5.出会い

七里は恭しく、祭壇に一礼した。その瞬間だった。七里の半身に、大きな虎が噛みついていた。俺は息をのんでその場から、一歩も動けなかった。サブロウは瀕死の重傷を負っていたはずだ。水の刃が虎を貫くのを、俺もこの目で見ている。しかし虎は太い前足で、七里の体を吹き飛ばした。片腕をなくした七里の体は、吹き飛ばされて壁に叩きつけられた。そのまま七里は床に倒れこんだ。


「七里!」


祭壇から悲鳴が上がった。祭壇の中央の社から物音がした。俺は振り返って、サブロウと水牙に懇願した。


「もう、やめてくれ! 頼むから!」


俺は七里と呼ばれた男をかばった。


「どけ」


サブロウは虎の姿のまま、短く声を発した。頭の中に直接響く声だ。


「もう、助からへんよ。それより、お前にはやることがあるやろ?」

「俺に?」

「あいつら、まだ虫の息や」


俺は瞠目し、血の海に沈み、タトゥーに覆われた人々に目を向けた。まだ、体を痙攣させている。俺は両拳を握りしめ、深く息を吐いた。そして床に屈んで片膝を着き、両手を開いて床に着けた。そこから炎が床を走った。床全体に炎を這わせたので、水牙も虎も立っていられなくなった。


「何しとんのや⁉」

「この人も、助からない。だから、水牙とサブロウも、先に行ってくれ」


水牙は大きく舌打ちをして、踵を返した。サブロウは人型に戻って、瞳を抱えて祭壇の部屋を出て行った。肉の焼ける匂いが充満する。床の血の海に伏していた信者たちは、俺に信じられない言葉を口にして焼けていった。


「ありがとう」


それが、信者たちの最期の言葉になった。やりきれなかった。信者たちの死体がすっかり灰になってから、俺は炎を消した。スプリンクラーの雨が降りしきる中、けたたましい火災報知機の音が沈黙を埋めるように鳴り響く。軽い咳をして、七里は朦朧とした顔で、俺に懇願した。


「教祖様を、頼む」


意外だった。俺はてっきり、教祖様を目の前の七里が操っていたのだと思っていた。水牙もそう思っていた節がある。タトゥーを保持しているのは教祖様だが、教祖様に会うにはまず、七里に会うことが必要になる。七里が選んだ相手のみに、教祖様は能力で洗脳する。つまり能力的に人を直接操っていたのは教祖様だが、実際的に操る相手を決めていたのは、七里だと思われてきた。しかし、実際は違うのだ。


「どうして、科学者たちと手を組んだ? 一体この団体に何があったんだ?」


七里は、息を吐き出すように笑った。背中を壁に預け、足を投げ出している。片腕はもうなくなっている。


「私が彼女と出会った。それが始まりだった」


◆ ◆ ◆


 人ごみの雨の中を、私は歩いていた。そんな私の裾を引くものがあった。下を向いたまま振り返ってみると、幼くてみすぼらしい少女がいた。靴もなく、ボロボロの服を着て、傘もささずに、少女は伸ばしっぱなしの髪を濡らしていた。少女の両腕にはタトゥーが彫られていた。私もまた、みすぼらしい男だった。今考えれば、救われたのは自分だったのか、それとも少女の方だったのか、判然としない。ただ、少女を見たとき、油然と教団の構想が湧いた。そう言った意味では、惰弱な私を救ったのは、少女の方だった。会社の同僚の奸策で全てを失った私にとっては、確かな光だった。

私は自身の挙措を律し、粗忽さを隠し、臆面もなく浩然たる態度で信者に接した。しかし私は心の内に煩悶した。元々退嬰的で、厭世観しか持ち合わせていなかった。そんな私が対蹠を演じなければならなかったからだ。偽タトゥーの保持者のほとんどが、放埓で耽溺、倨傲で吝嗇家、その上無頼者だった。そんな人間の瑕瑾の塊のような彼らにとって、「救い」という光芒を見せることは好餌だった。

こちらが寛恕に接しても、一度惑溺した放埓者を籠絡することは、容易ではなかった。一時教団は、蕪雑と濫費で窮し、逃げ出すものも多くいた。そこに現れたのが、科学集団の百田という男だった。百田は私の披歴にうなずき、煩瑣な手続きなしに秘鑰を教えてくれた。私はそれに悄然としたが、端座している余裕はなかった。自画像のタトゥーによって、夾雑物を排し、尾籠を正し、峻烈に信者たちに接した。すると徐々に信者たちの挙措は質朴となり、私は恬淡と過ごせるようにまでなった。

そして、今に至る。


◆ ◆ ◆


七里の言葉の羅列には、俺は正直ついて行けなかった。元々、こうして話したり考えたりしなければ自分を保っていられないほど、弱い人間だったのだろう。きっと言葉は七里にとっての剣であり、盾でもあった。そこを、会社の同僚に付け込まれ、何らかの形で全てを失ったのだ。会社にいたなら名誉や金、プライベートなら恋人や友人、家族と言ったところだろうか。そんな中、出会った少女が、まさしく救いの手を差し伸べる教祖様だった。教団の運営も上手くいかず、困窮しているところに現れたのが、科学者集団だった。もしもここで科学者集団からの甘い誘いがなければ、この新興宗教は死体の横流しや信者の洗脳による金銭の略奪に、手を染めることはなかっただろう。もっと社会的に認められるような、新興宗教になっていたかもしれない。新興宗教とカルトは本来別のモノだ。新興宗教がすべてカルトであるわけではないし、古株のカルトもある。


「百田が……」


俺はその名前を聞くと、いまだに恐怖心と嫌悪感に襲われる。狂った科学者。まさに世にいうマッドサイエンティストの最たるものだ。今回も、巧く新興宗教に取り入っている。本当に恐ろしい奴だ。


「それで、教祖様は、どうしてオリジナルのタトゥーを?」


再び俺が七里に問いただしたが、答えは永遠に返ってこなくなっていた。壁に背を預けたままの七里は、ぐったりと頭を垂れて、すでにこと切れていた。しかしその口元には、かすかに笑みが残っているようだった。七里はもしかしたら、この結末を望んでいたのではないか。俺と同じように、誰かから断罪されることや、贖罪の機会を与えられることを、頭のどこかで常に考えていたのではないか。


「そう思いたいのは、俺の勝手か」


俺は祭壇に目をやって、部屋を出ようとした。その時、祭壇の中から音がして、ペタペタと床を素足で歩いてくる音がした。

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