四章 救済と倫理

1.夏の虫

 火災現場は建物の正面入り口だった。そこではもう既に、信者たちによる消火活動が始まっていた。そこには、眠れずにいた高木の姿もあった。しかし、焼け石に水だった。火は時間が経っても消えるどころか、勢力を保ったままだった。おかしなことに、これだけ時間が経っても延焼は正面の入り口だけで留まっていたのだ。まるで、誰かが意図的に火の調節をしているかのような、奇妙は火災だった。


「七里様! ここは危険です」

「そうです。ここは我々に任せて、教祖様を!」

「お願いです。教祖様とお逃げ下さい」

「早く、教祖様を!」


教祖様と一緒にここを離れるようにと、信者たちは口々に七里にすがった。七里が炎を前に立つと、炎がわずかに後退した。どうやら今回巻き込まれたという一般人は、どうしようもない甘い人間らしい。ここで七里を焼き殺せば、この宗教団体はほぼ烏合の衆となるというのに、そうしなかったのだ。七里は振り返り、信者たちの方を向いて艶然とした笑みを浮かべた。炎を背負った七里の姿は、まるで不動明王だった。そして七里は信者たちの信仰心を煽る。


「この火は、教祖様を害する者たちが放ったものです。しかし、それは恐れるに足りません。教祖様は必ずお守りしなければなりません。稀代の尊い方です。今から名を呼ばれた者は、私と一緒に祭壇の間へ来てください。我々の敵から、教祖様をお守りするのです。殉教を辞さない方のみ、共に参りましょう」


信者たちは七里のこの言葉に、興奮した。そして「俺も」、「俺こそ」と次々と名乗りを上げた。全員が殉教を志願したことにうなずいた七里は、数名の名前を呼んだ。幸運にも、高木もその中に含まれていた。


「他の方は消火活動を続けて下さい」


そう指示を出した七里は、高木たちを引き連れて裏口に回った。裏口にも二重鍵をはじめとする防犯がなされていたが、扉の鍵が開錠されていた。これは七里にとって想定内の事だった。侵入者たちは表の出入り口に火を放ち、そこに信者たちを集めた隙に、裏口の鍵を破って侵入したのだろう。水牙たちが所有する水墨画のタトゥーは、水を操る。鍵穴に水を流し込めば、即席で証拠が残らない鍵が出来てしまう。防犯装置のコードも、鋭い刃で切断されていた。おそらく、工場などで使われるウォーターカッターを自作したのだろう。そして、地獄絵図のタトゥーの保持者に放火させた上で、侵入したのだ。全ては、七里の計画の通りに事が進んでいるようだ。


「飛んで火に入る夏の虫、か」

「七里様、エレベーターが作動しません」


最上階で止まったエレベーターが、ボタンを押しても作動しなかった。機械は水に弱い。


「階段を使いましょう」


問題ないと言いたげに、七里は落ち着いている。血気盛な信者たちとは正反対だ。


「先に行きなさい」


七里が信者たちに声をかけると、信者たちは階段を駆け上り始めた。祭壇が設けられているのは、この建物の最上階。急いては体力を消耗してしまう。だから七里は、あえてゆっくりとした歩調で、階段を上っていった。七里にとって、全てが手の内にあったからだ。今頃、敵同士でつぶし合いを始めてくれているところだろう。鼠が虎に化けていたが、本来は動物画のタトゥーを保持した人間なのだろう。人間であるならば、洗脳することはたやすい。実際に、鼠は虎となって瞳に牙をむいていた。これで水牙とぶつかれば、勝手に互いの力を削いでくれること間違いない。しかも水牙の方が正気である分、虎の方が攻撃に回りやすいという利点もある。地獄絵図のタトゥーの保持者のことを考えれば、こちらが不利になるところだが、今の所有者は一般人。とても能力者同士の戦闘に割って入ることはできないだろう。虎と水牙が争っている間に、その一般人を洗脳してしまえば、一番望んでいた結果が見えるのだが、瞳という存在が邪魔だった。確実性を求めるのならば、同士討ちで動物画のタトゥーの保持者と、水墨画のタトゥーの保持者が死んでくれれば良かった。そして仲間割れをして、互いに憎しみ合えば、七里たちにさらに幸運が巡ってくるだろう。今は待つ時だ。七里はそう自分に言い聞かせ、静かに階段を上っていく。

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