三章 祭祀と祭司

1.余命

 一人の青年が、今日も懺悔室にやって来た。最近になって、こうして救いを求める若者が多く集まるようになった。懺悔室と言っても、ここは教会でも聖堂でもない。ただの町の一部になっている建物の一室である。青年は、震えながらパーカーの腕をまくった。そこには細密に描かれたタトゥーが彫り込まれていた。色彩はなく、水墨画のようなタトゥーだった。懺悔室の向こう側は、誰がいるのか、はたまたいないのか、分からない造りになっている。ただ、ドアを開ければパイプ椅子があり、多くの若者が自然にそこに腰掛ける。そしてまるでドラマの面会室のようなアクリル板の向こう側に向かい、自分の罪を勝手に述べて、救いを求める。アクリル板の向こう側には厚い遮光カーテンが引かれ、何も返ってこないこともしばしばある。しかし気まぐれのように、ある者には何か反応があることがある。アクリル板の前にある事務的な机に肘をついて、若者は手を組んでうなだれていた。そして、何かを急ぐように、自分の犯した罪を吐露し始める。


「職場の、職場の先輩を、こ、殺しました。こんな話、嘘だと思っていて、ただ、見せつけるつもりで、無料の彫師に頼んだら、本当に……」


まとまりがなく、要領も得ない話だった。青年は全身をがたがたと震わせ、今にも泣きそうではなく、もう既に泣いていた。傍から見たら、興ざめするような状態だった。


「助けて、助けて下さい。もう、時間がないんです。これ、知ってるんですよね? 力を使ったら、死ぬってネットで見ました。それに、ここに来れば助かるって書いてありました。だからここに来たんです。死にたくない。助けて下さい。何でもしますから。お願いです」


未練がましく、自分勝手な、命乞いだった。人を殺したにもかかわらず、自分が死ぬのは嫌だと、青年は言ったのだ。その上、自分が助かるためなら手段は選ばないと。自分が何を言っているのか、もはや分かっていないのだろう。善悪とか、罪と罰とか、倫理とか、そう言ったものの判断を放棄しているようにさえ見える、滑稽な若者だった。最近、ここにやって来る若者が多く口にするネットという言葉。そこには真実があるという幻想を抱いている。ネットという安易な方法で得られた情報に、何の裏付けも真実もないというのに、今の若者はその情報を信じて疑わない。自分の生死にかかわる情報も、その対処法も、ネットという不確定なものに頼り過ぎている。だから自分の頭で考えることを諦め、デマにすがるしかない。もしかしたら、他人が助かる方法を知っているかもしれない。もしかしたら、書籍などに助かる方法が掲載されているかもしれない。そんな可能性は最初から捨てている。自分は努力しないのに、他人のやったことには文句をつける。安易に与えられる真実めいた嘘が、その風潮を後押ししているかのようだ。果たして、青年の前に立ちふさがるカーテンに人影が映った。遮光カーテンが両側に押しやられたのだ。それを見た青年は、もう自分が助かることが決定したかのように、涙をとめて立ち上がった。おそらく、これもネットで見たのだろう。助かった人間は、アクリル板の向こうに人影を見ていて、その人物が助かる方法を知っているなど。だから青年は自分が助かると確信したのだ。


「助けて下さい。お願いします」


青年は立ち上がったまま、カーテン越しの人影にすがった。人影からは男か女かの区別もつかず、若いのか歳をとっているのかさえ分からなかった。そんな得体のしれない者に自分の命や人生を預けようというのだから、本当に滑稽だった。人影は男のようだった。そしてその人影は、静かに声を発した。


「君は、勘違いをしている」


海が凪いだような声の調子だったが、青年の耳にはその言葉がはっきりと聞こえた。


「勘違い? もしかして、死ななくて済むとか?」


自分にとって都合の良い解釈だ。それとも、青年の本音だろうか。人を殺しても罰は受けずに済み、そのまま力を行使し続けたいのだろうか。何という怠惰で傲慢で、醜悪な人間だろう。しかし案外、人間の本質とはそのようなものなのかもしれない。一皮むけば、誰でも自分勝手な生き物だ。ここに来た時点で、その人間の身勝手さが分かる。即ち、他人を殺して死にそうになったから、自分を助けろと。人間の良心は、とてつもなく脆い。


「力を行使したのは、いつですか?」


淡々と、男は青年の質問を無視して問う。自分の願望がふんだんに盛り込まれた質問を完全に無視された青年は、気分を害したのか、声に不満をにじませて答えた。


「昨日だけど?」


男の影は、うなずいて、考えるようなしぐさをとった。青年はもはや言葉遣いに気を止めなくなった。青年の普段の言葉遣いは、このようなものなのだろう。


「では、彫ったのはいつですか?」


青年とは正反対に、落ち着いた声がたずねる。青年はここに来てようやく、ネットの情報がデマである可能性に気が付いたようだ。


「助けられるのか? 助けられるのか? どっちなんだ?」


しびれを切らしたように、青年は目の前のアクリル板を叩いた。もちろん、アクリル板もその奥の男も、びくともしなかった。


「正確には、タトゥーを彫ってから一か月で、君は死んでしまいます」


男は今までと同じ声と口調のまま、青年に真実を告げた。青年の顔から表情が抜け落ち、膝から崩れ落ちるように、パイプ椅子に座り込んだ。頭を抱え、がたがたと震えだす。泣いたり怒ったり、疑ったり信じたり、忙しい青年だ。


「嘘だろ。余命一か月もないなんて、そんなの嘘だ」

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