭を掻いた。総白髪の切りそろえられた髪が、わずかに乱れた。先ほどの正義感の強い妊婦は、老人が全く困っていないことを知っていた。あの皺だらけの手の握力。そして電車が傾くたびに見せる足の踏ん張り方。立っている人の多くが蹌踉としているのに、老人はいくら電車が揺れても、平地に立っているようにしていた。一体何者なのか。妊婦は若者たちよりも、得体のしれない老人を恐れていた。


「君らは、どこで降りるんじゃ?」

「ああ? 終点までだよ」

「残念でした~」


若者たちは、再びけたたましい笑い声をあげた。


「そうか。それは困ったのぅ。片側だけでも開けてくれないかのぅ?」


その電車の席は、向かい合うように一列に座るようになっていた。進行方向両側を占拠している若者たちに、老人は譲歩したのだ。しかし若者たちは、それを無視して騒ぐのを止めなかった。老人は大きくため息をついた。


「命は、もう少し大事にするんじゃよ」


そう言って、老人は若者たちから離れて、別の車両に移動した。老人が若者たちに暴力を振るわれるのではないかと、心配していた人々も、胸を撫で下ろした。若者と老人の喧嘩を期待していた人々は、落胆した。それぞれが、それぞれの反応を示す中、若者たちは相変わらず騒いでいた。

 終点の駅に電車が到着するというアナウンスが、車両内に流れ、人々は逃げるように改札に向かう。そんな中、若者たちも電車から降りてくる。その若者たちの目に、先ほど注意してきた老人の姿が目に入った。「おい、あれ」と一人が言えば、「ああ」と一人が答える。若者たちは老人を、生意気だと決めつけたようだ。老人はゆっくりとした足取りで、階段を上り、改札を出た。バスやタクシーが待つ西口ではなく、東口の駐車場に老人は一人でやって来た。駅の正面である西口は繁華街となっているが、東口は人通りも少なかった。若者たちは老人の後をつけてきたが、途中で見失った。


「何かお探しかね?」


若者たちの後ろから、老人の声が上がった。いつの間に背中を取られたのか、若者たちは気が付かなかった。若者たちはここに来て、ようやく老人の得体のしれなさに恐怖に近い感覚を得たのだが、それはびびりと言われる屈辱的なものだった。だから、誰も老人に関わらない方がいいと言い出せなかった。


「忠告したんじゃがのぅ。命は大事にするもんじゃと」


老人は、ふっと目を細めた。その瞬間、駐車場に停めてあった車に、赤い液体がかかった。


「これで少しは静かになったわい」


老人はそう言って、駅の方に戻っていった。その先には、一人の若い男が立っていた。執事服姿で、両手に荷物を抱えている。


「お着換えを。少しばかり、汚れているようでございます」

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